鉄道省沿革

明治02年(1869)12月 明治新政府が鉄道建設を決定した
東京−京都(中山道ルート)・大阪−兵庫の幹線及び東京−横浜間支線・琵琶湖−敦賀港間支線の 自国管轄による鉄道建設計画を策定し上程すると伴に
技術及び資金の援助を英国に求め 新橋横浜間の鉄道建設を開始した
軌間ゲージについては 山岳地帯の多い日本では小半径のカーブが多用されることを考慮し コスト面においても有利である狭軌の1067mmを採用した
明治03年(1870)03月民部省内に鉄道掛を設置
明治04年(1871)12月民部省から官営事業管轄部門を独立させて工部省が設立され工部省鉄道寮となる
「工」のマークは工部省の「工」から採用された
明治10年(1877)01月鉄道寮から鉄道局へ名称変更
明治18年(1889)12月工部省の廃止 鉄道局は内閣府の管轄となる
明治22年(1885)07月東海道本線 新橋ー神戸間全通
明治23年(1890)09月内務省外局 鉄道庁となる
明治24年(1890)09月東北本線 上野ー青森間全通
明治25年(1892)逓信省外局 鉄道庁となる
明治26年(1893)11月逓信省 鉄道局となる
明治30年(1897)08月逓信省鉄道局より現業部門が鉄道作業局として分離
明治38年(1905)04月北海道官設鉄道が鉄道作業局に編入
明治39年(1906)03月鉄道国有法施行 翌年から明治40年まで私鉄の国有化が進む
12月山陽鉄道を国有化 神戸ー下関間・山陽本線となる
明治40年(1907)04月逓信省鉄道作業局が帝国鉄道庁として昇格 逓信省鉄道局は監督行政のみとなる
明治41年(1908)12月鉄道院を新設し再び内閣の直属機関とした
これは 目まぐるしく変わる鉄道行政の所管変更と 監督と現業の分離が著しい混乱を生み 鉄道国有化法施行をきっかけとして大きな社会問題となったことが原因であった
政府は事態の収集を図るため再び鉄道局と帝国鉄道庁を統合し各地に鉄道管理局を設置した また各地の運輸事務所・保線事務所・工場などを統括した
明治42年(1908)11月鹿児島本線全通 青森ー鹿児島間が国鉄で繋がる
明治43年(1910)04月軽便鉄道法施行 鉄道開設を簡略化し民間資本による鉄道建設を促す
大正09年(1920)05月鉄道省に昇格 地方に鉄道局・教習所・建設事務局・鉄道病院が設置された
昭和18年(1943)11月戦時体制に伴い逓信省と合併 運輸通信省鉄道総局に改組された
昭和20年(1945)05月運輸通信省解体 運輸省鉄道総局となる
昭和24年(1949)06月GHQ(連合軍総司令部)による命令で公共事業体の日本国有鉄道が発足した
GHQの考える公共企業体とは 成熟し又はするであろう資本主義社会に於ける公共事業のあり方を薦めるものであった 具体的に言えば資本主義に基づく効率的経営と赤字路線の包括的運営を掲げ 社会資本として存続させるというもので 国の援助無しでは出来ない鉄道事業経営に於いては理にかなったものであった
しかし戦前において 鉄道事業に干渉し続けてきた政治家自体が公共事業体を理解したとも思えず また過度の政治的影響を受けてきた国鉄さえも変わることが出来なかった中途半端な改革であったと言える 故に国家財政の面から赤字路線を多大に抱える羽目となり 国鉄を完全民営化する案が提示され 雪崩をうつように民営化へと進んだ
”社会資本的”な観点による論争は皆無に等しく 経済効率のみを追求し
国が行うべき重要なライフラインの構築から逃避し撤退を宣言するものであった
その後 時の経過とともに 地方路線とそれに関わる地方そのものが 切り捨てられてしまったことが明白となっていった
昭和61年(1986)12月日本国有鉄道改革法施行
昭和62年(1986)04月日本国有鉄道分割民営化 6社の地域別旅客鉄道会社と1社の貨物鉄道会社などに分割
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