2015.11.05 山陰石見の旅 島根県浜田市・三隅町・益田市
島根県浜田市の歴史
古代律令制によって山陰道に石見国が建てられると ほぼ中央に位置する中郡伊甘(いかみ)郷に国府が置かれた
中郡は 後に佳字二字令により「那賀郡」と改められた 中世期になると那賀郡伊甘郷のうち
現在の国分町・下府(しもこう)町・上府町とその周辺部が石見府中と称され 政治・経済・文化の中枢となった
特に 対馬の協力を得て大陸との交易拠点として発展したといわれ 戦国時代には毛利氏の所領となったが
自立的な交易が続けられていた記録が残る 当時の湊は 浜田川下流の左岸 今の片庭町・港町辺りとされている
なお 「浜田」という地名は 室町時代・嘉吉3年(1443)の宝福寺所蔵の大般若経奥書に
「石見國那賀郡小石見郷濱田村」とあるのが初見で 「小石見郷」が古代国衙領の那賀郡石見郷の後身と考えられ
14世紀初め頃に初見となることから 南北朝時代の政変以降の統合改称を経て命名されたものと思われる
廃藩置県前の那賀郡は 山間部39ヶ村を津和野藩が 77ヶ村を浜田藩が支配し 北部14ヶ村が幕府領であった
明治9年(1876)には島根県に統合され 明治12年(1879)行政区として発足した那賀郡に入った
明治22年(1889)4月 町村制施行により浜田藩の城下町とその周辺域の8町5村によって那賀郡浜田町が発足した
昭和15年(1940)11月 那賀郡浜田町・石見村・周布村・長浜村・美川村の1町4村が合併して浜田市が発足
その後 井野・大麻・金城村の一部と国府町を順次編入し 平成17年(2005)旭町・金城町・三隅町・弥栄村の
3町1村を吸収合併したことで 現在の郡域は浜田・江津の2市となり行政区の那賀郡は消滅した
浜田城址
石見国を含む中国地方の大半を領有していた毛利家が 慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」に敗北し
周防長門の2国に押し込められ 元和5年(1619)に徳川御三家・徳川頼宣の紀州和歌山転封に伴い
伊勢も紀州藩領となったことから 松坂藩主・古田重治が 伊勢松坂5万5千石から浜田・5万4千石に転封された
重治は領内各地を検分の後 現在地の鴨山に築城することとなり 鴨山を亀山と改めた
元和6年(1618)2月に築城を開始し 元和9年(1623)5月に城及び城下の諸工事を完了した 亀山は標高68mの
独立式丘陵で 北部を松原湾 東部を浅井川 南部と西部を浜田川によって囲まれ それぞれを天然の掘割とした
浅井川を外堀として改修し 同じく松原・殿町の湿地帯を流れていた水路を内堀とし 浜田川以北の堀と
川と海に守られた地域を丸の内として武家屋敷を 浜田川以南に浜田八町と呼ばれる町人町をそれぞれ形成し
浜田川本流をその境として改修した 城には高さ約14mの三重櫓を建造し本丸天守とし他に櫓は建てなかった
これは 元和元年に発令された武家諸法度(元和令)第二条項の
「一、諸国の居城、修補をなすと雖、必ず言上すべし。況んや新儀の構営堅く停止せしむる事。」とあるように
新たな城郭を構築することが禁じられたことで 櫓を一ヶ所のみとすることで天守の代わりとしたのであろう
二ノ丸には櫓台・塩硝蔵・本丸常番所・時打番所が 三ノ丸には諸役所・土蔵・表屋敷・南屋敷などがあった
重治は 城の完成を待ち 長男・重勝の嫡男・重恒に家督を譲るが 重恒に跡継ぎが生まれず
慶安元年(1648)6月 重恒の死去によって世嗣断絶となり古田氏は改易となった
以後は 徳川方の譜代・親藩が入れ替わり統治し 長州藩に対する山陰側の押さえの要とされた
慶応2年(1866)第二次長州征伐の際 大村益次郎が指揮する長州軍の進攻を受け
藩主の松平武聡は戦わず敗走し 浜田藩の残兵によって城と城下町に火が放たれ 浜田の町は灰燼と帰した
