2008.03.12 竜田越奈良街道 龍田大社から奈良三条通りまで

河内大和国境の亀瀬峠を越えると大和生駒郡三郷村へ入る 峠と言えど標高は高々80m程度である
眼下の瀬には「亀の瀬」の由来となった亀岩が川中に有り この岩が動くと地すべりが起きると伝わる
地質学的には 亀の瀬の北側に数百万年前の古い火山が有り 過去二回噴火が起こったことで
異なる地層が二段に堆積した 下層に水を通しやすい粘土層 上層に水を通しにくい粘土層が形成され
その間隙が広範なすべり面となり 雨水の浸透によって地すべりが発生する
古来から地すべり頻発地域であったが 明治以前の公式記録が無いため 明治25年(1892)大阪鉄道が
亀ノ瀬隧道を貫通させ湊町〜奈良間に鉄道を全通させたが それ以降も数回の地すべりが発生している
特に昭和6年(1931)から翌年にかけての大規模な地すべりによって 国有となっていた隧道が崩壊し
区間廃線された後に 左岸側に新たな線路が敷設された また上流の王寺町では浸水被害も発生した
この災害を契機に調査が進められが 昭和26年と同42年にも地すべりが発生した
昭和50年代以降は ボーリングや調査抗によって 地すべりのおおよその原因を特定するに至った
このように域の街道は地すべり災害によって大きく崩れており 旧来ルートを辿ることは不可能である
龍田大社−奈良三条通り
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大和名所図会 龍田川
銚子口の早瀬(滝)を描く 右下流側の川中に亀瀬の由来となった亀石が描かれており
銚子口から上流には 剣先船では遡ることが出来ないため 左岸の藤井村と右岸の魚梁に
舟から荷揚げする問屋場と浜が設けられていた
古から「龍田川」といえば現在の三郷町辺りの大和川を示す名称で 在原業平が詠み
古今和歌集に収められた「ちはやぶる 神世も聞かず竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌は
有名である 下流域の河内側では「亀瀬川」とも呼ばれ 大和川付替前は石川が本流とされていた
現在「竜田川」と称される大和川支流の平群川は 斑鳩町が竜田公園を整備した際に紅葉を植栽し
これを名所とするべく 半ば強引に平群川を竜田川と称し 国道に架かる橋も竜田大橋としたため
いつしか この嘘が本当になってしまった 現在でも奈良県公式ホームページにおいて
上記の業平の歌と能因法師による「嵐ふく 三室の山の もみじ葉は たつ田の川の 錦なりけり」が
詠まれた名勝は この竜田公園であると主張している
龍田大社
式内社(名神大社)二十二社の中七社に入る古社である 明治以前の名称は「龍田神社」
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街道に面した鳥居 <Wikipedia
拝殿 <Wikipedia
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大和名所図会 龍田本宮
祭神は 天御柱命(あめのみはしらのみこと)と国御柱命(くにのみはしらのみこと)で
『延喜式』では 崇神天皇の時代(3世紀中頃−7世紀頃・古墳時代)に 数年の間凶作が続き
なおかつ疫病が流行したため 天皇自ら国内安泰を祈願したところ 天御柱命・国御柱命の二柱の神を
龍田山(県境の三室山を含む・生駒山脈の最南端の大阪府側にある山群)に祀れという託宣によって
創建されたと伝わる 『日本書紀』では 天武天皇4年(675)4月に風神を龍田立野に祀り
大忌神を広瀬河曲に祀った(廣瀬大社)との記述が初見され 風神として古くから信仰を集めた
斑鳩町龍田 龍田新宮
社伝によれば 聖徳太子が法隆寺の寺地を探し求めていた時 白髪の老人に化身した龍田大明神が現れ
「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である 私はその守護神となろう」と託宣した
太子はその地に法隆寺を建立し 鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したと伝わる
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鳥居 <Wikipedia
拝殿 <Wikipedia
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大和名所図会 龍田新宮
祭神は 本殿に天御柱神・国御柱神 右殿に龍田比古神・龍田比女神 左殿に天児屋根神・外三神
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境内摂社は賑やか 廣田神社・粟島神社・祇園神社・事代主神(恵美須)・白龍大神・弁財天を合祀
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龍田神社から南へ450m 浄土宗 清水山 吉田寺(きちでんじ)
俗に「ぽっくり寺」と呼ばれる 本尊は阿弥陀如来像 多宝塔は承応元年(1652)の建立
聖徳宗の総本山 別名:斑鳩寺(鵤寺)
法隆寺は厩戸皇子(聖徳太子)が7世紀に創建したとされる寺院で 古代の姿を現在に伝える寺である
推定される創建年は 推古天皇15年(607年)とされる 金堂・五重塔を中心とする西院伽藍と
夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ 現存する西院伽藍は世界最古の木造建築物群である
法隆寺の建築物群は平成5年(1993)に「法隆寺地域の仏教建造物」として 世界遺産に登録された
最近の研究では金堂の屋根裏に使われている木材の年輪精査から 金堂・五重塔・中門に使用された
ヒノキやスギは650年代末から690年代末に伐採されたものと判明した
よって 法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられたことになる
この伽藍が建つ以前に焼失した前身の若草伽藍が存在したことも発掘調査で確認されており
また聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されていることから
