2015.07.25−27 大阪から岡山・奥出雲・三瓶を通り山陰路で九州に帰る

7/25 和泉市−<湾岸・第二神明・R2>−三石−<R484>ー建部駅ー満奇洞−井倉洞−吹屋

岡山県御津郡建部町中田403-3 JR津山線 建部駅
明治31年(1898)中國鉄道株式会社が 岡山−津山駅(現:津山口駅)間を開通させた2年後の明治33年4月14日
地元からの訴願駅として設置開業以来の建築物である 平成10年(1998)公開の今村昌平監督による
映画「カンゾー先生」のロケ地となり 平成17年(2005)11月には登録有形文化財に指定された
平成19年(2007)12月から平成20年(2008)3月まで 駅舎の保存を目的として補修工事が行われている

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12:10 JR津山線 建部駅
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小屋は物置と宿直者用の風呂 昔は小さな駅でも必ず宿直の駅員がいた 右は隣接する国鉄職員用の官舎
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12:23 「フーテンの寅さん」が泊まってそうな駅前旅館と駅前の商店

建部町から落合町を経て北房町に出る 途中南北に長い延長約16kmの旭川ダムに沿って出雲街道を走る
旭川は 蒜山高原の「塩釜の冷泉」を源流とした清流である

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12:45 ダム堰堤から旭川ダム湖
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県道30号落合建部線には殆ど車が走っていない 建部駅から満奇洞まで約58km

岡山県新見市豊永赤馬 岡山県指定天然記念物 満奇洞

岡山県新見市東南部に広がるカルスト台地は 阿哲台(あてつだい)と呼ばれ 4つの台地から構成されている
それは 新見市街地の南にあり鬼女洞・無明谷のある高梁川右岸の石蟹郷台(いしがごうだい)
井倉洞・羅生門・草間間歇冷泉のある高梁川左岸の草間台(くさまだい)
満奇洞・宇山洞のある阿哲台東部に広がる豊永台(とよながだい)
新見市街地の東方にあり石灰岩地質が未だ溶食されていない唐松台である
満奇洞のある豊永台は 佐伏・小坂部・備中川の三河川に挟まれた広大なカルスト台地で 森林の多い地区である
この洞は 江戸時代末期 狸猟をしていた猟師により偶然発見されと言われており 阿哲郡誌では
「豊永村赤馬槇の山腹にあり。嘉永年間里人狸を捕へんため穴口を開きしに始まるといふ。
(中略)穴口を入れば高六七尺、入るに従い穴幅漸く広し。進むこと十数間にして天井俄に高く左右亦広し、
之を千畳敷又は大広間と称す。進むに従ひ石鐘、石筍よく発達す。石灰岩の地下水に溶解せるもの
即カルシュウムは穴内に来りて濃厚なる炭酸瓦斯にあふや、再び炭酸カルシュウムと化し、自然の結晶をなして
垂下せるは中空にして氷柱状をなし、滴下せるものは円柱を作る。上なるを石鐘と称し下なるを石筍と称す。
(中略)穴口の鍾乳石の形に従ひ、諸種の名を附せり。(中略)幾百千の石鐘吊下し火光之に映じて
閃々輝々水晶宮と云はんか瑠璃殿と名づけんか、入るに従い奇観盆多し。」
と記され 県内の鍾乳洞では最も早く存在が知られていた 名称の由来は比較的新しく
昭和4年に訪れた歌人の与謝野晶子が 「奇に満ちた洞」と絶賛し
「満奇の洞 千畳敷の 蝋の火の あかりに見たる 顔を忘れじ」と同行した夫・鉄幹の姿を詠んだことから
名付けられたと云われている それまでの名は地名の槇をとって 簡素に「槙の穴」とだけ呼ばれていた
総延長は450m・最大幅25mあり 鐘乳管・つらら石・畦石・カーテン・石筍・石柱が発達し
また小さいながらも洞穴サンゴや曲石なども無数に存在し 鍾乳石の宝庫と呼ばれている
洞内の美しさは ロケ地としても使われた横溝正史原作の映画「八つ墓村」で垣間見ることができる

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14:10 満奇洞入口
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14:45 満奇洞から井倉洞へ 約15kmの距離

岡山県新見市井倉 岡山県指定天然記念物 井倉洞

井倉洞のある草間台は 阿哲台の中心部を成すカルスト台地で 高梁川の浸食により断崖を形成している
昭和33年探検調査により確認された全長1200mの鍾乳洞で 高梁川左岸 高さ240mの絶壁面に入り口がある
洞内には高さ50mの「地軸の滝」があるが 満奇洞と比較すると単調な景観である
そのためか 満奇洞と同じ「入洞料・1000円」は少し割高な感じがしないでもない

