2015.10.24  広島県竹原市本町 竹原町並散歩

竹原は 江戸時代中期から明治にかけての町並みが残り 安芸の小京都と呼ばれる商家町で
本町通りを中心とする町並み保存地区は 国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている

古代において加茂郡の中心地は 現保存地区の7km上流の新庄であった 飛鳥時代に山陽道が整備されて
都宇駅(馬屋)が置かれ 大化の改新頃には湯坂温泉郷に集落が出来て宿場町となった
平安時代には荘園(安芸国竹原荘)が開かれ 後の平安時代中期・寛治4年(1090)に 朝廷より
京の賀茂社(下鴨神社)に寄贈され 以降は下鴨神社の荘園として発達し賀茂の名で呼ばれるようになった

室町時代頃から 港の市場集落として下野村(下野町)の海岸付近に馬橋古市が形成された
下野村の市場集落は戦国時代までは機能していたが 次第に賀茂川の流出土砂が入江の西側へ堆積したため
天文9年(1540)東部の下市村に港が築かれた この下市村が現在の竹原町並み保存地区の元となった

江戸時代初期の正保3年(1646)浅野家広島藩が賀茂川下流を干拓し 新田開発を試みたが
土壌塩分が多く耕作には不適という結果に終わった 正保4年(1647)に本川堀の船着き場が開かれ
慶安2年(1649)には 藩の浦辺御蔵所が設置され米の積出港として栄えた
同期に 賀茂川下流域の耕作不適な新田を塩田に転換すべく 浅野分家の赤穂藩から製塩技術者を招き寄せ
慶安3年(1650)から入浜式塩田による製塩が開始され 塩田開発による塩の積出港としても栄えることとなった
さらに 慶安4年(1651)から寛文4年(1664)にかけて町並が整備され 先進的な港湾都市へと発展した

廻船や北前船による海運業の繁栄と伴に 米が大量に流通していたことから酒造業が盛んとなり
後に「安芸の小灘」といわれるほど 中国地方有数の酒処へと成長していったが
藩による販売制限や 天明の大飢饉などで米の供給量が減少したことで発展が一気に鈍化した
一方の製塩業も 享保年間末期には他藩でも塩田開発が進み 供給過多となって塩価格の下落を招いた
また 製塩に必要な薪を得るため周辺の森林が乱伐され これにより薪の価格が上昇して収益が減少し
宝暦・明和年間(1751-1971)には塩田経営は不況となってしまった
しかし この不況の中において 塩田の大規模化や質見世・酒造業・廻船業・問屋業などの多角経営化に成功し
財をなした豪商があらわれ 大きな邸宅を構えるようになって現在に残る町並が形成された

明治維新前後 酒造業は自由販売・自由免許制となり 県外へと販路を求めたが 他の産地との競合により
質の向上が図られた 三浦仙三郎による「三浦式醸造法」の普及により 竹原のみならず広島の酒は
全国有数の上質のものになっていった 近代になり竹原の酒造業が良質ともに発展する中で
ニッカウィスキーの創業者竹鶴政孝が誕生した 一方の製塩業は 国の専売制により明治以降は衰退していった

昭和7年(1932)7月 国鉄三呉線の終点駅として竹原駅が開業 本川に鉄橋が架けられ船の通航が出来なくなり
新しい港が市街地より南に開かれ 内陸部に取残された旧市街地となった
以降は大規模な開発が成されず 第二次世界大戦の戦禍からも免れ町並が残されることとなった

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新町観光駐車場の案内図
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楠神社 忠海長浜 楠神社の勧請分社
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竹原 本町三丁目
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歴史民俗資料館 旧町立図書館竹原書院 昭和5年(1930)竣工 木造2階建て瓦葺き

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県史跡 頼 惟清旧宅
幕末の歴史・思想家の頼 山陽の祖父 惟清(これすが)が紺屋(染物屋)を営んだ建物
惟清の本名は又十郎といい 天明3年(1783)77歳で没した 長男の春水・四男の杏坪は学者となり広島藩に仕える
三男の春風は医者となり竹原の家を継いでいる 次男と五男は早世している この竹原の旧宅は
安永4年(1775)頃の建築であり 頼家発祥の地として旧状を保っている 重層屋根・入母屋造本瓦葺の主屋と
南に接する単層屋根・切妻造本瓦葺の離れ座敷から成り双方とも塗込造である
主屋の道路側八畳の間が紺屋の店であったものと思われる

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胡堂(えびすどう)
大林宣彦監督の映画「時をかける少女」のロケ地で 地震で瓦が落下してくる場面で出てくる
その他この映画では 頼惟清旧宅・西方寺・堀川醤油店など 尾道と同様竹原の町並も多く使われている
ここは枡形の道で 上市・中町・下市の本町通り最北に位置し 角を折れてから松原町になる
西国街道・新庄の追分から竹原へ下ると ここが町の入り口となっている
ここに胡堂と塩浜の守護として信仰されていた地蔵堂があり 上市の商業の守護神であるとともに
一種の 厄除け神や塞神(庚申神)と考えられる 胡堂の建築は前室付の一間社流造で
竹原の祠堂では最も古く最大規模であり 延宝9年(1681)の棟札から見て江戸時代中期の建築と考えられる
祭祀そのものは中世の古市からの移行を考えれば 商業の神としてかなり早くから存在していたと思われ
江戸中期以降 三日・十三日・廿三日に市が開かれ 塩田用の縄や塩入れのカマスなどの売り子で賑わった

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何らかの原因で漆喰が一部でも剥がれると土壁は徐々に崩れてゆく
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松阪邸 市重要文化財
波打つような大屋根 ウグイス色の漆喰壁 塗込菱格子の虫籠窓 緩やかに弧を描く本瓦葺の下屋根など
界隈でも独創的な雰囲気を持つ 塩田を経営していた浜旦那と呼ばれる豪商の邸宅
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洋館の妙見邸 旅館として使われていたらしいが 商事会社風の建物である
妙見菩薩は亀に乗って現れる なので マークは「亀」??
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竹原はモノクロ写真が似合う
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小笹屋 竹鶴酒造 ニッカウィスキーの創業者 日本の「ウィスキーの父」と呼ばれる竹鶴政孝の生家
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本町通り南端の路地 右は笠井邸 奥が増森邸
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三階建て「梅谷呉服店」 日の丸写真館と同様 昭和初期の建築と思われる
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「梅谷呉服店」斜め向かいの 同じく三階建ての「日の丸写真館」
竹原在住の大工・吉名一次郎によって 昭和7年頃に建てられた写真館で
町並み保存地区に隣接する旧船着場前の住吉神社横に建ち 個性的な外観が特徴となっている
窓等の開口部の配置は建築当初の状態をよく保ち 昭和初期の建築技術の高さを今に伝えている
幕末期に日本に伝えられた写真という 新しい産業技術を営んだ場であることと
さらにその佇まいが「国土の歴史的景観に寄与している」と高く評価され 国登録有形文化財に登録された
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