2017.05.01 島根県安来市 城下町広瀬と月山富田城址

月山富田城(がっさんとだじょう)
富田城は 靴のような形の月山(吐月峰:標高191.5m)にあり 山に続く南東方向以外の三面は急峻な斜面で
北側の菅谷口を大手として 山麓部から山頂部へ郭を連ね山上に本丸を置く典型的な中世の山城である
創立年は古く 平安時代の保元〜平治頃に「平景清が富田荘に八幡社を移し築城した」との伝承が残る
鎌倉時代の承久3年(1221)佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となり居城とした この中世期は
後に城とされるような大規模な物ではなく 館または陣屋と呼ばれるものであった
以後 歴代の出雲国守護職の居城となった 室町時代の明徳3年(1392)出雲守護職となった京極高詮が
甥の尼子持久を守護代とし尼子氏が代々歴任し富田城を居城とした
文明16年(1484)尼子経久が所領横領により追放され塩谷掃部介が守護代となるが 文明18年に城を奪回し
月山富田城を拠点に武力によって勢力を拡大していく 時は戦国時代となり尼子氏が出雲地方の支配者となった
天文6年(1537)に家督を継いだ晴久は 出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後八カ国の守護
及び幕府相伴衆を朝廷より任ぜられた 天文9年(1540)3万の軍勢で安芸へ侵攻し毛利氏を攻めるが失敗
天文12年(1543)逆に大内・毛利連合軍に攻められるが これを撃退する
永禄8年(1565)毛利軍の包囲を受け籠城するも 翌年には兵糧が尽き 開城降伏して尼子氏の時代は終焉する
以後は毛利氏の領地となり城代として毛利家臣が居城するが 毛利氏が関が原の戦いにより周防長門に減封され
慶長5年(1600)堀尾忠氏が遠江浜松から出雲松江に加増移封され富田城主となる
慶長16年(1611)二代目藩主堀尾忠晴が松江城に移り月山富田城は廃城となる
発掘されている石垣は 江戸初期の堀尾氏による改築と推定される 尼子氏が城主であった中世の姿は
今は定かではないが 尼子氏の館は里屋敷とよばれ菅谷口にあって 周囲に侍屋敷を設けたとされる
昭和9年(1934)国の史跡に指定された
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掲示板より富田城絵図
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対岸より見る月山富田城阯
山中御殿 菅谷口の虎口門跡
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尼子氏時代から残る山中御殿から山城「三の丸」への七曲り
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七曲り口
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山吹井戸
山吹井戸の石碑
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七曲りと山中御殿広場
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三の丸跡と広瀬の街並み 広瀬は寛文6年(1666)に新たに作られた町
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三の丸跡の三角点 標高183.8m
二の丸跡
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本丸跡から見る二の丸跡 間に堀跡がある
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本丸跡の富田城守護神・勝日高守神社
創祀は第29代欽明天皇31年(一般的に西暦570年)といわれる古社で 築城以前より月山に祠が鎮座していた
祭神は大己貴幸魂神(おおなむち さきみたまのかみ)で 配祀が月夜見神(つきよみのかみ)となっている
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幸魂神とは 神や人には荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)の
四つの魂があり それらを統べる直霊(なおひ)という霊が存在すると考えられ一霊四魂と呼ばれる
和魂は調和・荒魂は活動・奇魂は霊感・幸魂は幸福を担うとされる

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祭神の大己貴幸魂神は 大国主命(オオクニヌシノミコト)の四つの魂のひとつ幸魂である
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尼子氏再興に生涯を賭けた山中鹿介を偲ぶ碑
勝日高守神社
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石灯籠に天保十己亥(1839)三月吉日の銘
三の丸石垣

花の壇
花ノ壇は、花がたくさん植えられていたことからその名称が付けられました。花ノ壇は敵の侵入を
監視できることや、山中御殿との連絡が容易なことから、指導力のある武将が暮らしていたと思われます。
発掘調査により、花ノ壇には多くの建物跡(柱穴)が発見された部分(南側)と、
ほとんど見つからなかった部分(北側)がありました。このことから花ノ壇の南側は武将の生活の場として、
北側は戦の時に兵士達が待機する場として利用していたと考えられます。また2棟の建物は
発掘された柱穴をもとに復元したものです。主屋を休憩施設、侍所を管理棟として活用しています。
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掲示板の発掘図
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奥が母屋(休憩棟) 手前は侍所(管理棟)
管理棟内部
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母屋の竃
母屋内部

