2024.11.22 福岡県飯塚市内野(うちの) 長崎街道 内野宿の散歩
戦国時代から外国船との交易には平戸がいち早く開港され 小倉から博多・唐津・伊万里を経由して田平に至る
唐津街道が繁栄していた その後 江戸時代初期から海外交易を重要視した家康の政策で長崎も重視され
小倉から長崎に至る街道を計画 起点を小倉常盤橋とし長崎までの57里(約224km)23宿の整備を急いだ
その内 福岡藩内の黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田を筑前六宿と呼び 街道随一の難所とされた冷水峠は
標高315mの地点にあり 内野宿(標高83m)と山家宿(標高43m)間 2里20町(約10キロ)に横たわる
明治初年の「旧高旧領取調帳」によると 内野村は筑前国穂波郡の福岡藩支配59村のひとつであった
福岡藩では冷水峠越えを控える内野村を重視し 慶長17年(1612)福岡藩主黒田長政の命により家老の毛利但馬
および 但馬から引継いだ内野太郎左衛門によって一寒村であった村に宿駅が開設され 代官所が設置された
元和2年(1616)には 明と朝鮮を除く外国船の入港が長崎および平戸の2港に限定され 元和5年(1619)からは
キリシタン弾圧が行われ幕府による鎖国化が進んだ 元和9年(1623)貿易不振によりイギリスが対日貿易から撤退
寛永元年(1624)スペインとの国交を断絶 寛永11年(1634)に長崎出島の造成を開始し 翌年には
平戸港を閉鎖して 中国を含む外国船の入港を長崎に限定した 寛永16年(1639)ポルトガル船の入港を禁止
これによって オランダ国以外の欧州船の入港が禁止となり 寛永18年(1641)平戸に残されていたオランダ商館
およびオランダ人を出島に移した 寛永20年(1643)オランダ船の全国入港勝手とする家康の朱印状を破棄し
徳川家とオランダ・中国・朝鮮との独占交易は 嘉永7年(1854)3月の日米和親条約締結まで200年以上続いた
長崎街道は 参勤交代やオランダ人・長崎奉行・幕府高官などが往来し繁栄した他 長崎に荷揚げされた砂糖が
街道周辺に浸透し丸ボーロやカステラなどの菓子文化が 佐賀・飯塚などに根づき
現在では別名として「シュガーロード」とも呼ばれている
街道往来の様子は 貿易商のシーボルト・オランダ商館医のケンペルや伊能忠敬・吉田松陰などの日記に残る
しかし内野宿では 度々大火災が起こり 古書や記録が殆ど残されておらず 筑前六宿のうち最も不明な
宿駅とされるが 番所・構口・御茶屋(本陣)・脇本陣・馬継所・郡屋・代官所・高札場などがあったとされる
長崎街道歩こうマップ 内野










街道沿いにあった最後の街道松は 昭和50年代初め頃に伐採された かつては松並木が内野宿の付近にあったが
すべて消滅した この街道松跡の5mほど飯塚方向に小深田の一里塚があり 老松が繁っていたと伝わる

かつては幕府献上御用の名家であった
2016年度統計の乗降者数22人/日




村役人等の集会所 大名その他の通行の際 郡内の大庄屋や庄屋その他の村役人が出張会合し運輸業務に
あたる施設 管理者は郡屋の守と呼ばれ 内野では建物を「ぐにや」と呼んでいた
主屋は江戸時代後期の建築 醸造酒名柄「松浦川」 昭和初期まで醸造していた

辻を西にとれば 米ノ山峠を越え宝満川沿いに太宰府に至る「さいふ道(参詣道)」となる

人馬継所問屋の角屋跡と標柱・えびす碑
人馬継所は問屋場とも呼ばれ 人足や駄馬を継続手配するのが宿駅の大切な業務であった 明治初期まで
角屋の前には 牛馬繋ぎの太い丸太が幾本も並んでいた
「太宰府天満宮米山峠道」と刻まれた石柱の道標は 嘉永2年(1849)正月に建立され
傍らのえびす像は 元禄13年(1700)に建立・嘉永6年(1853)4月3日に再建されたもので
共に宿場内の栄梅講や玉梅講によるものである

三差路から西の字名は小路(こうじ)となり 線路を渡ると宗賢寺への参道が分かれる 直進すると庄屋跡や
御茶屋(本陣)跡・代官所跡があり また本陣跡の東側隣接地に内野宿のシンボル「大銀杏の樹」がある
曹洞宗 宮谷山 宗賢寺には 黒田長政の命により内野宿の建設に尽力した内野太郎左衛門の墓がある
太郎左衛門の前任者は 黒田節で有名な母里太兵衛であったが 太兵衛が大隈城主に任ぜられ 後任として
軽輩ながら藩主長政によって推挙されたのが太郎左衛門であった 内野宿完成後も藩主長政に終生恩義を忘れず
元和9年(1623)に長政が逝去した後 自ら剃髪し少庵を結んで菩提を弔った
2代藩主の黒田忠之はその情に感じ入り太郎左衛門に「卜祐宗賢」の号を贈った
寛永16年(1639)太郎左衛門62歳逝去の後 碓井村の永泉寺住職によって小庵跡に寺が開基され宗賢寺と称した

御茶屋内のイチョウと合わせて「内野の夫婦いちょう」と呼ばれていたが 御茶屋のイチョウは昭和10年頃伐採



長崎街道内野宿展示館の掲示板 江戸時代の宿場の面影を今に残す長崎街道・内野宿
長崎街道・筑前六宿の一つ内野宿は、その建設について福岡藩記録に、「慶長17年(1612)毛利但馬
被命内野被建」とある。 毛利但馬は日本一の槍を飲みとった黒田武士で有名な母里但馬で黒田公の命で代官として
内野宿建設に当たった。 但馬が大隈城主となった後、内野太郎左衛門がその任に当たった。 内野氏が軽輩ながら、
かかる藩の大事業に起用されたのは長政公の厚い信任を受けていたからにほかならない。
現在、内野宿は国道200号線から外れており、江戸時代そのままに道が残り宿場の面影をとどめている。
西構口(山家宿側)から東構口(飯塚宿側)まで約600メートルもあり、そのほぼ中央で逆T字型に
本陣(御茶屋)へ道は向かっている。 本陣の脇を通って道は太宰府へと続いていた。
飯塚宿へ三里七丁、山家宿へ二里二十丁。 山家宿との間に難所中の難所冷水峠がある。 大名の参勤交代、
オランダ商館長、長崎奉行、幕府高官等の往来など交通煩雑で宿場として非常に栄えていた。
シーボルト、ケンペルの江戸参府記や伊能忠敬、吉田松蔭等の日記にその記録が残っている。
又、福岡藩歴代の藩主は度々内野宿を本拠にして狩をしていたという。
内野宿については百数十戸が消失する大火が何度となくあり、古い資料等がほとんど残っていない。
一行の内3名が宿泊した 主屋の2階に明治13年(1880)の建築と記された棟札が残され
明治時代初期における町家建築の姿を良く留めている

現存の建物は明治後期の建築である 長崎屋では 常用の無料休憩所として
また予約ではあったが 宿場時代の郷土料理を提供していた しかし現在では閉鎖されているようである
江戸時代前期よりこの地に居住 主屋は安永8年(1779)の大火後に建てられ200年を越える
左側の座敷は明治43年(1910)の建築である


天満宮と老松宮の祭神は菅原道真 須賀神社の祭神は素戔嗚と櫛稲田姫

国道200号線は北九州八幡西区の黒崎を起点とし筑紫野原田の国道3号線を終点とし 筑前長崎街道をトレースする







