2015.11.05 山陰車中泊の旅 No.3 浜田市

浜田城址
元和5年(1619)に徳川頼宣の和歌山転封に伴い 伊勢松坂・5万5千石から
浜田・5万4千石に国替となった古田重治(ふるたしげはる=羽柴秀吉の家臣であった古田重則の三男)が
領内各地を検分の後 現在地の鴨山に築城することとなり 鴨山を亀山と改め
元和6年(1618)2月に築城を開始し 元和9年(1623)5月に城及び城下の諸工事を完了した 亀山は標高68mの
独立式丘陵で 北部を松原湾 東部を浅井川 南部と西部を浜田川によって囲まれ それぞれを天然の掘割とした
浅井川を外堀として改修し 同じく松原・殿町の湿地帯を流れていた水路を内堀とし
浜田川以北の堀と川と海に守られた地域を丸の内として武家屋敷を 浜田川以南に
浜田八町と呼ばれる町人町をそれぞれ形成し 浜田川本流をその境として改修した
本丸には高さ約14mの三重櫓(天守)があるのみで 他に櫓はなかった
これは 元和元年に発令された武家諸法度(元和令)第二条項の
「一、諸国の居城、修補をなすと雖、必ず言上すべし。況んや新儀の構営堅く停止せしむる事。」とあるように
新たな城郭を構築することが禁じられたことで 櫓を一ヶ所のみとすることで天守の代わりとしたのであろう
二ノ丸には櫓台・塩硝蔵・本丸常番所・時打番所が 三ノ丸には諸役所・土蔵・表屋敷・南屋敷などがあった
重治は 城の完成を待ち 長男・重勝の嫡男・重恒に家督を譲るが 重恒に跡継ぎが生まれず
慶安元年(1648)6月 重恒の死去によって世嗣断絶となり古田氏は改易となった
以後は 徳川方の譜代・親藩が入れ替わり統治し 長州藩に対する山陰側の押さえの要とされた
慶応2年(1866)第二次長州征伐の際 大村益次郎が指揮する長州軍の進攻を受け 藩主の松平武聡は
戦わずに敗走し 浜田藩の残兵によって城と城下町に火が放たれ 浜田の町は灰燼と帰した
浜田城も廃棄され 城主の松平武聡は飛地領に移り美作鶴田藩として明治維新を迎えている
現在は 本丸から三の丸にかけて階段状に石垣が残されるのみである 昭和37年(1962)県史跡に指定された
昭和42年(1967)浜田県庁正門に移築して使われていた津和野藩武家屋敷の門を 登城口に再度移築している
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<地理院地図> ○印が本丸跡
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<上>浜田城復元CGI 浜田護国神社正面左手の方向から見上げた復元図です。山頂に構えられた本丸には天守の代用である高さ約14mの三重櫓がそびえ、その右手に本丸一ノ門と一般には多聞櫓と呼ばれる六間長屋の屋根が見えます。本丸の下には出丸の石垣と塀が見え、さらに右手にはニノ門が見えます。
平成17年3月10日 浜田市教育委員会
<左>1759年〜1769年の浜田城と現在の重ね地図
@ 三重櫓  A 玉蔵   B 六間長屋 C 本丸一ノ門
D 二ノ門  E 出丸   F 焔硝蔵  G 中ノ門
H 裏門   I 大手門  J 御殿   K 南御殿
L 茶屋   M 庭園   N 船倉
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浜田県庁の門
この門は、元々津和野城の門ですが、明治3年(廃藩置県)の浜田県設置にともない、
その県庁舎として明治4年に門を含む建物(大広間)が現在の浜田郵便局の地に移され、
明治5年に上棟式が行われています。したがって、浜田城ゆかりの門ではなく、また置かれている場所も
本来は門のない位置にあります。しかし、この門は明治9年に浜田県が島根県に合併されて以降も、
那賀郡役所、那賀地方事 務所等の正門として充用され、昭和41年に浜田合同庁舎が移転するまでの、
明治・大正・昭和の地方政治を見つめ続けてきました。また、 津和野城の門としても貴重であることから、
昭和42年に島根県から浜田市に譲渡され、この 地に移築されました。
平成26年7月20日  浜田市教育委員会
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ニノ門跡
正面の石垣と通路を挾んだ左側の石垣(現在は石垣が崩落し、土塁状となっています)との間に
ニノ門がありました。ニノ門は階下に門、階上に長屋をのせた櫓門で、両脇の石垣上にはその長屋に接して
塀を廻らせていました。記録には「渡門」「廣サ ニ間三間四方」とあります。
この門をくぐると高い石垣で方形に囲まれた空間が設けてあり、進路を阻む構造となっています。
これは敵の侵入を封じ込めるとともに出撃の際に兵を待機させる等、攻守に強固な機能を備えています。
この様な出入口を一般に枡形虎口と呼び、近世城郭を構成する要素のーつとされています。
浜田城では本丸の正面に位置するこのニノ門にしか、この様な構造を採用しておらず、重要な城門といえます。
平成15年8月20日   浜田市教育委員会
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外ノ浦の湊と松原湾