7世紀の早い時期 斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている
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法隆寺 南大門
庫裡の煙抜き 奈良では民家にも多い
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国宝・西円堂
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国宝の回廊
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中門と五重塔 ともに国宝
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相輪は平安時代に再制作されたもの 下部に取り付けられた4本の鎌は雷よけの「まじない」
鎌倉時代に五重塔に落雷があり火災が起きたが 幸にも大工により消し止められた
西大寺の興正菩薩・叡尊が以後の雷よけとして 墨書の護符を各層各階に安置し
魔物とされる雷除けのため 鉄の鎌4本を相輪最下部の四方にかけたと記録されている
600年後の昭和9年(1934)に大修理が始まり 1本となっていた鎌を本来の4本にするため
堺の水野鍛錬所二代目の名匠・水野正範に鎌の製作を依頼し
解体修理により集められた古釘を材料にして鎌を鍛え 昭和27年(1952)に奉納された
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国宝中門
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東西伽藍の間にある 松尾寺に至る松尾みち
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東院伽藍 夢殿
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斑鳩町法隆寺2丁目
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生駒郡斑鳩町法隆寺東2丁目 中宮寺跡
創建時から室町時代後期ごろまでの中宮寺は 現在の本堂から約500m東の地にあった
聖徳太子の開基により母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の宮を改めて寺にしたと伝えられる
太子建立七ヶ寺に数えられ その創建時期は 発掘調査によって法隆寺の前身である若草伽藍と
同時期の 7世紀前半ごろと推定される 旧寺跡地には土壇を中心に方形の地割が存在し
字名として旧殿・赤門前・ 西ノ門などの名が残り その周囲に江戸時代まで
崩壊途上の築地が遺存したと想像されている
境内地の規模は 東西約128m・南北約165mと推定され 四天王寺式伽藍配置で
塔・金堂を南北に一直線に並べる配置であったが 塔と金堂が接近して建てられていた上に
講堂や回廊の跡が無いことから 敢えて造立されなかったと推定される他 未完であったとの説もある
古くから法華寺・円照寺とともに「大和三門跡尼寺」に数えられ その中でも最も古い尼寺とされる
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聖徳宗 岡本山 法起寺 <Wikipedia
以前の読みは「ほっきじ」であったが 世界遺産に登録後は「ほうきじ」を寺では正式の読みとした
聖徳太子が法華経を講じた岡本宮の跡地で 太子の遺言により山背大兄王(やましろのおおえのおう)が
宮を寺に改めたのが法起寺の始まりと伝えられている 古くは岡本寺や池後(いけじり)寺とも呼ばれた
後の舒明天皇10年(638)に福亮が弥勒像と金堂を造立 慶雲3年(706)に恵施が三重塔を建立した
旧伽藍は 金堂と塔が左右(東西)に並び 法隆寺西院の伽藍配置と似ているが東西の並びが逆で
塔が東に建つ形式を独自に「法起寺式伽藍配置」と称する 奈良時代に栄華を誇った法起寺であったが
遷都後の平安時代には衰退して法隆寺の末寺となり 江戸時代には三重塔を残すのみとなっていた
延宝6年(1678)三重塔を修復 元禄7年(1694)講堂を再建し 文久3年(1863)聖天堂を建立した
大和郡山
平城京の南西位置にあたる古代大和国添下郡村国郷・矢田郷・添上郡大宅郷・平群郡額田郷の地である
郡山城址北の通りは平城京九条大路にあたり 観音寺町・清涼院池公園・羅城門橋・九条町など
平城京に因む地名が散見される 従来の説では九条大路が平城京の最南端とされていたが
近年さらに南側で都の一部と思われる遺跡が発見されたと 大和郡山市教育委員会が発表している
郡山城は奈良時代に薬園が営まれていた地に 10世紀の後半に
郡山衆(地侍=中殿・辰巳殿・薬園殿など)が土塁・柵を並べ砦を築いたのが始まりといわれる
現城郭は戦国末期 明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり 筒井順慶や羽柴秀長らの主導で改修された
同期 筒井順慶が郡山城に入城して城下町が発展し都市が形成された 順慶没後の天正13年(1585)に
羽柴秀長が郡山城に入り 郡山はこの時期大和国の中心都市として栄えた
江戸初期には一時期奈良奉行所の管轄となったが荒廃の一途を辿ることとなる
水野勝成・松平家・本多家と転封が続き 享保9年(1724)甲府藩藩主であった柳沢吉里が転封され
以降明治維新まで 柳沢氏が郡山藩藩主家として一帯を統治した
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昭和62年(1987)復元の追手向櫓と追手門
昭和58年(1983)復元 追手門
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追手門 別名梅林門
復元追手門本丸石垣
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本丸への石段
本丸裏の「さかさ地蔵」 地蔵さんまで石垣に使う