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15:20 井倉洞入口
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断崖の洞窟から流れ落ちる井倉の滝
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16:15 井倉の滝と石灰岩の断崖 井倉洞から吹屋へ移動 距離は約20km

岡山県高梁市成羽町吹屋 吹屋ふるさと村

豪商は通常 財にあかせて建築を競いあい 自己主張の強い建築物を建てるのが世の習いである
しかし 赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された建物が 整然と続く吹屋の町並みは
江戸末期から明治にかけて 吹屋の旦那衆が合議の上で 石州から宮大工の棟梁たちを招聘し
統一感のある町に仕立てたという当時の日本では考えられない 先進的な努力により作り上げられたものである
個々の屋敷が豪華さを競うのではなく 旦那衆が自己を抑止し意図的に後世に残した町並み文化遺産である
昭和52年(1977)に6.4haの範囲が 岡山県下初の「国の重要伝統的建造物群保存地区」の認定を受けた
吹屋は江戸時代中期より 幕府天領地として吹屋銅山を中心とする鉱山町へと発展し
幕末から明治にかけて 銅鉱とともに硫化鉄鉱石を産出し これを酸化・還元させて
人造的に防腐防蝕剤及び顔料としてベンガラ(酸化第二鉄)を製造した 日本唯一の巨大産地として繁栄を極め
主に磁器の絵付けや漆器 神社仏閣の外壁塗装などに多用された 最盛期には鉱山労働者数が1200人超となった
昭和6年(1931)銅山が閉鎖され 250年の歴史にピリオドが打たれ衰退するが
幹線交通から取り残された山間部に位置する為 意識的に作られた町並みが無意識的に保存されたといえる

吹屋に到着したのは午後5時であった 商店や展示館などは閉店や閉館の準備が始まっていた
また町には 強烈な西日が差し路地を歩くのも暑かった このような町並みは曇天か小雨の時が似合う

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山神社鳥居
山神社本殿
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吹屋史料館前
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消防団詰め所の玄関 中には消防車が
元は蔵の扉
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外人さんも驚く「無人販売所」
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吹屋小学校 岡山県指定重要文化財
明治6年(1873)に民家を借用して拡智小学校として開校した その後 吹屋小学校に改称
明治31年(1898)に吹屋村が 吉岡銅山本部跡地を譲り受け校舎建設を開始
明治32年(1899)に吹屋町立尋常高等小学校と改称して 明治33年(1900)に東西校舎と
東西廊下が完成し現在地に移転した 中央の本館は明治42年(1909)に竣工している
江戸時代から戦前にかけて日本三大銅山の町として さらに江戸時代末期からはベンガラの
日本唯一の産地として繁栄した吹屋の町の いわば絶頂期に建設された小学校校舎であり
その特徴的な構造は「江川式建築」であるとされ 江川三郎八の設計か もしくはその影響を
強く受けていることが推測されている 江川三郎八は岡山県庁在勤当時 洋風木造建築物を多く手がけ
外観デザインはアメリカ風スティックススタイルで 正面から見ると左右対称のルネッサンス形式である
このような西洋風建築の特徴を生かした学校や公的施設を次々と設計し高く評価された
本館2階講堂内部の折上天井及び正面演壇や 天井を支えるトラス構造等は当時の建築手法を今に伝える貴重な
ものである この地に校舎が建設されてから1世紀以上を経過し 国内において 現役最古の小学校校舎として
多くの児童の成長を見届けてきたが 児童数の減少から平成24年(2012)3月末日をもって閉校となった

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岡山県・・・給食優秀学校
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17:50 吹屋から吉岡鉱山跡へ

吉岡鉱山(吉岡銅山)跡の廃墟
吹屋鉱山や吹屋銅山とも呼ばれ 古くは石塔鉱山(せきとうこうざん=関東鉱山)と呼ばれた時代もあった
伝承とは言え 大同2年(807)に開かれたという説も存在する 当初は銀を産出していたが 後に銅山となった
昭和6年(1931)に閉山したが 第二次世界大戦後に再開 昭和47年(1972)に再び閉山し現在に至る

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時間は18時すぎ 車中泊予定の「道の駅 鯉が窪」へ急ぐ 距離約26km 所要時間は45分ほど
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