2013.12.09 岡山県玉野市八浜町 八浜散歩

大阪から復路の旅 前夜は岡山県玉野市の道の駅みやま公園で車中泊 八浜・吉備津路・倉敷を巡る

現在 八浜のある児島半島は 戦国時代まで吉備の穴海と呼ばれた児島水道に隔てられた島で
室町時代には集落形成が始まったとされる 吉備の穴海は 奈良時代から干拓が始まり 中世以降は
規模も肥大して 安土桃山時代には干拓によって 児島は陸続きの半島となり児島湖ができた
その後 児島湖の最奥となった八浜は 倉敷川の舟運によって内陸部の物資があつまる外港として発展し
岡山藩水運の「要の湊」となって繁栄した また 児島湾内における漁業権の八割近くを独占し
大舟主のもとで組織的な漁業が行われ富を蓄積していった 明治以降も貝の養殖産業で繁栄し
町中を流れる元川の水運を活かして 酒や醤油の醸造業をはじめとした数々の地場産業が勃興し
現在の町並みが形成された しかし船舶の大型化により 水深の浅い八浜は敬遠されるようになると
明治42年(1909)江戸期を通じ岡山の瀬戸内港として繁栄していた宇野に 四国高松への航路を目的として
新たな港が開設され 児島湖の八浜は急速に衰退することとなった
岡山や倉敷から八浜に至るには それぞれ金毘羅往来を経て串田村の追分を東へ分岐する八浜往来を利用する

Link:金毘羅往来と干拓の推移地図・明治30年(1897)の測図


岡山県玉野市槌ケ原 八浜往来 秀天橋(秀天の石橋)
鴨川にかかるこの石橋は、長さ約36m、幅約3m、石の厚さ60cmの花崗岩製である。橋脚は一カ所3本ずつで
8カ所あり、その橋脚と橋脚の間に長さ272cm、幅67cm、厚さ60cmの石を横たえて橋としている。
橋脚の下はくつ石とし、上手は半円形に巻石がしてある。また、橋の下手に2本の穴のあいた柱石を
橋より50cm程低く建てているのは、秀天港の船着き場としての遺構ではないかと考えられている。
当時は欄干はなく、現在の欄干は、昭和56年に設置されたものである。
この橋は1710年頃の記録には土橋とあるが、その後、横田の大庄屋大塚権兵衛が
長崎新田干拓者である父与兵衛の墓を造る時、同じ石で石橋にしたものであろう。
架橋の時期は不明であるが、江戸時代中期のものといわれている。
当時、岡山藩での一番長い石橋として有名であった。
平成25年5月31日 玉野市教育委員会

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玉野市槌ヶ原の鴨川に架かる秀天橋
左下津井下村 右ゆか道(由加道)
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橋脚と船着き場の遺構
船着き場の遺構とされる石柱
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秀天橋東詰から北へ八浜街道
八浜街道

岡山県玉野市田井4丁目  JR宇野線 田井橋梁(池ノ内架道橋)
明治42年(1909)に竣工した宇野港は 江戸期を通じて岡山の瀬戸内港として栄えた児島湖の八浜に代わり
宇野から四国高松への航路を開設する目的で作られた港湾施設である
建築に際しては 港湾の建設史上初めてとなるコンクリートが多用された
翌 明治43年(1910)6月12日 官営鉄道宇野線が開業し同時に宇高連絡船も運航が開始された
この橋梁も 明治43年(1910)の宇野線開業に合わせ建設されたもので 土木学会の資料によれば
石ポータル 無筋コンクリート石張りとなっているが おそらく構造的には支保工によって石アーチを支え
側壁に石を積み上げて 内部にコンクリートを充填した構造物であろう
単にコンクリートの駆体に 石を貼り付けた「おざなり」なアーチ橋ではない
日本の近代土木遺産に指定されている

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現在の規格では狭いため大型車が天井にぶつかる そのため反射板で表示

八浜散歩

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旭川運河の汐留水門
両児山公園・八浜城址に至る八幡快神社鳥居
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旧八浜湊と児島湾
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櫻屋幸吉橋
鳥人・櫻屋幸吉

鳥人・櫻屋幸吉のこと
本名は浮田幸吉 宝暦7年(1757)に八浜で生まれた 7歳で父が死亡 岡山の紙屋に奉公し後に表具師となる
空を飛ぶ鳥に引かれ 空を飛ぶ研究に没頭「鳥の羽と胴体の重さを比較計測し その割合を人間の体に当てはめる
ことで浮遊することが可能」と結論を導きだした 表具師の技術でもって 竹の骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って
強度を増した翼を製作した 試作錯誤を繰り返し 遂に天明5年(1785)旧暦の6月 旭川に架かる京橋の欄干から
滑空を試みたが 町民の目撃によって騒ぎとなり罪を問われ岡山所払いとなって追放された
その試験飛行は即座に墜落 また数間の距離を滑空したとも伝わり定かでは無い その後は駿河国駿府に移り住み
「備前屋幸吉」の店名で郷里児島の木綿を扱う店を開き 商売が軌道に乗ったところで隠居して「備考斎」と名乗り
時計の修理や優れた義歯を製作する技師と評判になった しかし 空を飛ぶ夢が捨てきれず
再び阿部川の河原で空を飛んだ このため幕府の咎めを受け再度追放された 最期は遠江国の見付に移住し
備前屋という飯屋を開き妻子を得て平穏な余生を送った 弘化4年(1847)91歳の長寿で死去したと伝わる
もし 八浜での滑空飛行が事実とすれば 1849年の英国人ジョージ・ケイリー製作の
三葉グライダーによる有人滑空よりも尚64年も早いグライダーによる滑空となる
また形式的ではあるが 幸吉の偉業を称え没後150年の平成9年に旧岡山藩主池田家当主より岡山所払いが解かれた

