2011.06.27 大阪府和泉市 小栗街道(熊野街道)

高石市に接する上町から和気町2丁目まで 近世街道の雰囲気を残す小栗街道
和泉市内では 信太山丘陵の裾を 現在のJR阪和線とほぽ平行して通る
和泉市内の上町から和気町まで歩く
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上町から北側 泉北有料道路を遠望
小栗地蔵 標高25mから大阪湾側
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太町の光受寺前 西(右)へ行くと葛葉稲荷神社がある
葛葉稲荷神社
神社掲示板 葛葉稲荷神社の伝説
約千年余り前のこと 今の大阪市阿倍野の里に阿倍保名が住んでいた 父は豪族であったが人にだまされ
所領を没収されたので 保名は家の再興を願い当地信太森にある葛葉稲荷に日参していた
ある日のこと数人の狩人に追われた一匹の白狐を助けた そのとき保名は手傷を受けその場に倒れた
白狐は「葛の葉」という女性に化け 保名を介抱して家まで送りとどけた  それから数日後
「葛の葉」は保名を見舞い やがて互いの心が通じ合い 妻になり童子丸という子供をもうけた
その子が五才のとき 狐であることが明らかとなり
「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」の一首を障子に書き残して
信太の森へ帰ったといい伝えられる
この葛葉伝説にまつわる狐がおまつりされているのがこの神社で 今も人々の信仰をあつめている
和泉市 (財)和泉市産業・観光振興会
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葛の葉稲荷のクス 樹高21m 幹周り11m
千度石のある境内と信太の森

諸説ある葛の葉伝説 葛の葉狐・信太妻・信田妻などの名で口説き節として語られ全国に広まった
「葛葉」を主人公とする人形浄瑠璃と歌舞伎の演目「蘆屋道満大内鑑」は「葛の葉」と呼ばれ上演される
大略は次のような話しである
村上天皇の時代 河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため 兄の蘆屋道満の占いにより
狐の生き肝を得ようと和泉国「信太の森」で狐狩りをした
摂津国東生郡の安倍野に住む安倍保名(実在ではなく伝説上の人物とされる)が信太の森を訪れた際
狩人に追われていた白狐を助けてやるが その際「けが」を負ってしまう
そこに「葛葉」と名乗る女性(にょしょう)が現れ保名を介抱し家まで送りとどけた その後も
「葛葉」が保名の看病のため通ううち いつしか二人は恋仲となり結ばれ「童子丸」という子供を授かる
保名の父である郡司は悪右衛門と争い討たれてしまうが 保名は悪右衛門を討ち仇をとる
童子丸が5歳のおり白狐である姿を「我が子」に見られてしまい 「葛葉」は泣く泣く信太の森へと
帰ってゆくが 歌を一首残していく「恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」
保名は障子に書き残された歌から自ずと「葛葉」が助けた白狐であることを悟り
童子丸を連れ信太の森に行った 姿をあらわした「葛葉」は「信太の森」に住む主であった
「葛葉」から今生の別れを告げられると同時に水晶の玉と黄金の箱を授かった
数年後 童子丸は晴明と改名し天文道を修め 母親の遺宝の力で天皇の病気を治し 陰陽頭に任ぜられた
しかし 蘆屋道満との対立から天皇に讒言されるが 道満に勝ち
敗れた「蘆屋道満」は処刑され 道満によって命を奪われた父の保名をよみがえらせた
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王子町 地名の由来は篠田王子
王子町三丁目 聖神社一の鳥居

聖神社
聖神社は白鳳3年(674)天武天皇の勅願によつて信太首(しのだのおびと)が創建したと伝えられ
以降延喜式内社 和泉国五社明神の三の宮に列し「信太明神」の別称でも人々に親しまれている
祭神は素菱鳴尊の孫神「聖大神」を主祭神とし 「天照大御神」他四柱の神々を配祀している
かつての境内地は信太山丘陵(篠田の森)の大半約百万坪を有していた
境内には国指定重要文化財である慶長9年(1604)再建の聖神社本殿をはじめ
末社の三神社本殿 瀧神社本殿があり  末社平岡神社本殿は大阪府有形文化財に指定されている
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二の鳥居と参道
拝殿
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国指定重要文化財 聖神社本殿(昭和25年8月29日指定)
豊臣秀頼が片桐且元を本行として再建し 屋根は桧皮葺 桁行三間 梁間(はりま)三間の
三間社入母屋造という神社建築様式で 桃山文化の粋を集めた極彩色の装飾が施された壮麗な社殿である
