2011.06.23 竜田越奈良街道 四天王寺から龍田大社まで

近世の竜田越奈良街道は 大阪市浪速区恵美須西1丁目・戎神社前交差点の紀州街道追分けを起点とし
現国道25線を東進して一心寺前の「逢坂」を上り四天王寺南大門前から門前町筋を南下する
逢阪は 紀州街道・堺筋の恵美須町から竜田越奈良街道に入り 上町台地の荒陵(あらはか)に上る坂で
一心寺前から四天王寺南大門前あたりを指す この逢阪(おうさか)は 現在の「大阪」の由来とされる
明治以前の表記は「大坂」で 江戸時代までは道も狭く急坂道の難所であったが 明治9年(1876)に
茶臼山観音寺住職の静明が寄付を募り 坂を切り崩して緩やかにする工事が施された
明治42年(1909)には 市電の敷設に伴い道路を拡幅
その後は 現在の八尾市相生町に至る直線的なルートで 大阪府によって整備されている
それ以前の予想される旧街道は 集落を縫うように東進と南進を繰り返し
八尾龍華村字晒の八尾街道追分まで進み 旧大和川に沿って南東進して東高野街道と合流した後
再び道明寺村国府から長尾街道を東へ辿り石川を渡って国分村で長尾街道と分かれ夏目茶屋近くで
大和川を右岸へ渡り 河内と大和の国境・亀瀬峠に至る
宝永元年(1704)の大和川付け替後は 必然的に大和川右岸を辿るルートが開削された
恵美須町から亀瀬峠まで
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通天閣から見る阪堺電気軌道阪堺線 (旧)恵美須町駅
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阪堺電車 (旧)恵美須町駅 明治44年(1911)12月1日開業 2020年にホームを100m南に移設
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通天閣と新世界中央通り
初代の通天閣は 明治36年(1903)に開催された第5回内国勧業博覧会の跡地に 明治45年(1912)
遊園地のルナパークと共に高さ250尺(約75m)の鉄骨造の塔が建設され「通天閣」と名付けられた
昭和18年(1943)年1月 直下にあった映画館・大橋座から出火し脚部鉄骨が高熱で強度不足となり
鉄骨材を軍需資材として大阪府に「献納」する名目で 同年2月から初代通天閣は解体された
二代目の現・通天閣は 初代地に近い公園に昭和30年(1955)年8月に着工 昭和31年に竣工した
設計に携わった内藤多仲早稲田大学教授は 昭和33年(1958)竣工した東京タワーの設計も担った
日立製作所のネオン広告は再建の翌年に取り付けられた
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通天閣展望台から一心寺(手前)と生駒山遠望 一心寺の前が奈良街道の逢坂
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四天王寺七宮のひとつ 天王寺区茶臼山町 堀越神社
明治中期まで 境内の南に堀があり 堀を越えて参詣したので 堀越といわれた
聖徳太子が 叔父に当たる崇峻天皇を偲んで 四天王寺建立と同時にその守り神として創建
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天王寺区逢阪1丁目 祭り用品の「だんじり屋」
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四天王寺・西の極楽門と重要文化財の石鳥居
永仁2年(1294)に それまでの木造鳥居を石鳥居にあらためたもので 神仏習合の名残である
扁額は銅製鋳物で「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とあり
「ここは釈迦如来が仏法を説く場所で極楽の入口である」との意で 茅渟の海に沈む夕陽を敬拝して
極楽往生を念じる聖地であった 街道は石鳥居のある西参道から右へ緩やかな坂を下る
荒陵山 和宗総本山 四天王寺
正確には「してんのうじ」と読むが「いらち」の大阪人は「し・う」を抜いて「てんのじさん」と呼び
地名も「四」抜きの「天王寺」になってしまったという説がある
他に 大阪人は「し」の発音が不得手という説もある
荒陵は「あらはか」と読み 古代「茅渟の海」(ちぬのうみ=大阪湾)に面した浜の背後丘陵地であった
四天王寺は この丘陵地・荒陵の東にあった荒陵池を埋立て建立されたという伝承が残っている
聖徳太子が四天王寺を創建した際に 大江・上之宮・小儀・久保・土塔・河堀稲生・堀越の
鎮守七宮を建立した 江戸時代にこれらの宮を産土神とする七つの集落が東成郡天王寺村となった
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国道25号に面して四天王寺の南大門がある
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四天王寺は 聖徳太子建立の七大寺のひとつとされ 蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)と並ぶ
最古の仏教寺院である 本尊は救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)である
別名に 金光明四天王大護国寺や過去に荒陵寺・難波大寺・御津寺・堀江寺などと呼ばれた
『日本書紀』によれば 推古天皇元年(593)に造立が開始されたといわれ 草創の由来については
用明天皇2年(587) 仏教信仰派の蘇我氏と古代神道を準ずる物部氏の間に武力闘争が勃発した
宗教戦争のように語られてはいるが 新興勢力と既成権力の闘争であることに違いはない