浜田城も廃棄され 城主の松平武聡は飛地領に移り美作鶴田藩として明治維新を迎えている
現在は 本丸から三の丸にかけて階段状に石垣が残されるのみである 昭和37年(1962)県史跡に指定された
昭和42年(1967)浜田県庁正門に移築して使われていた津和野藩武家屋敷の門を 登城口に再度移築している


山頂の本丸には天守の代用である高さ約14mの三重櫓がそびえ、その右手に本丸一ノ門と一般には多聞櫓と呼ばれる六間長屋の屋根が見える。
本丸の下には出丸の石垣と塀が見え、さらに右手にはニノ門が見える。
<左>1759年~1769年の浜田城と現在の重ね地図
1.三重櫓 2.玉蔵 3.六間長屋 4.本丸一ノ門
5.二ノ門 6.出丸 7.焔硝蔵 8.中ノ門 9.裏門
10.大手門 11.御殿 12.南御殿 13.茶屋 14.庭園
15.船倉
この門は、元々津和野城の門ですが、明治3年(廃藩置県)の浜田県設置にともない、
その県庁舎として明治4年に門を含む建物(大広間)が現在の浜田郵便局の地に移され、
明治5年に上棟式が行われています。したがって、浜田城ゆかりの門ではなく、また置かれている場所も
本来は門のない位置にあります。しかし、この門は明治9年に浜田県が島根県に合併されて以降も、
那賀郡役所、那賀地方事 務所等の正門として充用され、昭和41年に浜田合同庁舎が移転するまでの、
明治・大正・昭和の地方政治を見つめ続けてきました。また、 津和野城の門としても貴重であることから、
昭和42年に島根県から浜田市に譲渡され、この 地に移築されました。
平成26年7月20日 浜田市教育委員会
正面の石垣と通路を挾んだ左側の石垣(現在は石垣が崩落し、土塁状となっています)との間に
ニノ門がありました。ニノ門は階下に門、階上に長屋をのせた櫓門で、両脇の石垣上にはその長屋に接して
塀を廻らせていました。記録には「渡門」「廣サ ニ間三間四方」とあります。
この門をくぐると高い石垣で方形に囲まれた空間が設けてあり、進路を阻む構造となっています。
これは敵の侵入を封じ込めるとともに出撃の際に兵を待機させる等、攻守に強固な機能を備えています。
この様な出入口を一般に枡形虎口と呼び、近世城郭を構成する要素のーつとされています。
浜田城では本丸の正面に位置するこのニノ門にしか、この様な構造を採用しておらず、重要な城門といえます。
平成15年8月20日 浜田市教育委員会
正面の深く入り込んだ入江が外ノ浦です。この外ノ浦は、天然の地形を利用した風待港で、
西廻り航路が整備された寛文12年(1672)以降、瀬戸内方面と北陸方面とを結ぶ中継点として、
諸国の廻船が多数入港する浜田藩で最大の物資流通拠点でした。
廻船の停泊場所には廻船問屋が建ち並び、その顧客について記された『諸国御客船帳』によれば、
米・塩・砂糖・種油等が荷揚げされ、扱苧(麻糸の原料)・干鰯・銑鉄・半紙・塩鯖・焼物等の地元特産品が
積出しされていたことがわかります。また、正面の岬上には、浜田藩のために鎖国の禁を犯して密貿易を行い、
天保7年(1836)に捕らえられて死罪となった会津屋八右衛門を顕彰した「會津屋八右衛門氏頌徳碑」があります。
平成15年3月3日 浜田市教育委員会
左正面の階段を登ると本丸となります。本丸は記録に「821坪半」(約2715平方m)とあり、その周囲には
高い石垣を築くとともに塀を廻らせ、塀には挟間と呼ばれる丸、三角、四角形の窓を79個所にあけて、
鉄砲や弓矢で射かけられるようになっていました。
本丸への出入口は階段上端に設けられた「本丸一ノ門」しかありませんでした。
この門をくぐると低い石垣を方形に囲った「三間四方」の空間がありました。
なお、現在残されている門の礎石や排水路等は安政4年(1857)に改修されたものと考えられます。
本丸内の建物としては、門の右横に接して六間長屋と呼ばれる倉庫的な建物(浜田城では櫓とされていない)があり、
