余部橋梁今昔写真

橋梁の架替えは 1960年代に一度検討されたが改良補強案が採用され 以降は補強保守作業が強化された
結果 丁寧な補修と点検が続けられ 98年と6ヶ月という一世紀近い間を風雪に耐えてきたことになる
しかし 昭和61年(1986)季節風の吹く12月28日13時25分頃
香住駅より浜坂駅へ回送される無客の列車が 日本海側からの最大風速約33mの突風にあおられ
牽引していた客車全部が橋梁より転落し真下にあった水産加工場と民家を直撃した
加工場と民家が全半壊し 工場従業員の5名と乗務中の車掌1名の計6名が死亡
日本食堂の車内販売員3名と工場従業員3名の計6名が重傷を負うという大惨事が発生した
重量のあるDD51形ディーゼル機関車は転落を免れ 機関士と留守にしていた住民は事故を免れた
ただ機関士の上司が事故後に責任を感じて自殺している 鉄橋から転落し死亡者が出た鉄道事故は
明治32年(1899)の東北本線(当時は日本鉄道)箒川橋梁からの客車転落事故以来87年ぶりのことで
鉄道関係者に与えた衝撃は大きかった 直接の原因は転覆限界風速を超える横風と
強風・風速計故障による指令の判断ミス結論づけられた しかし 学術的解明によって
理論上では当時吹いていた風速では転覆することはなく 線路が風向とは逆方向に曲がっていたことから
原因の真相は客車に対する直接の風圧ではなく 縦横の剛性比の考慮を欠いた補強工事と
橋脚の基礎をコンクリート巻きで補強したことで 主塔の応力分散がバランスを崩し強風により振動する
フラッター現象が発生したとする橋梁原因説が引き出された しかし この詳細な報告書は
以降も関係者によって検討されることは無かった 事故後は風速規制を25mから20mに下げたことで
運休遅延がたびたび発生した そのため平成3年(1991)鳥取兵庫両県を主体とする地元自治体によって
「余部鉄橋対策協議会」が設立された その背景には平成6年(1994)から平成15年の間においても
冬季を中心に年平均で84本もの運休が発生し 沿線地域の日常生活などに大きな影響が出たことが
事実として横たわる 対策案としてはバイパス的な新線建設も検討されたが
事業費が多額となることから見送られ その後 鉄橋に防風壁設置をすることも検討されが
鉄橋本体の老朽化もあって根本的な解決策とはならず 長期の安全性を確保することが難しいとされた
平成13年(2001)11月 JR西日本から新橋梁の建設が地元に対し提案され
翌年7月に開かれた「余部鉄橋対策協議会の臨時総会」において 架替え方針を決定しこれを受諾した

掲載した旧鉄橋の写真は2005年5月撮影のフィルム写真である
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橋梁下の居住者にとって鉄橋の存在は 長年に渡る苦痛の種であった
列車通過時の騒音が深夜まで及ぶ他 様々な落下物・飛来物に悩まされ続けた
ボルト・ナット・リベットなどの部品 列車から排出される雨水 振動によって落下する氷柱や氷塊及び雪庇
日常的に降り注ぐ鉄粉 時には風圧で割れたガラスや乗客が捨てた空き缶 そのうえ自殺者まで落下してきた
鉄橋には一時期まで小物の落下防止の金網はなく、対策用の転落防止柵も低かった
しかし それ以上に住民に不快な思いをさせたのは 列車便所から垂れ流しされる糞尿であった
国鉄が長年対策を怠り先送りしてきたことで 頭上に糞尿が降り注ぐなど到底想像もできないことが続いていた
昭和40年6月に清掃法が改正され 列車を運行する者に対して適切な屎尿処理を行うことが義務付けられたが
国鉄が分割民営化される直前の時点でも100%ではなく 全汚物量の75%の量しか処理できなかった
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餘部(余部)の起源は 日本の古代律令制まで遡る
古代律令制では 行政組織として国・郡・里(後に郷)が定められた 最小単位の里は50戸ごとに編成され
50戸を満たさない小集落は餘部と呼んで 里長の下に保長を付け監督したとされる
その出現については 里の編成時に余った戸を編成呼称したとする他 僻地の小集落を指すという見方もある
令文に明確な規定はなく その後 戸数の増加によって里に昇格する場合もあった
その場合「餘部」という呼称が地名として定められた里(郷)もあった

『出雲国風土記』の意宇・島根・楯縫・神門の各郡に「余戸の里」が記述される他 近現代まで
余戸(宮城・愛媛)余部 (兵庫飾磨郡・揖保郡 京都府舞鶴市) 余目(山形県庄内町)などが見られる
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新橋の建設は「山陰線鎧・餘部間余部橋りょう改築他工事」の名で 清水建設・錢高組の特定JVが施工
平成19年(2007)3月29日に準備工に着手 同年11月から橋脚の基礎工事を初め
平成21年(2009)の春から橋桁の工事に入った 竣工予定は2010年9月中とされていたが
天候にも恵まれ 順調な工程により1か月程度早く新旧橋梁の切り替え工事が実施されることになった
余部鉄橋は 平成22年(2010)7月16日午後9時50分「はまかぜ」5号の通過をもって営業運行を終了し
同日深夜の同列車上り回送をもって車両通行がすべて終了した 翌7月17日から区間運休し
旧橋梁の東部起点側を一部撤去し 新橋梁の橋桁を横移動させた上で 回転させて架設するという
「橋桁移動旋回工法」を実施した この工法は日本初で 移動されるコンクリート製の桁は
全長約93m 重量約3,800tであった 4.0m平行移動させた後
1号橋脚を支点として角度−5.2度(鎧側橋台上で4.6m長に相当)回転させて所定の位置に橋桁を据えた
遡る平成21年(2009)11月24日 清水建設技術研究所の実験棟にて「橋桁移動旋回工法」の
大規模実証実験が事前に行われている 桁や鋼材のサイズを1/10にして
水平移動・回転などを検証しており 安全性など想定通りの結果が確認された上で実施された技術である
現場では8月上旬まで付帯工事を終了 同年8月11日に切り替え工事全てが終了した
平成22年(2010)8月12日未明 ディーゼル機関車による試運転列車が最初に新橋梁を無事通過
定期列車の運行は 餘部駅午前6時27分の始発列車であった
西側三ヶ所の橋脚・橋桁は保存され「空の駅」展望台となっている
橋脚の足下では道の駅「あまるべ」が建設され 周辺の公園化も図られて一部の橋脚はオブジェとして
また照明用の支柱として残されている
新余部橋梁は 2010年度土木学会田中賞作品賞を受賞した 他にも様々な賞に輝いている
新橋梁がこの先100年後「土木遺産」となることを願う
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橋梁保存区間「空の駅」へ続く線路
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駅から見た余部集落
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餘部6時27分発のぼり始発列車
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「空の駅」早朝で入れない
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保存され「空の駅」となった橋脚
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腐食が進んでいた1910年製造の旧橋梁鋼材
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鳥取発 播但線経由 大阪行き 特急「はまかぜ」2号
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東部起点のS字橋桁 橋台も「橋桁移動旋回工法」のため右に張り出している
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工事が続く 道の駅「あまるべ」の保存橋脚の照明支柱とオブジェ
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