蘇我軍は物部氏本拠地の河内国渋河へ攻めいったが 籠城した物部守屋に苦戦を強いられ三度退却した
蘇我軍の後方にいた厩戸皇子(聖徳太子)が 白膠木(ヌルデ)の木で四天王を形どり
「もしこの戦に勝利したなら 必ずや四天王を安置する寺塔を建てようぞ」と誓願をすると
味方が放った矢が物部守屋に命中し戦いは蘇我氏の勝利に終わった 6年後の推古天皇元年(593)
聖徳太子は請願通りに 摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかったと記されている
その他の異説では 当初の建立地は上町台地の北部に位置する玉造の岸上にあり 丁未の乱で敗死した
物部守屋とその一族の霊を鎮めるため 玉造の守屋邸跡に御堂を営み
六年後 荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたという説もある
また 建立の由来も寺内に守屋祠があることから御陵社ではないかという説もある
他に 山号の「荒陵山」から かつてあった大規模な古墳を壊し造営したのではないかといわれ
庭園の石橋に古墳の石棺が利用されていることや 大帝塚山古墳が 別名として荒陵とも呼ばれたことを
傍証としてあげている その他 高津宮が仁徳天皇の皇居であったとする調査研究結果などから
歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説も存在する
第二次世界大戦前は 天台宗に属していたが 終戦後 元来は特定宗派に属さない
八宗兼学の寺であったことから 昭和21年(1946)に「和宗」の総本山として独立した
創建以来 たび重なる災害や戦火のため 古い建物はことごとく失われており 現在の伽藍建築は
昭和32年から昭和38年(1963)にかけ 飛鳥様式を再現したRC造で再建されたものである
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推古天皇元年(593年)に聖徳太子の建立による 中門 塔 講堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置
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六時礼讃堂と亀池
漫才のギャグに「てんのじさんの亀に豆やったら 亀 豆 かめまめんね」というのがあった
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四天王寺 唐門(南通用門)
四天王寺には唐門が二ヶ所ある 五智光院入口門と南大門の東にある通用門 この二ヶ所の唐門には
門扉と屋根瓦などに 五智光院が徳川秀忠により再建されたことを印す葵の紋がある
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門前町筋の庚申街道を南へ四天王寺の塔を振り返り見る
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飛び地境内の庚申堂 青面金剛童子・四天王を祀る 日本三庚申のひとつで日本初の庚申尊
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昔より上町台地南方の谷に湧く清水井戸と地蔵尊 現在もこんこんと清水が湧き出る
地蔵尊の辻から東進と南進を繰り返しながら 環濠集落の平野郷まで想像出来る旧街道を辿る
平野は摂津国住吉郡杭全郷の東部にあり 後に竜田越奈良街道となった難波京と斑鳩・平城京を結ぶ
古代渋川道が通り また中高野街道の起点にもなった交通の要所である
平安時代初期に 坂上田村麻呂の次男である坂上広野が荘園を拓いたことから 広野と呼ばれ
それが「平野」へ転訛したといわれているが かつての荘園は杭全(くまた)荘と呼ばれており
貞観4年(862)に鎮守社として牛頭天王を勧請し 杭全神社が創建された
その後 荘園は宇治平等院へ寄進され 織田信長の直轄地となるまでの約500年間は平等院領であった
鎌倉時代頃から平野荘とも別称され 大治2年(1127)に大念佛寺が開基されると門前町が形成された
町は坂上氏の末裔を称する「平野七名家」による自治が行われ 戦国時代には町の周りに二重の濠と
土居を築き 13ヶ所の出入口全てに門と門番屋敷が設置された 門の脇には地蔵堂も建てられ
今でも12ヶ所の地蔵堂が現存している 濠内は七名家による分権が行われ
馬場・泥堂・市・野堂・流・背戸口・西脇の本郷7町に分かれていた
戦国時代には浄土真宗の光永寺も開かれ門徒宗200余名が石山本願寺の普請に携わったことが
記録として残されており 本願寺との関係も深かったが  織田信長と本願寺の石山合戦には加わらず
信長の天下布武に対し中立を通したことで所領も安堵された
環濠と十三口地蔵堂
豊臣秀吉の天下統一後は 町の有力商人は大坂城下へ移住させられた
大坂の陣では七名家の筆頭とされる末吉家が徳川方に味方し 平野に徳川秀忠の陣が設けられている
その勲功により 元和元年(1615)に末吉家は 平野および河内国の志紀郡・河内郡の代官に任ぜられ
大坂の陣で焼け野原となった平野の復興を行い 環濠も再度掘り直され河港も築かれた
寛永13年(1636)には 柏原村と大坂城下を結ぶ柏原舟が平野川を通うようになり
寛文11年(1671)には馬継場にも指定され 水運・陸運双方の恩恵を受けるようになった
河内木綿の集散地として発展した平野は 元禄15年(1702)に本郷7町と濠外西方の
今林・新在家・今在家・中野の四村を統合して平野郷町となり 野堂町に惣会所が設置された
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聖心女子大学図書館 デジタルギャラリー 全国城下町絵図 摂津国平野郷図 原寸閲覧可能