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末社三神社本殿(写真右側)三間社春日造とよばれる全国的にも珍しい建築様式で
屋根は桧皮葺 正面三間 身舎側面二間の前面に一間通りの庇を設け極彩色が施されている
元は東南部の神護寺「奥の院」に鎮座していたが 明治六年の神仏分離令により現在地へ遷座した
末社瀧神社本殿(写真左側:昭和52年1月28日指定) 三神社の北側に隣接 鎮座する社殿で
屋根は桧皮葺 正面一間 身舎側面一間の一間社春日造である
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王子町 篠田(信太)王子跡
幸町二丁目の八坂神社

篠田(信太)王子跡 掲示板抜粋
熊野街道筋の要所要所に 遙拝所兼休憩所として設けられたのが 熊野権現の末社である「王子社」で
数が多いことから熊野九十九王子と呼ばれている 和泉市内には 篠田・平松・井ロの三王子があった
後鳥羽院の熊野詣に随行した藤原定家の記録によると 一行はここ篠田王子で禊ぎの後
信太明神(聖神社)に参拝している
この地には 熊野権現が祀られていたが明治42年(1909)に葛葉稲荷に合祀された 
王子町の地名は篠田王子があったことに由来するものである

八坂神社の 宣札場
この建物は江戸時代に当地区が天領であった頃 領民に対する公示事を掲示する建物であった
当時は 総庄屋屋敷の門前にあったが 大切な文化財として保護の為 神社境内に移転された
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八坂神社の宣札場
幸町三丁目 熊野街道は左へ
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幸町三丁目 空池公園前(北側撮影)地蔵堂の辻
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放光池一号公園と空池公園前交差点北西角にある平松王子跡の碑
放光池一号公園は通称・空池と呼ばれ 8月の旧盆には 昔より信太山盆踊りが盛大に行われ
近郷近在の若者が集う 踊りは平安時代から続き 大阪府の伝統芸能に指定されている
平松王子は「是より北北西七十米」とあり 和泉山手郵便局の西側にあったとされている
近くに公園と歌碑・平松王子説明掲示板が設置されている
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幸町三丁目の「平松王子」跡 公園と歌碑
平松王子
平松王子は藤原定家の 「後鳥羽院熊野御幸記」によれば 建仁元年(1201)10月の後鳥羽院上皇の
熊野御幸の折り この王子近くに設けられた行宮(平松御所)で上皇一行が宿泊されており
上皇は「平松は また雲深く たちにけり あけ行く鐘は なにはわたりか」の一首を残している
藤原定家が記した熊野御幸の様子「名月記」(熊野御幸記)の建仁元年(1201年10月6日)に
篠田王子
「次いで篠田王子、また前のごとし。先ず松の下において御祓あり。宗行御使となりシノダの明神に参ず」
平松王子(渡辺の津を出発して2泊目宿泊地)
「次いで平松王子、この王子においてことに乱舞の沙汰あり、これより御馬を停め歩いて平松新造御所に
入りおはします。ともの者も各々宿所に入る。その新造御所は、方三間の粗末な建物である。
しかし、板敷きではない。その夜は風が冷たく、月が明るかった。」 とある
資料によれば 御幸の供連れ800余名 一日の食糧米16石余り 馬190頭とあり大変な旅でした
街道地域から調達する労・食も多く 庶民にとっては負担の大きいものだったと思われる
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公園角の住吉大神宮石灯籠
この石燈籠は 小栗街道の伯太北出口 放光池の堤防道の西側にあったもので
住吉神社の境内にある「住吉の高燈籠」とともに大阪湾を航行する船に
現在位置を知らせる灯台の役目を果たし  大阪湾安全航行のシンボルとなっていたと言われる
形式からみて約三百年前のものと推察されている
石灯籠のある位置は標高29.3mあり 江戸期の海岸線より約3kmほど内陸にあたる
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伯太町四丁目の放光池二号公園
伯太町五丁目 (北側撮影)
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伯太町五丁目の明坂歯科医院 茶筅髷を結った先生が出てきそう
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隣の本町米穀店
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伯太町三丁目 自衛隊前