本丸左奥には三重櫓(天主)がありました。また、5坪程度の玉蔵(鉄砲等の弾丸を収納)もありました。
平成15年8月20日 浜田市教育委員会
三重櫓(天守)
三重櫓はこの右側に建っていました。この櫓が実質的な天守であり、「上ノ重五間四面(25坪5厘3毛)
中ノ重七間四面(67坪二厘五毛)下ノ重東西9間 南北7間(67坪9厘4毛t)の規模を有し、
高さは4丈6尺1寸、鯱の高さ4尺6寸で、約15mありました。 文政10年(1827)の記録では、
浜田浦(現浜田漁港周辺)から見ると「森の中に城少し見ゆる」とあり、この櫓が見えていたと考えられます。
ただし、そのに外観は二層に描いた絵図と三層に描いた絵図とがあり、明らかではありません。
正面の展望は城下と浜田浦の各一部や海岸線の先に長浜湊(現浜田商港周辺)が望め、
山並みの高所が大麻山となります。ここを舞台に慶応2年(1866)第二次長州戦争(石州口の戦い)があり、
大村益次郎率いる長州軍に幕府軍が敗れ、浜田藩は自焼退城という運命をたどりました。
平成15年3月3日 浜田市教育委員会
浜田城は平山城であるとともに海城とも呼ばれ、海上交通を重視した城でした。
寛永3年(1626)、スペインの宣教師ディエゴ・デ・Sは船上から築城されてまもない浜田城を見て、
「立派な城である」と報告しており、海上から三重櫓等が望める形で築城されていました。
廻船は眼下の松原湾入口で帆を降ろし、外ノ浦の湊へ小船で曳航されていました。
その湾入口をはさんだ正面右側の丘陵地(夷ノ鼻・日和山)に、方角石が設置され、船頭たちが
天候や潮の流れ等の日和を判断しました。また、浜田川をはさんだ正面の丘陵高所には、灯台としての
役割を果たした遠見燈明堂が設けられていました。なお、背後の台座は、明治36年建立の「報国忠勇之碑」で、
本来その上に砲身と弾丸が設置されていましたが、昭和18年に供出され、現在に至っています。
平成15年3月3日 浜田市教育委員会
開通は平成11年(1999)島根県浜田市の原井地区と瀬戸ケ島地区を結ぶ斜張橋 斜張橋部分305m
取付橋梁部310m 全長615m 主塔海面高92mの橋 これは 「国内の漁港施設の斜張橋としては最も長い」
と自慢げに語られるが 総工費80億円(橋梁部43億円)は無駄遣いとの指摘があったり 談合の摘発があったりと
そして 島の東側には既に「港橋」という2車線+歩道の橋が架かっていたので
「島を開発するために架けた 工事用の橋である」との苦しい言い訳があったりと 今も物議を醸しだす
計画では 水産業を核とした地域づくりを行うため 漁港の特性を生産から流通 海洋観光 レジャーまで
幅広く再構築しようとし 現在「しまねお魚センター」と大橋がすでに完成しており 観光客誘致を目的に
漁港周辺の開発に使われた工事費は すでに250億円を突破している
島根県浜田市三隅町 湊浦と古市場
古代の那賀郡三隅郷は 律令制による駅が置かれ また入江に恵まれた地形から山陰道の水陸交通の要衝として
栄え賑わっていた 三隅川の中流域東部にある標高362mの高城山山頂には 鎌倉時代に三隅荘の地頭として
この地一帯を支配した三隅氏の城が築かれ今も城跡が残されている 三隅氏は元々益田兼高の次男兼信が分家して
寛喜元年(1229)に三隅高城へ入り 納田郷・木束郷・永安別符・井村郷の地頭職を譲与されて三隅氏を称したと
当地に伝わる 後の石見久利文書によれば 南北朝時代初頭の建武3年(1336)の項に
「三隅郷地頭二郎入道以下輩」とあり 4代目三隅兼連が三隅二郎入道と呼ばれ南朝方の武将として活躍したことが
記されている その後も三隅氏は西石見を勢力下に置いていたが 元亀元年(1570)毛利氏によって
三隅高城は落城し 15代当主隆繁は自刃 弟の国定は討死し三隅氏の嫡流は滅亡した
