筑後軌道の車両

20世紀初頭の筑後馬車鉄道時代 馬匹の代わりとして導入された石油発動機関車
参考文献:RM LIBRARY115 石油発動機関車−福岡駒吉とわが国初の内燃機関車
石油発動機関車は大阪市南区難波遊連橋西詰南(創業は遊連橋東詰)の福岡鉄工所・所主福岡駒吉が
明治36年(1903)に試作 同年9月29日に特許出願し
翌明治37年(1904)1月9日に特許(第6999号)を取得した国内初の内燃機関を採用した機関車であった
同鉄工所はボギー式客車・貨車の鉄道車両をはじめ 鉄道諸機械・鉱山・紡績・製紙用諸機械・水車
及びポンプなどの製造を手がける機械製造業だが その規模は町工場的なものであった
創業は明治22年(1889)頃とされるが 詳しいことは不明である
資料によれば 明治27年(1894)から明治44年(1911)間に製造された車両の内官営鉄道に納入または
買収編入された両数は 客車111両・貨車100両とされるが この数字には近畿山陽中国の
国有化されなかった私鉄に納入された客貨車は含まれていない
明治36年(1903)頃の工場移転を契機として手広く工場規模を上回る程の供給力を誇った客貨車製造は
大手車両製造会社の台頭と共に次第に衰退し かわって「工業用無点火石油発動機」の製造販売に
勢力を傾けるようになり 車両製造の起死回生を計ったのが
自社製「焼玉機関」搭載の国内史上初の内燃機関車への進出であった
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祐徳軌道の福岡式石油発動車 最高保有数23両
明治37年(1904)祐徳馬車鉄道会社を設立 肥前浜宿の西口・石木津から藤津郡五町田村まで開業
祐徳軌道に改称し 明治42年(1909)には長崎本線高橋駅−武雄−塩田−鹿島−祐徳門前(祐徳稲荷)を
結ぶ軌道を運営した 昭和5年(1930)肥前山口−肥前浜間に国鉄有明線が開通し
収支が悪化したため 昭和6年(1931)有明ルートの長崎本線延伸開通による補償を受け廃止解散した
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明治33年(1900)発行 大阪市新地圖
新川は亨保18年(1733)に難波御蔵(公儀米蔵)と道頓堀川とを結ぶ水運堀川として開削され
明治12年(1879)に水質悪化のため鼬川まで延長開削された 難波御蔵は明治30年(1897)に解体され
大蔵省専売局の煙草工場となったが第二次大戦で焼失 昭和25年(1950)跡地に大阪球場が建設された
平成15年(2003)以降は複合商業施設の「なんばパークス」となっている
丸印:新川(入堀川)に架かる遊連橋 1.南海鉄道難波停車場(明治18年開業)
2.大阪鉄道湊町停車場(明治22年開業) 3.遊連橋西詰南
当初の福岡鉄工所は 難波停車場と大蔵省難波倉庫の間・遊連橋東詰で創業したが 明治36年(1903)に
遊連橋西詰南へ移転した 移転の理由は大蔵省による用地買収の可能性が高いが 大阪専売局の創立が
大正2年(1913)6月であることから南海鉄道による買収の可能性も外せない
遊連橋は現在の浪速区難波中の交差点にあたり 遊連橋西詰南は難波中1−3丁目までとなる
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祐徳馬車鉄道導入機
石油発動機関車特許申請明細図 第一図

明治37年(1904)2月6日発行の鉄道時報229号に掲載した福岡鉄工所・石油発動機関車の広告によれば
本機ハ筑後馬車鐵道株式會社線路吉井町ヨリ田主丸町ニ至ル四哩間ニ於テ試運轉ヲナシタルニ
一點ノ故障ナク非常ノ賞賛ヲ得會社ハ直チニ動力變更ノ出願手續中ニシテ常時ノ現品會社ニアリ