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伯太町二丁目 池田道分岐 道標「左:池田・槇尾・松尾寺」「右:小栗街道」
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伯太高校前の碑
府中町六丁目
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府中町六丁目の旧家
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府中町六丁目 泉井上神社前の里程標
「距大阪麗橋元標六里十四丁五十六間」と書かれており紀州街道と途中で分かれたことを示している
江戸期に設置と思われたが 明治37年(1904)3月に大阪府が設置したものであった
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泉井上神社と鳥居前の辻にある牛瀧寺道標
南を指す道標はおそらく父鬼街道を経て牛瀧寺へ至る道標である 享保6年(1721)に設置
泉井上神社
泉井上神社は 「和泉」の地名の発祥となつたと伝えられる「和泉清水」を祭る神社である
五社総社は 奈良時代に河内国から分離し和泉国が設置された際 国府の所在地府中に
国内の五大社である大鳥・穴師・聖・積川・日根を総合して勧請し 参詣の便を図つたといわれている
現在の本殿は 慶長10年(1605)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもので
国の重要文化財に指定されている 正面桁行三間、身舎側面二間、屋根が一間分前へ延びて庇をなす
「三間社流造」と呼ばれる形式で 桧皮葺である 正面と両側面には縁を廻して組高欄を設ける
向拝位置は浜床を張つて半高欄を置き、五級の階段にも宝珠柱の立つ登高欄を設けている
また内部は内外陣境を三枚の両開き板戸で分割される 主要部分は丹塗りで極彩色を施し
よく当時の様式を残しており、造営時期が明確な社殿として貴重である
大阪府指定史跡   和泉清水
古くから「国府清水」または「和泉清水」とよばれ 霊泉として祭られるとともに
農業用水として周辺の農地を潤してきた泉である 社伝によれば泉は
神功皇后の新羅出兵の際に一夜にして湧き出たことから霊泉として祭られるようになったという
水は常に清らかに澄み その味は甘露であるとして広くその名を知られた
秀吉も大阪城に運ばせて茶の湯に用いたという 当地は古より和泉国和泉郡和泉郷とよばれたが
「和泉」という地名も また「泉井上神社」の社名もこの泉に由来すると伝えられている
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府中町三丁目の妙源寺裏 蛇行する街道
織布を巻取るシリンダー 和泉は織物の街だった

和泉木綿
日本の綿スフ織物の歴史は古く600余年前の室町時代に綿の栽培をおこない 白木綿を製織したのが
始まりとされている 江戸時代には摂津・河内・和泉・大和など畿内を中心に急速な発展を遂げ
広く日本国中に知れわたり中心的な綿織物産業地帯を形成するに至る
中でも和泉の産地に長く引き継がれてきた白木綿を「和泉和晒」という
中世期の絹・木綿は朝鮮・中国から輸入され 貴重品となって庶民は布子と言われる麻織物を着用した
やがて永正7年(1510)三河木綿が奈良市場に現れ 綿作技術は和泉・河内など畿内にも普及し始めた
天正から慶長期(1573〜1614年)には木綿が普及し庶民の衣料素材として麻にとってかわることになる
寛永5年(1627)江戸幕府は奢侈禁止令を出し「農民の着物は布木綿たるべし」と下達したことで
綿が急激的に不足して 畑だけでなく田にも綿を栽培するものが急増 米の減収を恐れた幕府は畿内に
「田方木綿作禁止令」を寛永19年(1641)に発布しなければならないほどであった
綿作開始当初の農家では 収穫したままの実綿または種を取り除いた繰綿を売り
残り綿を自家用の綿布として織っていたが 付加価値の高い織布として販売するようになる
元禄(1688)から宝暦(1763)年間には 多くの絹織職人が木綿織りに転換するなどして
木綿生産は急増する その後 文化7年(1810)には 泉州における木綿の年間総生産量は100万反に
さらに文久年間(1861〜1863)には200万反に達し50年間で倍増している
毛足が長く良質な和泉産の綿花は細い糸を紡ぐことができるため その糸で織り上げた布は
染用の薄手の晒木綿として 手拭地や紅裏地(紅花で染めた着物の裏地)に用いられ
「和泉木綿」の名で高く評価された
綿作の衰退
8代将軍吉宗が進めた「享保の改革」が綿作の衰退を促したのは確かである
従来の年貢徴収法は 年毎に収穫量を見てその量を決める検見法(けみほう)が採用されていたが
