2015.10.24  広島県呉市 とびしま海道と御手洗の町並

とびしま海道
正式には 安芸灘諸島連絡架橋と舌を噛みそうな名で呼ばれ 本州の広島県呉市と安芸灘諸島の島々を結ぶ
八つの連絡橋の総称である 一般的には愛称の「安芸灘とびしま海道」または単に「とびしま海道」と
呼ばれることが多く しまなみ海道と同様 島内の道路を含めた全体を指すことが多い
小規模な橋ながら7号橋の岡村大橋によって 広島・愛媛の県境をまたいでいる
8号橋の岡村島-大崎上島間は 計画されてはいるが 事業化には至ってはいない未定区間である
また 岡村島-小大下島-大下島-柏島-大三島を繋ぎ 西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)に
接続する構想もある 大崎下島から岡村島に至る5号・6号・7号橋を 別称で安芸灘オレンジラインという

平成24年度に 広島県によって 広島県呉市川尻町と愛媛県今治市関前岡村を結ぶ区間に
「とびしま海道サイクリングロード推奨ルート」として 車道にブルーラインと距離程の標示などが整備された

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<Google Earth>
A:下蒲刈島(しもかまがりじま) B:上蒲刈島(かみかまがりじま) C:豊島 D:大崎下島
E:平羅島(へらしま) F:中ノ島 G:岡村島 H:小大下島(こおげしま)
① 安芸灘大橋(H12)② 蒲刈大橋(S54)③ 豊島大橋(H20)④ 豊浜大橋(H4)⑤ 平羅橋(H7)
⑥ 中の瀬戸大橋(H10)⑦ 岡村大橋(H7)⑧ 岡村島-大崎上島間は未定
安芸灘大橋は有料 その他は全て無料となっている 大崎下島(D)の最東端に御手洗の町がある


しまなみ海道から竹原市本町を経て安芸灘とびしま海道へ
しまなみ海道の大島よしうみいきいき館を午前7時30分に出発 伊予大島の西海岸を通り しまなみ海道で尾道へ
国道2号線で三原へ 三原からは国道185号線で竹原へ 竹原本町の町並みを散策後
呉市川尻町からとびしま海道を通り最東端の岡村島へ 少し戻って御手洗の町並みを散策する
愛媛県今治市吉海町 よしうみいきいき館―103km―竹原―61.2km―岡村島―7.5km―広島県呉市豊町 御手洗

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14:26 とびしま海道最東端の町 愛媛県今治市関前岡村 サイクリングロードのブルーライン
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姫子嶋神社は島の鎮守社である
光仁天皇の時代 天皇の勅によって伊予国越智七島に鎮座した三嶋宮七島七社の一社である
創祀は宝亀10年(779)で 三嶋大明神と称していたが 岡村島が嘗ては姫子島と呼ばれていたことから
明治4年に姫子島神社と改称し智島神社を合祀して 主祭神を木花開耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)とした
そのほか 大山積命をはじめとする18柱の祭神を祀る賑やかな神社である
木花開耶姫命は 日本神話に登場する女神で 一般的には木花咲耶姫と表記される
大山祇神社の祭神・大山積神(オオヤマツミ)の娘で 天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の妻となり
火照(ホデリ=海幸彦)・火須勢理(ホスセリ)・火遠理命(ホオリ=山幸彦)の三神を生んだ
『古事記』では木花之佐久夜毘売 『日本書紀』では木花開耶姫と表記される
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岡村港

「しまなみ海道」および「とびしま海道」の通る島々を芸予諸島と呼び 東は鞆の浦と今治港を結ぶライン以西
西は能美島・江田島・倉橋島以東とされている また「とびしま街道」で陸続きとなった最東端の岡村島と
その東に続く小大下(こおげ)島・大下(おおげ)島の三島を 以前より関前または関前諸島と呼び習わす
その名は周防灘にある上関の手前にある風待ち・潮待ちの島々であったことが由来となっている

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岡村島の観音崎 「私自身の眼」では岩が「河童」と「鼠」に見える
2024年に調べると ネズミではなくウサギになっていた 耳が無いけど?
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乗越海岸南突堤の先に大崎下島
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岡村大橋
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岡村島西海岸から見る平羅橋・中の瀬戸大橋・岡村大橋
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14:51 岡村大橋の人待瀬戸展望台から豊町大長の集落
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平成7年(1995)架橋 岡村大橋 橋長:228.0m
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平成10年(1998)架橋  橋長:251m
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平成7年(1995)架橋 平羅橋(へいらばし) 橋長:98.5m
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大崎下島の架橋記念公園前から 平羅橋と中の瀬戸大橋
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とびしま海道現7橋のうち 一番短い平羅橋
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架橋記念公園 平羅橋・平羅島 中の瀬戸大橋・中ノ島

広島県呉市豊町御手洗
観光協会のキャッチフレーズは「見たらいい町・御手洗」である

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国土地理院空中写真 平成14年(2002)4月18日撮影