https://library.u-sacred-heart.ac.jp/library/display_collection/digital_gallaery/index.html
明治12年(1879)に平野郷町4村が再び分離 明治16年(1883)には本郷7町もそれぞれ分離したが
明治22年(1889)町村制施行で本郷7町が合併し平野郷町が発足し
大正14年(1925)に大阪市に編入された
昭和20年代の写真では濠外に田畑が拡がるのを見て取れるが 高度成長期を迎え一気に宅地化され
環濠も明治以降は徐々に埋め立てられ 今は杭全神社の東に200m程度しか残されていない
しかし一方では 環濠内の町割りは 往時のままの姿でほぼ残存している
奈良街道の平野郷への出入口は 北は泥堂口で 東は樋尻口である
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杭全神社(くまたじんじゃ)の大門 鎌倉時代建立
現在 杭全は神社の西1.5kmの東住吉区の町名であるが かつては一帯が杭全荘という荘園であった
貞観4年(862年)荘園を支配していた坂上当道が 牛頭天王を勧請し鎮守社を創建したのが始まりで
元亨元年(1321)後醍醐天皇の勅命で 熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を合祀した
かつては祇園宮 または熊野権現社と呼ばれていたが 明治になって現在の杭全神社に改称された
明治以降の主祭神は素盞嗚尊である 配神として熊野三所権現を祀る
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重要文化財の本殿 <wikipedia
第一殿は 正徳元年(1711)に奈良春日大社の本殿を移築
第二・第三殿は 永正10年(1513)造営の記録が残る大阪市内最古の建造物である
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境内摂社 恵比寿神社
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大阪府指定天然記念物 杭全神社のクス
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神社の東に残る環濠
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参道の宇賀弁財天 社の建つ池は環濠の一部であった
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宮前交差点の鳥居 後方は金光教
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十三口・社内口の道標 右大坂
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道標の南・東面
菓子舗の福助人形
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環濠集落外周道路(路面の印)
奈良街道(竜田越)泥堂口地蔵堂
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平野小学校々庭の一里塚跡と国道25号線
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平野上町の旧家
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融通念仏宗総本山 諸仏護念院大源山 大念佛寺
平安時代の大治2年(1127)比叡山天台宗の僧・良忍が 鳥羽上皇の勅願により開基した念仏道場で
平野荘を支配する坂上広野の私邸内に建立した菩提所の 融通念仏道場・修楽寺の別院が前身となる
その後 鎌倉時代の永享元年(1321)に第7世・法明が中興して寺域を拡大し伽藍を整備したが
度重なる兵火に遭い荒廃した 江戸時代の元禄年間に諸堂が再建され融通念仏宗の本山とした
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小馬場口地蔵堂
田邊道西脇口地蔵堂
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上町の旧家
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上町2丁目9 環濠外周道路の標識
西高野街道 奈良街道は左へ
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平野本町2丁目4 南海平野線 終点停留所跡
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平野線とモ205型電車
南海平野線は大正3年4月26日今池・平野間の開業以来、 大阪市東南部の重要な足として
地域の人々に親しまれてきましたが、地下鉄谷町線天王寺・八尾南間の開通により昭和55年11月28日
66年の歴史をとじました。 モ205型電車は、開業当初の木造車を昭和10年代に鋼製化したもので、
通称(改造車)とよばれ平野線で活躍しました。また、広場中央の照明塔屋根は八角形の
欧風木造建築物として 建築史上もユニークな平野駅駅舎のイメージをとり入れたものです。
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線路跡は一部を除き 阪神高速14号松原線橋脚の敷地に転化されている