江戸時代に入り石見国を含む中国地方の大半を領有していた毛利家が 慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」に
敗北して周防長門の2国に押し込められ 三隅は浜田藩の支配下に置かれた
「水澄みの里」とも呼ばれる三隅町は 町の中央を縦断する三隅川の豊かな水量により
古来から独目の製法による丈夫で雅味に富む石州和紙の生産が盛んで この地方の重要な産物であった
江戸時代には 御用船商人が竹島まで赴いて中国大陸との密貿易に使用したり 年貢米に変わる紙年貢として
幕末まで藩の財政を支えた しかし町に多くの恵みを与えた三隅川は時として町の人々に
災いをもたらすことがあり 昭和18年・58年の二度にわたる大水害では多くの犠牲者がでた
河口右岸には湊浦があり 中世には中国大陸との交易で繁栄したが 江戸時代には大陸との直接貿易も途絶え
以来 海運・川運の集積地として機能していた 大正11年(1922)に国鉄山陰本線の三保三隅駅が開業し
大正15年(1926)には鎌手駅まで延伸開業した ただ湊浦から駅舎まで遠く さほどの恩恵はなかった
鉄道の開通と共に港が消滅し 一角に残された古い町並のみが かつての活気をそこはかとなく感じさせている
三隅川の左岸には 奈良時代から市が開かれていた古市場の集落があり その西側に古湊の漁村がある
明治22年(1889)の町村制の施行により 湊浦・西河内村が合併して西湊村となり古市場村は単独村制を施行
明治43年(1910)には古市場村・西湊村が合併して三保村が発足した
昭和30年(1955)三保村を含む1町6村(内3村が部分)が合併して 新たな三隅町が発足
平成17年(2005)10月 平成の大合併で 三隅町・金城町・旭町・弥栄村が浜田市と合併した
Link:中国地方整備局 「石正美術館と石州和紙の里 潮路なぎさみち」
湊浦・古湊 町並散歩
バス停留所に書かれている「ひゃこるバス」とは浜田市生活路線バス三隅路線(コミュニティバス)の愛称で
「ひゃこる」は方言で「呼ぶ」「叫ぶ」の意味で <「おーい」と「ひゃこる」>という風に使うらしい
古市場の町並散歩
連荘・早朝・深夜の釣にも無料「番屋」で楽々御くつろぎ
<注意>
原則は無料なんですけど、運営経費捻出のため、 番屋内 玄関のところにカンパボックスを設置して
協賛金の呼びかけをしております。ご理解のうえ応援のほど宜しくお願いします。
カンパボックスに最大1000円程度まで(完全宿泊24時間利用の場合)
半夜(12時間利用の場合:500円) 一時仮眠・休憩(6時間内外:300円) 入浴のみ:100円程度の
協力カンパをお願いしています。台所で炊事が出来るように調理器具や器なども大体、備え付けております。
釣った活きの良い魚を肴に是非至福の一時をお過ごし下さい。とあるのでカンパしましょう それでも安い
島根県益田市
益田は古代律令制の石見国美濃郡にある 平安後期の永久2年(1114)に国司として藤原国兼が那賀郡伊甘郷の
国府(浜田市)に赴任し 永久6年(1118)の任期満了後も上府御神本に下向して石見に留まり 土着豪族として
御神本(みかもと)氏を称した 三代目当主・御神本兼栄と嫡男兼経は 石見国内で唯一源頼朝に呼応して
義経の配下に加わり戦功を上げ 鹿足郡を除く石見国22ヶ所の所領を有する石見国第一の豪族となった
御神本氏四代目となった兼経は 壇ノ浦の戦い後に兼高と名を改めた 建久3年(1192)に上府御神本から
美濃郡益田の土居屋敷に拠点を移し氏を益田に変え 翌建久4年(1193)に七尾城の築城に着手した
南北朝時代には 宗家益田氏は北朝に 三隅・福屋・周布などの分家は南朝方に付いた
室町時代以降は守護大名の大内氏に従ったが 戦国時代の弘治2年(1556)毛利元就の次男・吉川元春に攻め込まれ
翌・弘治3年(1557)に降伏し以降は毛利氏に仕えた 江戸時代に入り関ヶ原の戦いで毛利氏は
