熊野三山

熊野三山とは熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の総称である
三山の名前からもわかる通り 仏教的要素が強く熊野権現ともいう 古来より修験道の聖地とされ
9世紀以降は 三社に対する信仰が広がり興隆し 12世紀末には三社の神がそれぞれ別ではなく
共通の祭神と見なされるようになった また神仏習合の権現信仰によって
熊野本宮大社の主祭神の家都御子神は阿弥陀如来 新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神は薬師如来
熊野那智大社の熊野牟須美神は千手観音とされた
この三神は熊野三所権現と呼ばれ 主祭神以外も含めて熊野十二所権現ともいう
なお島根県松江市にある出雲の熊野大社は この熊野三山の元津宮であるとの古伝がある

熊野詣で

平安時代中期以降 阿弥陀信仰が強まり浄土宗が盛んになるにつれ 熊野三山が阿弥陀信仰の
聖地として信仰を集め 法皇・上皇など皇族女院らの参詣や貴族の参詣が相次ぐようになる
延喜7年(907)宇多上皇の参詣から始まり 鎌倉時代に至るまで盛んに参詣が行われた
特に院政時代歴代上皇の参詣が頻繁に行なわれ 後白河上皇の参詣は34回に及んだ
上皇の度重なる参詣に伴い 熊野街道が整備され発展し
街道沿いに九十九王子と呼ばれる御子神が祀られた
室町時代以降は上皇や貴族に代わり武士や庶民の参詣が盛んになる
鎌倉時代に熊野本宮大社において 一遍上人によって時宗が開かれ
熊野三山への参拝者は 日本各地で修験者によって組織され興盛を極めた
17世紀初め頃 その様子は蟻の行列する様に例えて「蟻の熊野詣」と言われるほど賑わったと伝わる
江戸時代には伊勢詣と並び庶民が数多く詣でた 小栗判官を題材に熊野信仰の御利益を説く
説教本「をぐり」が出版され 浄瑠璃として演じられたのもこの頃である
室町時代以降 街道整備が進み畿内からの熊野への参詣道が複数成立するようになった
渡辺津から紀伊田辺までを紀伊路 紀伊田辺から熊野本宮までを中辺路と呼ぶようになり
これに伴い熊野街道の名称は 熊野参詣道全体として総称するようになる
隆盛期は過ぎたものの あれほど盛んであった熊野信仰も江戸後期の紀州藩による神仏分離政策で
布教をしてきた聖や山伏・熊野比丘尼の活動を規制したため衰退し
明治初年の神仏分離令が決定的となって衰退が激しくなった 明治以降は熊野への参拝は少なくなり
鉄道の発達や道路の整備などにより観光主体となって 古道・街道は機能を失い道筋もいつか
忘れ去られようとしている しかし熊野の奥深い地には 今なお当時の姿を残す熊野古道が存在する

九十九王子(くじゅうくおうじ)

主に12・3世紀にかけ 熊野古道沿いに存在する沿道住民の祀る氏神的雑神である小社を
急速に組織し王子と認定したのは 皇族等による熊野詣の先達をつとめた熊野修験たちで
その目的は 参詣者の守護祈願と旅の便を図ることにあった 王子という名も
峯中修行者を守護する神仏は童子の姿をとるという修験道の思想に基づくものである
したがい王子は 紀伊路中辺路の沿道に限られ存在する社を指している 後の鎌倉時代頃以降一般庶民や
武士階級の参詣増加と熊野詣自体の後退に伴い その多くは衰退し廃棄されるにいたった
九十九王子の中に五体王子と呼ばれる特別な王子がある 格式が高く熊野三山に祀られる神々のなかでも
若一王子・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮を祀る神社で 三山から勧請したものと考えられている
それは 藤代王子・切目王子・稲葉根王子・滝尻王子・発心門王子の五社とするのが一般的である

101社の九十九王子

■ 現在も社がある王子 ■ 社跡がある王子 ■ 社跡が不確実な王子 ■ 跡地不明な王子
●名称:王子省略
大阪 窪津坂口郡戸上野阿倍津守  境・大鳥居 <和泉 篠田・平松・井ノ口
岸和田・貝塚 池田・麻生川・近木・鞍持 泉佐野 鶴原佐野・籾井
泉南 厩戸・信達一ノ瀬長岡 <阪南市 地蔵堂・馬目
和歌山 中山・山口・川辺・中村・吐前・川端・和佐・平緒奈久知
海南 松坂松代菩提房祓戸藤代藤白塔下・橘本所坂・一壷 有田 蕪坂・山口・糸我
湯浅 逆川・湯浅 広川 津兼・河瀬・馬留 <日高 沓掛・馬留・内ノ畑高家
御坊善童子愛徳山・九海士・岩内・塩屋・上野 印南 津井・斑鳩・切目・切目中山
みなべ 岩代・千里・三鍋 田辺 芳養・出立秋津・万呂・三栖
上富田 八上・稲葉根・一ノ瀬 <田辺 鮎川
中辺路 滝尻・不寝・大門・十丈・大坂本・近露・比曽原継桜・中ノ河・小広・熊瀬川・岩神・湯川
本宮 猪鼻・発心門・水呑・伏拝祓戸・湯ノ峯
本宮大社に詣でた後は熊野川を船で下る 新宮からは徒歩で那智へ
新宮 浜・佐野 <那智勝浦 浜の宮・市野々・多富気
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