と書かれているように 試作機のデモ運転を筑後馬車鉄道で行った
明治37年(1904)開業間もない筑後馬車鉄道に10両投入され 翌年には全ての馬匹を廃止させるに至った
その後 各年において25両・15両・7両を増車  明治40年(1907)には総数47両を保有した
旅客営業鉄軌道として史上最多の内燃機関車保有台数となる
その後 大正2年(1913)まで47両を保有し続ける その理由については以下の点に集約される
1. 駒吉の作る機関車はとにかく安かったのである 大正2年(1913)の筑後軌道車両購入予算書によれば
石油発動機関車・単価:1500円 30人乗りボギー客車・単価:1550円で 客車より安い
2. 馬の飼育コストに比べ「ランニングコスト」がはるかに低い
3. 当初5馬力という低出力にもかかわらず採用された裏には 前近代的な軌道出願特許状の項目が関係した
軌道は道路に併設するという大前提があり 軌道条例では動力が人力・蓄力の他
市街地での路面電車を想定していたため客貨車の連結運転は想定外であった
石油発動機関車においてもその命令書に「原動力車には客車又は貨車二車又は二車以上を連結して
進行することを得ず(牽引は客車か貨車どちらか一両のみ)」と記され また速度についても
「進行の速度は一時間八哩を超過せしむることを得ず(制限時速12.87km)」と動力の種類に関係なく
定められていたので低出力の機関車でも額面通りの要望には答えられたのである 余談ではあるが
「北九州門司港レトロ」と「めかり潮風市場」を結ぶトロッコ列車は現在日本一遅い列車として有名で
時速15kmの遅さを誇っている この列車に乗ったとき驚くほど遅く感じられたが
これよりも遅い歩行速度程度の列車が走っていたことになる しかし鉄軌道を経営運行する側として
この条例に律儀に従っていたわけでもなく 繁忙期には複数の客貨車を索引していたことは事実である
そのためのストレスは大きく 小型蒸気機関車の国内生産が始まると 蒸気機関車への転換が進んだ
4. 駒吉の機関車は蒸気機関車に比べ単純な機構を採用していてため
ローカル軌道が自前で修繕保守が簡単に出来ることが”セールスポイント”であった
5.「焼玉機関」は高精度を必要としない代わりに”ばらつき”が多く故障も多かった
不具合には交換機でもって対処するため 大量に保有する必要があったことは否めない

焼玉エンジン
1886年(明治19年)に英国のハーバート・アクロイド・スチュアートが考案し試作したレシプロエンジン
1890年(明治23年)にその特許を申請 1892年(明治25年)に英国の
リチャード・ホーンスビー・アンド・サンズ社がスチュアートの特許により初めて商品化した
この単気筒エンジンは 特許出願者と製造者の名を採り「ホーンスビー・アクロイド式機関」と呼ばれ
4ストロークエンジンであった 電気火花装置(スパークプラグ) 気化器(キャブレター)
タイミング調節(ディストリビューター)などを必要とせず単純簡素な機構を持つ機関であった
その後 スウェーデンのボリンダー社によって改良型の水冷2ストローク焼玉エンジンが開発され
ボリンダー式機関と呼ばれ 日本では漁船などのエンジンとして普及し代表的な焼玉エンジンとなった

焼玉エンジンの特徴は点火機構にある
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始動時に焼玉(図の1)と言う気筒頭部の球状錬鉄
あるいは鋳鉄製部品を 外部からバーナーで加熱して蓄熱させ
赤熱状態になったときに 焼き玉に燃料を直接噴射し
気化燃焼爆発させる機構を持つ
船舶などの場合は蓄熱に炭火を使うこともあった
運転開始後は外部からの加熱なしに燃焼熱で赤熱状態を保ち
連続稼動させる 外部からの熱で発火を幇助するという構造から
気化性の悪い灯油・軽油・重油を燃料とすることが可能で
また噴射機構も極めて構造が簡単なことから製造が容易であった
点火式石油発動機共々世界各国で汎用エンジンとして普及した