長門・周防の二国に減封され 益田氏二十代目当主・元祥も益田を離れて長門国の須佐に移った
幕府の藩政により美濃郡は高津川より西が津和野藩領 東が浜田藩領と定められ益田村は浜田藩の領地となった
旧高旧領取調帳によれば 美濃郡110ヶ村の内 幕府領1ヶ村・津和野藩領60ヶ村・浜田藩領49ヶ村であった
明治8年(1875年)益田村と上本郷村が統合され益田本郷村となる他 統合により76ヶ村となった
明治9年(1876)島根県の管轄となる 滝谷村を鹿足郡に移行 明治12年(1879)行政区画の美濃郡が発足
郡役所が益田本郷に設置される 明治22年(1889)町村制の施行により益田本郷村が単独で益田町になる
昭和16年(1941)益田・吉田・高津の3町が合併し石見町が発足 昭和18年(1943)には改称して益田町に戻る
昭和27年(1952)益田町と安田・北仙道・豊川・豊田・高城・小野・中西の7ヶ村が合併して益田市が発足
平成16年(2004)美都町・匹見町が益田市に編入され 明治12年制定の美濃郡全域が市域となり美濃郡が消滅
山口県文書館所蔵 石州益田絵図 江戸後期毛利家文庫
益田には 中世城下町の町割りや由緒ある寺社が数多く残る 益田氏は益田川や日本海を利用した海洋交易も
盛んに行い 萩沖の見島や筑前博多にも拠点があったといわれ それらを記した益田家の膨大な武家文書は
全国的にも類を見ない貴重な資料として 解読・研究が進められている
七尾公園の堀割と益田川を掘として築かれたのが七尾城である 城跡からは石州瓦の家並みや日本海が一望できる
町中でひときわ目を引くのは暁音寺山門で 天文12年(1543)に創建され その後当地に移ったと言われている
当時はこの立派な山門と鐘楼が道にせり出し 鍵形に曲がった道は「鍵曲がり」と呼ばれた
益田川の対岸には 政治の拠点であり居館でもあった「三宅御土居跡」があり 南北朝時代から400年もの間使われた
米倉や井戸 鍛冶場などの跡も発見されている また益田には雪舟庭園が2ヶ所もあり 一つは時宗の古刹・萬福寺
本堂は国の重要文化財で その端正な造りは 石組みの美しい雪舟庭園と見事にマッチしている
もう一つが 七尾城の大手門を移築したという大きな総門のある「医光寺」である
急斜面を活かした大胆な配置の雪舟庭園(国史跡・名勝)は 室町時代の庭園様式を今に伝えている
旧若林医院 昭和初期の建築物
浄土宗智恩院末寺 五更山 暁音寺
天文12年(1543)に創建され 後に現在地に移転したと伝わる 水害等により古文書などが喪失され、
由緒については不明な点が多い、一説には天正6年(1578)僧・在誉により、本尊を阿弥陀如来とし創建とある。
二代目住職・縁誉の時代に、創建当初の寺地を嫌った縁誉によって現在の場所に移転された。
なお、移転にあたって縁誉は、慶長6年(1601)当国大森銀山奉行として赴いてきた大久保長安に、
増野甲斐守屋敷跡を寺地にすることの許可を得たという。移転にあたって先ず仏像だけをそこに安置し、
本堂などの再建移転については江戸時代の宝暦年間にまで下るとされている。
妙義寺と旧山陰道の石橋
曹洞宗 万歳山 妙義禅寺 本尊は釈迦牟尼仏
創建は鎌倉時代の文永元年(1264)と弘安5年(1282)の二つの説が存在する 元は臨済宗であったが
その後 六世130年を経た室町時代・応永の始めに 益田秀兼(兼家)が再建 菩提寺とし曹洞宗に転宗した
後に再び廃れたが 天文・弘治年間に益田藤兼が七尾城の大修理に併せ再興したといわれている
江戸時代に入りこの地方の寺院を総括する録所を務めた
長門の大寧寺は本寺にあたりこの関係で明治維新の石州口の戦いでは長州藩の本陣と野戦病院が置かれた
益田の多田温泉で入浴し今日の泊まりは 「道の駅・シルクウェイにちはら」
明日は 長門峡を散策し紅葉をめでる