正面の深く入り込んだ入江が外ノ浦です。この外ノ浦は、天然の地形を利用した風待港で、
西廻り航路が整備された寛文12年(1672)以降、瀬戸内方面と北陸方面とを結ぶ中継点として、
諸国の廻船が多数入港する浜田藩で最大の物資流通拠点でした。
 廻船の停泊場所には廻船問屋が建ち並び、その顧客について記された『諸国御客船帳』によれば、
米・塩・砂糖・種油等が荷揚げされ、扱苧(麻糸の原料)・干鰯・銑鉄・半紙・塩鯖・焼物等の地元特産品が
積出しされていたことがわかります。また、正面の岬上には、浜田藩のために鎖国の禁を犯して密貿易を行い、
天保7年(1836)に捕らえられて死罪となった会津屋八右衛門を顕彰した「會津屋八右衛門氏頌徳碑」があります。
平成15年3月3日  浜田市教育委員会
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本丸跡(台座は報国忠勇之碑跡)
左正面の階段を登ると本丸となります。本丸は記録に「821坪半」(約2715平方m)とあり、その周囲には
高い石垣を築くとともに塀を廻らせ、塀には挟間と呼ばれる丸、三角、四角形の窓を79個所にあけて、
鉄砲や弓矢で射かけられるようになっていました。
本丸への出入口は階段上端に設けられた「本丸一ノ門」しかありませんでした。
この門をくぐると低い石垣を方形に囲った「三間四方」の空間がありました。
なお、現在残されている門の礎石や排水路等は安政4年(1857)に改修されたものと考えられます。
本丸内の建物としては、門の右横に接して六間長屋と呼ばれる倉庫的な建物(浜田城では櫓とされていない)があり、
本丸左奥には三重櫓(天主)がありました。また、5坪程度の玉蔵(鉄砲等の弾丸を収納)もありました。
平成15年8月20日  浜田市教育委員会

三重櫓(天守)
三重櫓はこの右側に建っていました。この櫓が実質的な天守であり、「上ノ重五間四面(25坪5厘3毛)
中ノ重七間四面(67坪二厘五毛)下ノ重東西9間 南北7間(67坪9厘4毛t)の規模を有し、
高さは4丈6尺1寸、鯱の高さ4尺6寸で、約15mありました。 文政10年(1827)の記録では、
浜田浦(現浜田漁港周辺)から見ると「森の中に城少し見ゆる」とあり、この櫓が見えていたと考えられます。
ただし、そのに外観は二層に描いた絵図と三層に描いた絵図とがあり、明らかではありません。
正面の展望は城下と浜田浦の各一部や海岸線の先に長浜湊(現浜田商港周辺)が望め、
山並みの高所が大麻山となります。ここを舞台に慶応2年(1866)第二次長州戦争(石州口の戦い)があり、
大村益次郎率いる長州軍に幕府軍が敗れ、浜田藩は自焼退城という運命をたどりました。
平成15年3月3日  浜田市教育委員会
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海と浜田城
浜田城は平山城であるとともに海城とも呼ばれ、海上交通を重視した城でした。
寛永3年(1626)、スペインの宣教師ディエゴ・デ・Sは船上から築城されてまもない浜田城を見て、
「立派な城である」と報告しており、海上から三重櫓等が望める形で築城されていました。
廻船は眼下の松原湾入口で帆を降ろし、外ノ浦の湊へ小船で曳航されていました。
その湾入口をはさんだ正面右側の丘陵地(夷ノ鼻・日和山)に、方角石が設置され、船頭たちが
天候や潮の流れ等の日和を判断しました。また、浜田川をはさんだ正面の丘陵高所には、灯台としての
役割を果たした遠見燈明堂が設けられていました。なお、背後の台座は、明治36年建立の「報国忠勇之碑」で、
本来その上に砲身と弾丸が設置されていましたが、昭和18年に供出され、現在に至っています。
平成15年3月3日  浜田市教育委員会
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礎石の残る本丸跡
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瀬戸ヶ島の御台場鼻と浜田マリン大橋
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HAMADA MARINE BRIDGE
開通は平成11年(1999)島根県浜田市の原井地区と瀬戸ケ島地区を結ぶ斜張橋 斜張橋部分305m
取付橋梁部310m 全長615m 主塔海面高92mの橋 これは 「国内の漁港施設の斜張橋としては最も長い」
と自慢げに語られるが 総工費80億円(橋梁部43億円)は無駄遣いとの指摘があったり 談合の摘発があったりと
 そして 島の東側には既に「港橋」という2車線+歩道の橋が架かっていたので
「島を開発するために架けた 工事用の橋である」との苦しい言い訳があったりと  今も物議を醸しだす
計画では 水産業を核とした地域づくりを行うため 漁港の特性を生産から流通 海洋観光 レジャーまで
幅広く再構築しようとし 現在「しまねお魚センター」と大橋がすでに完成しており 観光客誘致を目的に
漁港周辺の開発に使われた工事費は すでに250億円を突破している
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