左図は2サイクル注水式焼玉エンジンの構造図である
1.焼玉 2.シリンダー 3.ピストン 4.クランクケース

H.A・スチュアートのグローエンジンは
日本にも19世紀末期に移入されたが 構造の簡易さから
高い工作精度を必要とせず 20世紀初頭には国産化され
多くの中小メーカーが製造するようになった

焼玉機関は ボイラーなど大がかりな設備を付帯する蒸気機関を必要としない工場や小型船舶等に最適で
その運転稼動に高度な技術も必要としなかったため 戦前の日本では広く普及していた
回転に伴い「ポンポン」と排気筒から威勢良く吐き出す独特の大きな音と輪煙
それに単気筒機関に不可避の振動が特徴で 日本では焼玉機関船を俗に「ポンポン船」と称した
しかし 焼玉機関はディーゼルエンジンに比べ 圧縮比が低く 高回転・高出力を得ることが困難で
燃費も悪く尚かつ出力に比べ 容積・重量が大きいという弱点もあり
1950年ごろからは 熱効率の高い小型ディーゼルエンジンの発達普及とともに使用されなくなった

なお焼玉機関といっても小型機関ばかリとは限らず 昭和10年(1935)には
世界最大 6気筒900馬力機関搭載貨物船(1472頓)が建造され 戦時中粗製乱造された戦時標準船には
4気筒320馬力焼玉機関船(870頓)もあった 1960年代の経済高度成長期以降は
小・中型ディーゼル機関の急速な普及で消滅したが 2014年4月に閉館した大阪交通科学博物館に
展示されていた10馬力漁船用焼玉機関は昭和41年(1966)1月製造で おそらく最終段階の製品であった
現在でも模型飛行機のエンジンには焼玉式の一種であるグローエンジンが多く用いられている
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久留米市内を行く石油発動機関車

明治40年(1907)から47両を保有していた筑後軌道だが 明治44年(1911)には蒸気機関車4両を導入し
その後蒸気機関車の保有台数が伸びると共に 駒吉の機関車は台数を減らしていった
保有を続ける石油発動機関車も7馬力へ強化されたが 大正5年(1916)の許可条項改正で速度引き上げと
連結全長緩和により 一挙に蒸気機関車へと変更されていった
また大正8年(1919)には 市街地の久留米−千本杉・国分線・豆津線が電化され
千本杉−日田間を蒸気機関車にて運行することになった
石油発動機関車は昭和4年の廃線まで2両のみ残され保有を続けた
駒吉の機関車は80数両製造されたらしいが 納入先については 仙南軌道(宮城)・有田鉄道(和歌山)
遠くは朝鮮の清津会寧間・軽便鉄道などに見られる しかし全貌については不明な点が多い
筑後軌道から大量放出された石油発動機関車は 佐賀の祐徳軌道(武雄−祐徳稲荷)唐津軌道(浜崎−佐志)
川上軌道(神野−川上村)福岡の南筑軌道(羽犬塚−八女)黒木軌道(八女−黒木)柳川軌道(瀬高−柳川)
へ譲渡され南筑軌道(1922年黒木軌道を吸収合併)ではその後 昭和15年(1940)の廃止まで保有していた
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南筑軌道福島駅(福岡県八女市土橋交差点)操車場の石油発動機関車
現在この地は堀川バス本社及び堀川バスセンターとなっている 写真に写る大丸洋品店は無くなったが
左の瓦葺きの建物は今も存在する 土橋交差点の北側に西鉄福島線(軌道電車線)の福島駅があった
西鉄福島線は 昭和33年(1958)11月に全線廃止された
南筑軌道は 明治36年(1903)6月に南筑馬車鉄道株式会社として設立され
同年8月には九州鉄道の羽犬塚駅−福島間を開業し 12月には2.2km東の山内まで延伸開業している
明治40年(1907)南筑軌道に改称 大正4年(1915)から筑後軌道より石油発動機関車を順次譲り受け
最盛期には20両を所有 廃線時は13両保有していた 始動は前部を開き発動機頭部をバーナーで炙る
サイドにクランクを付け開放弁を開いて 弾み車を勢いよく廻し再度弁を閉じて燃料を送ると始動が始まる
いちど動かすと途中で止めることは出来なかった 排気煙突からポーンポーンという壮大な排気音と共に
注入された冷却水の水蒸気が吐き出されていった そのため「ポンポン蒸気」の別名もあった
その後 南筑軌道は大正12年(1923)山内−黒木間を運行していた黒木軌道と合併し
羽犬塚−黒木間を営業運行していたが 国鉄矢部線の着工が決定され 戦時中の金属回収令に呼応して
昭和15年(1940)6月に軌道全線を廃止しバス運行に転換したが 昭和17年(1942)に
堀川自動車(現・堀川バス)に買収された 現在は堀川バスの羽矢線がほぼ同じルートを通っている