城下町広瀬
富田城は390年もの間 山陰の要衝の地であった 元の城下町は広瀬中学校のある富田にあった
この町は 鎌倉時代に出雲国守護職の居城となった1221年から 江戸時代藩庁が松江城に移る1611年まで 
出雲の中心であった 堀尾忠晴が松江城に移ると富田は急速に荒廃したが 寛文6年(1666)に支藩の
広瀬藩が創設され 松平近栄が藩主となり広瀬に陣屋が作られた 陣屋は安来市広瀬庁舎の所にあった
広瀬藩の創設によって富田は再び城下町の面影を取り戻したが 同年秋の暴風雨による大洪水によって
富田の市街地は流失してしまった その後 新たに富田川の対岸・広瀬の陣屋周辺に町が建設された
明治以降は 内陸部にある広瀬は流通経済から取り残され また名産品の広瀬絣も洋服の普及とともに
生産量が激減し衰退の一途を辿った 大正時代末期 繁栄を取り戻すべく鉄道敷設計画を立て
広瀬鉄道株式会社を設立 下付された鉄道免許状では動力蒸気としていたが 当初から電化を目論見
昭和3年(1928)7月 山陰本線荒島駅−出雲広瀬駅間8.3kmに電気鉄道を開業した
県内の電気鉄道としては 一畑電気鉄道北松江線に次ぐ開業であったが その後第二次大戦中に国策として
伯陽電鉄と合併し山陰中央鉄道の広瀬線となり 大戦後は独立して会社名を島根鉄道とした
しかし 昭和29年(1954)12月に 経営難から一畑電気鉄道に吸収され 同鉄道の広瀬線になった
その後は 設備投資もままならず 老巧化が顕著となった昭和32年の株主総会で廃止が決議された
沿線住民による強固な反対運動が起きたが 広島陸運局による監査で存続困難という結果が出て
昭和35年(1960)島根県による調停案を受け入れ 同年6月廃止となり32年の歴史にピリオドを打った
起終点と途中駅は 荒島−仲仙寺−西赤江−西中津−田頼−小原−飯梨−植田−鷺の湯−鷺湯温泉前−出雲広瀬
線路跡の多くは県道180号線に転用され 出雲広瀬駅跡は 現在・市営栄町住宅と栄町集会所となっている
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尼子の里のまちあるきMAP(時代考証からは尼子の里とは言い難いが)
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早朝の新市商店街
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土蔵
尼子経久・清定の菩提寺 曹洞宗・洞光寺
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清酒・月山 吉田酒造(株)
酒蔵の黒壁
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島根の銘水百選「お茶の水井戸」
寛文6年(1666)4月、広瀬藩創設以来藩主が使用していた萩の茶屋は、藩邸の北西に位置する御山にあり、
そのふもとにあった井戸水がお茶の水として歴代藩主によって保存使用されて来たと言われている。
お茶の水は不昧流茶道で最高の水といわれ第八代藩主、松平直寛(1783〜1850)は、宗藩の
松平治郷(不昧公)に特別に重用され、親しく師事して茶道を学んだ。茶人、根土宗藤も、不昧公に師事し
広く藩士、町家に伝え広瀬藩では不昧流が盛んになった。明治4年廃藩置県に至るまで206年間
藩邸のお茶の水として飲用されたこの水も昭和時代に至り、埋もれた古井戸となりわずかにわき出しているに
すぎなかったが町内の吉田酒造株式会社が、島根大学の理学博士、三浦教授の指導のもとに井戸掘り工事をし
地下岩盤よりわき出す豊富な純良水を確保し、206年間藩主の使用した当時の井戸水に復元した
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上町から新町へ
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町から見る月山富田城の三の丸
朝山醫院
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バス停の掲示板 悲壮感皆無の尼子勢
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吉田酒造 裏手
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家並みと裏山
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