税徴収の安定を図り採用されたのが定免法であった これは過去一定期間の収穫高の平均から
年貢率を決めるもので 豊凶に関わらず一定の年貢を納めることになり 手間暇が掛らずその上
余りにも凶作のときは「破免」が認められることがあった 四公六民から五公五民に増税されても
思わぬ豊作の時 余剰米は農家の物となり好意的に受け入れられた
しかし元文2年(1736)勘定奉行となった神尾春央は二次改革で有毛検見法を採用する
これはその年その村の稲の一番良い出来高に準じて徴収するという法で しかもこれまでは
本来入会地であり課税対象ではなかった 河川敷や山林まで「新田」とみなして年貢対象とした
 これで農民から余裕を奪い山村は荒廃の一途を辿り 離農し逃げ出す農民を生んだ
これに対し無宿者・非人など賤民を差別し取り締まったのも「享保の改革」であった
延享元年(1744)神尾春央らは東海道から畿内を巡検 河内・摂津では検地阻止のため
2万人が集結し中止させた 対し神尾春央は「田方木綿勝手作法」という悪法を打ち出した
これは稲を作るべき田に綿を作るのは百姓の勝手であるとし
田の綿作が全滅しても それは農民が勝手にしたことで 年貢は有毛検見法により
その年その村の稲の一番良い出来高に準じて徴収するというものであった
宝暦(1751)から明和(1771)期 綿作農家は全国的な飢饉もあって大打撃を受ける
その後は 肥料の高騰もあって畿内の綿作は衰退の一途たどった
明治4年(1871)に「田畑勝手作」が許可され一時盛り返したが
明治29年(1896)に輸入綿花税が撤廃されるとその姿を消し 泉州は野菜産地となった
和泉木綿壊滅
木綿織りの現場では機械が改良され生産効率や品質が高まるなど 和泉の織布産業は発展し続け
大工場による大量生産が始まり 泉州は日本の綿織物の約50%を生産する日本一の産地となったが
綿作がなくなったことで 大半の糸が機械紡績綿糸や輸入綿糸に変り独特の「和泉木綿」は消滅した
戦後の朝鮮動乱景気には機械がガチャンと動けば「万円」になると「ガチャ万」と比喩され
高度成長期を通して順調に成長を続けるが 昭和50年以降は アジア諸国からの輸入攻勢に遭い
繊維不況の風が押し寄せ廃業が相次いだ 今日 繊維関係の輸入品に占める割合は90%を越え
日本一の織物産地であった泉州は産地崩壊の危機に瀕していると言える
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府中町三丁目の街道
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府中町四丁目の旧家
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府中町二丁目
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府道30号和泉泉南線交差点
交差点にある妙福寺境内井ノ口王子跡
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府道柳田橋を渡りすぐ右へ降りると 旧街道がある
以前は橋の傍らに石標があったらしいが 今はない
新しい住宅地になっても街道跡は蛇行している
旧道を直進すると府道227号線との交差点にでる
府道を横断してコンビニの左横 田中ニットの裏を
水路に沿って街道は続く
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やがて水路合流地点の石橋を渡る(拡幅部は鉄板が敷かれている)
石橋はコンクリートが発明される以前の近世または近代に架けられたという証でもある
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住宅地に突きあたり街道は消える
以前は畑地となっており 明治以降早い時期に街道は消滅したものと思われる
手前に川を埋め立て公園化した場所に新しく橋を架けているが 道幅は旧街道の倍はある
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和気の信号に戻ると台座に左妙泉寺と書かれた法華経の題目石がある
安永2年(1773)に建立されたが街道脇から移設されて なおも東へ90度方向転換している
妙泉寺へ寄り道する
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安永2年(1773)建立の題目石
小山製氷 家業は変っても門は変らず
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妙泉寺への辻
妙泉寺山門
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妙泉寺前の小径
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