2013.05.15 若狭街道(鯖街道) 朽木宿

朽木街道は京都北部大原の山々に源を発し 近江で琵琶湖に流れ込む安曇川(あどがわ)沿いに開かれた
古い間道である 昔から若狭国小浜と京都を短絡する 俗にいう鯖街道(若狭路)が縦断し
街道筋として栄えた また「朽木の杣」と呼ばれ 京への木材の供給地でもあった
鎌倉時代から江戸時代に掛けて この朽木庄を支配し治めていたのは 在郷の朽木氏であった
朽木氏の祖先は 鎌倉時代の承久3年(1221)に後鳥羽上皇が北条義時に対し起こした「承久の乱」で
戦功を挙げた佐々木信綱がこれにあたる 信綱は近江国高島郡の地頭職に任ぜられ高島氏を名乗ったが
一般的には信綱の次男・高島高信が高島氏の祖とされ 高信の次男・頼綱に受け継がれ その三男である
高島義綱が分家となり 朽木氏を称したのが始まりである その他の分家筋には 永田・平井・横山
田中・谷などの氏が有り 別系の山崎氏を一族に加えて 宗家のもとに高島七頭と言われる勢力となった
室町時代には 足利将軍家の近侍として仕え その縁で 天文22年(1553)に朽木元綱は13代将軍の
足利義輝や側近の細川晴元らを朽木村に匿った 元亀元年(1570)織田信長の朝倉攻めでは
浅井長政の裏切によって退却を余儀なくされた信長は 浅井の領地である湖東を避け 朽木経由で帰郷し
その折にも朽木元綱は信長を助け後に家臣に取り立てられた 信長亡き後は豊臣秀吉に仕え領土を保全し
大名としての家名を保つこととなった 関ヶ原の戦いにおいては 当初は西軍についたが東軍に内通し 
そのため江戸幕府成立後も領地が安堵され存続を許されるほど 機を見るに長けた家系であった
元綱の死後 9550石の領知は三分割され 三男・朽木稙綱は幕臣の若年寄に就任し加増され
1万石の近江朽木藩主となり朽木村山神神社の裏山に陣屋を構えた 現在は朽木資料館がある
その後 下野・鹿沼藩から常陸・土浦藩へ移封され 最後は丹波福知山藩主として明治維新を迎えた
 長男宣綱の宗家は交代寄合の旗本となった さらにその子・智綱の代に弟2人へも分知したため
後幕末まで朽木宗家の知行地は4770石となった 朽木氏はその功績により代々交代寄合として
大名に準じた扱いで厚遇された 朽木庄の中心は 古より市がたつ流通の要所で「市場」と呼ばれた
img
朽木宿マップ
img
中心部の市場地区 大溝道追分
img
有形文化財:昭和8年建設の丸八百貨店横の細道が街道 カーブミラーの下に道標がある
img
立樋(たつどい)
img
img
水路と川戸(かわと)
img
朽木藩御用の醸造商 旧熊瀬家住宅
img
鍵の手(枡形)道路部分
img
宿場東外れ
img
昭和13年(1938)建築 旧朽木郵便局
設計は アメリカ人建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズ<William Merrell Vories
ヴォーリズ合名会社(近江兄弟社)創立者の一人 メンソレータムを日本に普及させた実業家でもある
img
年期の入った立樋(たつどい)
 TOP