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城内柳沢神社
市役所前の大手門橋欄干
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大手門筋と竜田越奈良街道(柳町商店街)の交差地点 右は菓子司・本家菊屋
郡山名物「御城之口餅」は400年の歴史があり 名付け親は豊臣秀吉
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街道に面した菊屋の店構え
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豆腐町の路地
街道筋を南へ歩く
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龍田越奈良街道
柳町は下街道と龍田越奈良街道に沿った町で 1丁目から6丁目まで南北に1kmある
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柳町商店街荒物屋
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旧・和田徳呉服店
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八幡神社界隈
近鉄郡山駅付近の洞泉寺町や東岡町には三階建の遊郭跡が並ぶ 今も旅館の看板を掲げる怪しげな
旧赤線地帯で 怖いお兄さん達もいるという噂がある 行政も再開発で一掃を計る
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元遊郭 三和
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三階建ての遊郭跡・旧川本邸
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下街道と竜田越奈良街道の追分にある銭湯「大門湯」 江戸時代の柳口大門にちなむ
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追分けの辻 旅館・花内屋がある
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柳町最南端下街道起点 五條で熊野街道と合流
下街道・柳5丁目北向き
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新木町入り口の御神燈 この先に新木神社がある
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郡山特産の金魚養殖池
金魚養殖の始まりは 享保9年(1724)柳澤吉里が甲斐国から大和郡山へ移封のおり
金魚を持参したことに始まると伝えられる 幕末期には藩士の副業として栄え
特に明治の版籍奉還後は 禄を失った藩士と農家の副業として盛んに養殖が行われるようになった
また地理的に農業用溜池が数多くあり水利に恵まれ
溜池に発生するミジンコ類が 稚魚の餌に適していたことなどが有利に働いたといわれている
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近鉄と郡山特産の金魚養殖池
染色用の水路が流れる紺屋町
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紺屋川
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大和郡山市では毎年8月に「全国金魚すくい選手権大会」が開催される
そのため紺屋町の金魚グッズ販売店「こちくや」には金魚すくい道場が併設されている
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箱本館紺屋
箱本というのは、町内にあった自治組織のこと。江戸時代に十三町がこれに加盟。
それぞれの町が交代で治安維持や消火にあたり、いわば住民自治の先駆けとなる制度でもあった。
紺屋町はその箱本の中心をなす町の一つ。藍染めを職業とする人たちが集まった職人町で、
豊臣秀長の時代(1585−1591)に成立したと伝えられている。
ちなみに紺屋とは、もともと藍染業者を指したが現在では染物屋の意味で使われている。
この紺屋町で代々藍染の技を受け継いできたのがこの奥野家で、嫁入の祝い幕、社寺の門幕、旗、
暖簾などを制作し続け、その技術を今日に伝えた数少ない町家である。現在、箱本館「紺屋」として
藍染の指導や歴史資料の収集、保存、展示を行い市民の教養と文化の向上に寄与ている。

材木町 外堀緑地公園
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左は実相寺
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城下を東西に抜ける道は矢田町通り(矢田筋)といわれ 西の古刹矢田寺・矢田坐久志玉比古神社
東の古刹帯解寺・龍象寺(帯解地蔵)・門跡尼寺 円照寺(円照寺は別名「山村御殿」拝観不可)を結ぶ
古来からの参詣道で沿道には神社仏閣が多い 現在は近鉄駅とJR駅を結ぶ幹線道路となっている
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融通念仏宗 光常山 圓融寺
稲荷神社
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浄土宗 従是山 西方寺
真言宗御室派 医王山 薬園寺
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薬園(やくおん)八幡神社と矢田筋
中世に東大寺領薬園荘の鎮守神とされ その後 薬園村の鎮守となった
元々は現在の塩町付近にあったが 郡山築城にあたり現在の地に遷座された
地元では「やこうさん」と呼ばれ親しまれている  薬園寺は当社宮寺かと思われるが 明らかではない
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