寛永年間(1624-1644)頃から 農耕地であった御手洗に 風待ち潮待ちの船が投錨するようになった
当初は 御手洗の北隣にある大長村(豊町大長)の住民が 船の求めに応じて野菜や水などを売っていたが
停泊する船が次第に増えた為 村民から港の整備と町割を広島藩に求めた 寛文6年(1666)藩は町割を許可し
御手洗港も整備され こうして御手洗の「港町」としての歴史は始まるのである

寛文12年(1672)に 日本海から瀬戸内をまわり大阪に至る西廻の北前船の海運ルートが確立したことから
御手洗に北前船などの廻船が寄港するようになった さらに藩は御手洗・宮島・尾道の三港のみに
他国米の取引を認可したため 広島藩内での米取引の重要拠点となった それにより元禄時代(17世紀末)から
急速に発展し 埋め立て工事が数度に渡り行われ 港は拡大して文政時代(19世紀初頭)には 中国随一の港と
自負するほどにまでになった 記録によれば 当時は北前船の他 幕府御用船・参勤交代の大名船・オランダや
中国・琉球国王の船などが寄港している 交易が発展する中で豪商が生まれ 文化的にも成熟して
春秋2回の芝居興行も行われていた 亨保9年(1724)藩の認可で待合茶屋の若胡子屋が開業し その後
堺屋・藤屋・扇屋の順で開業して花街ができ 普通の茶屋の営みの他「おちょろ船」と呼ばれる船で
停泊している船を回り売春や家事もする商いが行われた 幕末になり広島・薩摩の「芸薩交易」が始まると
文久3年(1863)には御手洗がその拠点となり外国船が寄港するようになった しかし明治以降は
汽帆船の登場により風待ち潮待ちの必要がなくなり その上山陽鉄道の開通によって相対的に海運が衰退し
御手洗の町は衰えていった 開発とは無縁な瀬戸内の島嶼部であったことから経済成長から取り残され
偶然的に町並や風情は手つかずのまま時が流れた 昭和初期まで港・遊郭の町として「おちょろ」などの
栄華の余韻を残していたが 売春禁止法施行後それも消えてしまった

平成3年(1991)の台風第19号による記録的な高潮被害を受けて 住民による町並み保存活動が始まり
平成6年(1994)重要伝統的建造物群保存地区に指定された 同年には保存活動を始めた住民たちによって
「重伝建を考える会」が発足 町並み保存活動は今も続いている

昭和54年(1979)の蒲刈大橋開通から始まった安芸灘諸島連絡架橋工事は
平成20年(2008)の豊島大橋開通により岡村島まで本土と陸続きとなり 同年に行われた愛称の公募により
安芸灘大橋から岡村大橋の区間が「安芸灘とびしま海道」に決定した
江戸時代の港町・御手洗は ゆったりとした時間が流れるレトロな空間として脚光を浴びつつある
Link:見たらいい町、御手洗マップ

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15:10 無料の御手洗駐車場に車を止め 駐車場前の観光協会で御手洗マップを貰い 散策開始
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天満宮鳥居
天満宮本殿
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明治35年 日本人初 世界一周自転車旅行
松浦時計店
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左は御手洗条約締結の家・金子邸 右は待合茶屋の若胡子屋(わかえびすや)
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鉄骨組で補強された若胡子屋展示館内部
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モダンな洋館は理髪店
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昭和12年建築 映画館の乙女座(廃業)
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左・御手洗支所 右・越智醫院と船宿跡の路地
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越智醫院
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船宿跡の雑貨店 江戸時代の建築
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恵美須神社拝殿 明和元年(1764)
船宿跡
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松竹梅の縁起瓦
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松に鷹 それに亀
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松に鶴 家紋と波と雲 ここまでやればもはや芸術品
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蘇る 歴史の町の 石蕗明かり(つわあかり) 江戸時代に「御手洗連中」と呼ばれるほど俳諧が盛んになった
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船宿跡 船宿cafe若長
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住吉神社の参道石橋 明治43年(1910)8月架橋
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江戸期の高灯籠と明治43年架橋の住吉橋
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100%石桁橋
住吉神社拝殿
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病院跡らしいピンクの洋館
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洋館と路地
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大東寺の楠
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満舟寺 戦国時代の「乱れ築き」の石垣
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町並み保存センター
16:00 帰途につく今回は時間が余りなかったので 再び訪れてみたいと思う
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16:20 平成4年(1992)架橋 豊浜大橋
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16:27 平成20年(2008)架橋 豊島大橋(アビ大橋)
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16:40 上蒲刈島田戸の夕日
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16:50 昭和54年(1979)架橋 蒲刈大橋 復路撮影
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下蒲刈島の白崎園から安芸灘大橋 午後5時前 すでに夕刻である
平成12年(2000)架橋 広島県道路公社・安芸灘大橋有料道路
普通車720円 軽自動車560円 125cc以下の二輪50円 自転車歩行者は無料

しまなみ海道と竹原・とびしま海道の車中泊三泊の旅はここで終了 呉を経由し広島から国道2号線で九州の
自宅まで333km 到着は翌日の午前1時30分 帰り着いた後で もう一泊して帰れば良かったと後悔する

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