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福岡鉄工所発行の年賀葉書
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駒吉は明治43年(1910)2月7日永遠の眠りについた 同時に駒吉機関車は改良も製造も終焉を迎えた
この参考文献のあとがきに次の言葉がある
『「駒吉機関車」は わが国に出現間もない焼玉機関の製造販売のみに飽き足らず
市井の技術者が自ら応用し 1903(明治36)年に創出した町工場製「アイアン・ホース」であった
こんな低精度・未熟・不完全な車両が商品として販売され就役したこと自体
わが国がまさしく発展途上国であった証左としても 今少し見直し評価もされて然るべきではあるまいか
感情移入過多との批判も当然あろうが さらには駒吉が今少し長命していたらなどとも考えたくなる
諸説あるが わが国最初の輸入内燃機関付き二輪車(オートバイ)の出現は 明治29年(1896)1月
四輪車は明治31年(1898)2月 国産四輪自動車の出現は蒸気機関搭載が明治37年(1904)
同内燃機関搭載は明治38年(1905)となっている 駒吉がこの機関車を手懸けた
明治36年(1903)時点では わが国内には 手本にすべき自動車すら皆無に等しかったのである・・・』

因みに 現在車両用動機として多く用いられているディーゼルエンジンは
明治30年(1897)にドイツで発明されたのだが ディーゼルエンジン以外の内燃機関は
既に19世紀半ば頃には開発がされていた しかし 内燃機関は蒸気機関や電気モーターと異なり
出力と回転数が比例して増大する特性があるため 発進加速時に最大の出力を必要とする鉄道車両では
機関と共にトルク増大装置(トルクコンバーター)を必要とした
これが要因となって鉄道車両への導入には長い年月を要したのである
 世界で初めてディーゼルエンジンを 鉄道車両用に用いたのもやはりドイツで
大正元年(1912)プロイセン州営鉄道導入機が最初のディーゼル機関車であった
駒吉が初めて手掛けた内燃動力式機関車である石油発動車から9年の歳月が流れていた

蒸気機関車
蒸気機関車は全て動輪配置が0-6-0のCタンク機である 資料では 全長 3.95m 幅 1.68m となっている
軌間 762mmの耶馬溪鉄道に 初期導入された1911年製の大丸組払い下げコッペル機関車は
同じCタンク機であるが 全長 4.893m 幅 1.715mなので 軌間 914mmの機関車にしては
軽量小型で尚且動輪も小径で非力であったと思われる  角形窓・煙突及びドーム形状及び年代考察から
雨宮製作所(大日本軌道鉄工部)製の蒸気機関車と推察する 雨宮が関東大震災で壊滅状態となったため
自社製機関車の形式諸元は不明のものが多く詳細は不明である 水槽サイドタンクが全く無い形式で
ウェルタンク(ボトムタンク)式蒸気機関車と思われるがかなり小さな部類に入る
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nagatani
<上>は豆田駅の機関車
<左>大正10年の水害を受けた長谷駅のタンク機
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