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明治41年測図 大正1年発行地図
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現在の航空写真 目を凝らせば環濠の跡が見えてくる
奈良街道は平野郷の樋尻口から出て東南に向かい まもなく摂津河内の国境を越え河内国の渋川郡に入る
平野川の右岸に沿って 鞍作新家・西亀井・東亀井・跡部の各村を過ぎ大聖勝軍寺のある太子堂村に至る
高野真言宗 神妙椋樹山 大聖勝軍寺は 聖徳太子によって開かれ 現本尊は植髪太子(聖徳太子)である
聖徳太子建立三太子のひとつで 上の太子(太子町の叡福寺) 中の太子(羽曳野市の野中寺)と
並ぶ「下の太子」と呼ばれている 地元では 古から「太子堂」と呼ばれそれが地名及び村名となった
この地は 物部守屋との戦いで太子が四天王を彫り戦勝祈願をした所と伝わり 難波四天王寺とともに
ここに太子堂が建立され 後に推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ勅願寺となった
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河内名所図会 下太子 将軍寺 神妙椋
参道の東側に「守屋池」 寺域東側に「守屋塚」があり 寺の南側を奈良街道が通る様子が描かれている
太子堂村から東北東方向に進み植松村へ 村中で右に曲がり村を出て次の晒集落で八尾街道と分かれる
八尾街道分岐を南にとり (旧)大和川左岸の道を志紀村を経て柏原村の古町で東高野街道に合流する
この辺りの大和川は 亀瀬川と呼ばれ石川と合流した後 広い河川敷を持つ大河となり寝屋川に至るが
大小の支流に分かれ小沼や池が散在する低地が広がり 古代から「河内」と呼ばれていた
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河内名所図会 大和川 築留(つきどめ)
大和川と河内(かわち)
律令時代の河内国は 生駒・金剛山地の西方に沿った南北に細長い地域で 現在の大阪府東部に該当し
奈良時代初頭まで和泉国の領域も含んでいた 大阪の中央部にある平野は 縄文時代の温暖化による
海水面の上昇によってできた河内湾が 上町台地から北へ伸びる砂嘴によって塞がれ 河内湖となり
淀川と大和川から流入する土砂が その後 湖内に堆積して出来たもので
新開池(しんがいけ)・深野池(ふこのいけ)の2つの広大な水面をもつ池が残っていた
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●<上左>縄文時代前期前半 海水面の上昇によって河内湾ができた
●<上中>弥生時代後期から古墳時代前期 上町台地から北へ伸びる砂嘴によって塞がれ河内湖となった
●<上右>川の堆積作用で平野が生まれ 新開池・深野池が残った
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江戸時代中期まで 奈良盆地周辺の山から水を集めた大和川は 金剛・生駒鞍部の峡谷から
河内平野に流れ出るが 南北に伸びる 上町台地に遮られ蛇行しながら河内平野を北上した
久宝寺川や玉櫛川など多くの支流に分かれた後  深野池・新開池及び広い範囲の低湿地帯を通り
深野池と新開池を結ぶ寝屋川に合流し  大阪城の北で平野川を合わせ淀川の支流の大川に合流した後
堂島川・土佐堀川を経て安治川・尻無川・木津川に別れ大阪湾に注ぐ
現在 大和川本流の久宝寺川は長瀬川という名の水路と化したが かつては広いところでは
川幅が700mほどあり河内平野を潤した  また大阪と奈良を最短で結ぶ水路として剣先船が往きかい
久宝寺や八尾・平野といった町が栄えた  玉櫛川は菱江川と吉田川に分かれ
分流地点の現・近鉄花園駅付近は物資の集散地として発展し  定期的に市が開かれ市場村と呼ばれた
江戸時代 大坂から船で淀川・新開池・深野池と進み  舟で「野崎参り」をすることが盛んになった
しかし 何百年もの長い間に土砂が積み重なり  天井川になって一旦氾濫すると大被害をもたらした
幕府に対する河内住民の50年にも渡る直訴で  宝永元年(1704)2月に大和川付替工事が始まり
多くの農民の労力と豪商の資金によって  工期を二年以上短縮し 僅か八ヶ月足らずで竣工させた
旧河川は運河として残された また新開・深野の両大池は水量が減少したため新田開発が行われ
新開池は 宝永2年(1705)大阪の豪商・鴻池善右衛門宗利によって 約119haの鴻池新田となり
深野池や周辺の低湿地にも新田が拓かれ 農業と整備された水路による田舟の水運が盛んになった
農地となった旧河床は 周辺よりも高く砂地で稲作には不向きであったため木綿栽培が始まり
木綿の一大産地となって「河内木綿」として珍重され全国的に流通した
明治になると 天井川であった旧河川に鉄道が敷設され 駅周辺に町が出来た 新開池は姿を消し
深野池も一部が調整池として残るのみであるが わずか半世紀前の高度成長期まで 河内平野は
河内の作家・今東光の小説に出てくるような豊かな田園風景の続く水郷地帯であった
なお 大和川という名称は付け替え後の河川名で 奈良盆地内での呼名は初瀬川から始まり
額田部で合流し佐保川となり安堵村で富雄川を合わせた後 龍田村で平群川を合流して龍田川となり
亀瀬で河内国に入ると亀瀬川と呼ばれ国分村で石川に合流する 河内国での本流は石川・久宝寺川で
摂津国に入ると寝屋川・大川・堂島川・安治川となって大阪湾に至る
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大和名所図会 神南備 三室峯 紅葉川 磐瀬杜 亀瀬峠
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