八浜の町並み

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2013.12.09 岡山県倉敷市中央/本町 倉敷美観地区散歩

現在の倉敷一帯は古代吉備国に属していたが 7世紀後半の吉備国分割により児島郡は備前国となった
中心部の美観地区は 児島と本土に囲まれた吉備の穴海と呼ばれた内海湾に浮かぶ鶴形島の集落を起源としている
平安時代初期には高梁川の堆積作用で島は向山と陸続きとなり 周辺には阿智潟と呼ばれる干潟が広がっていた
鶴形島と向山の間に出来た砂州に村(倉敷本町)が誕生したのは 安土桃山時代の16世紀後半とされている
穴海の干拓は奈良時代から始まり中世以降は規模も拡大し 江戸初期には児島が陸続きの半島となり児島湖ができた
慶長19年(1614)に備中松山藩の代官所がおかれ 代官所は商人たちの自治を認め優遇したことで人口も増加し
年貢米の集積地として発展して商人の町として栄えた
寛永19年(1642)倉敷村は江戸幕府直轄の天領となって幕府代官所が置かれ陣屋町となった
倉敷川が 高梁川と児島湾を結ぶ運河として開削され 内陸の物資の集散地および港町として栄え
豪商の蔵が建ち並ぶ商家町として繁栄した 倉敷という地名は 中世期以降の干拓によって新田が極度に増加し
それにつれ寺社領・知行地・藩領が輻湊した状態となり 各領地から産出する年貢米を保管する集積地としての
倉敷地に由来しているとする説が多い 他説では多く立ち並ぶ「蔵屋敷」が訛ったとも考えられている
また「倉とは船蔵屋敷か水夫(かこ)屋敷のことを指す」ともいわれ 蔵敷・倉輔などと記載されることもあった

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美観地区南端の高砂橋(旧今橋)
弘化3年(1846)に架設された旧・今橋 大坂今橋の長者・鴻池氏にあやかりたいとの願いを込めて命名された
大正15年(1926)に今橋が掛けかえられた時に 高砂町(中央2丁目)へ移され高砂橋と改名した
昭和42年の倉敷用水の改修と美観地区整備に伴い 旧前神橋の位置(現在地)に保存のため再度移築された
現在の橋の親柱は 大正15年に出来たもので「高砂橋」「大正十五年六月架之」と刻まれている
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美観地区北端の今橋(新今橋) 背後の建物は大原家迎賓館・有隣荘
大正15年(1926)昭和天皇行幸に合わせ 旧来の石造桁橋から急ぎ造り替えられた疑似石造アーチ橋である
大原孫三郎の資金援助を受け 行幸に合わせるため40日間の突貫工事で完成させた
近代土木遺産に登録されており 土木学会の資料では 構造設計は建築家の薬師寺主計 意匠デザインは
児島虎次郎となっている 昭和天皇の来倉記念として欄干柱上面に菊の文様がレリーフされている
橋長:7m・幅員:5.5mで 当時の最新技術を駆使した鉄筋コンクリート造で アーチ裏面が擬石となっており
側面及び路面を良質の花崗岩で覆い疑似石造アーチ橋とした 「今橋」の文字は大原孫三郎の揮毫によるもの
また「大正十五年五月架之 設計児島虎次郎 工事藤木正一」という三行の銘が刻まれている
橋げたの形を半円にして 水面に映る半円の影と合わせて真円となるように工夫されている
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中橋と本町橋
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中橋
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今橋と旧大原家住宅
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国の重要文化財 旧大原家住宅
大原家は倉敷川の終点にあり 河岸の両側に店舗と蔵を構えていた 主屋は江戸時代後期の建築と推定されている
倉敷川に面して建ち 対岸に大原美術館がある 宅地は南に川 東と北が路地に面し南東隅に主屋が位置する
北側は路地に面して5棟の倉が並ぶ 主屋は1階の「倉敷格子」や2階の「倉敷窓」に特色がある
約2200平方m(約659坪)の敷地に 江戸時代から大正時代に至る 主屋・内倉・離れ・倉・新倉・中倉
内中倉・北倉・壬子倉・西倉の10棟と宅地が重要文化財に指定されている
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本町通り商店街・西口 旧倉敷郵便局・三楽会館前
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旧大原家住宅(右)裏路地
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旧大原家住宅(左)裏路地
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昭和3年(1928年)建築 大原家別邸の有隣荘
艶やかな緑黄色の瓦で葺かれた屋根が特徴となって「緑御殿」とも呼ばれる この瓦は
泉州堺の瓦職人に特別注文したもので特殊な釉薬が使われており 現在の価格で1枚3万円程の高価なものである
大原家の別邸として使われ 後に来賓館となった 昭和22年(1947)には 昭和天皇の宿泊所として使用された
永い間非公開とされてきたが 1997年から春と秋の年2回 大原美術館の特別展示室として公開されている

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今橋と大原美術館
倉敷の実業家・大原孫三郎が 自身が援助していた洋画家の児島虎次郎に委ねて収集した西洋やエジプト
中近東・中国などの美術品を展示するため昭和5年(1930)に開設した 薬師寺主計の設計による
イオニア式柱を有する古典様式が特徴で 西洋美術・近代美術を展示する美術館としては日本初の施設である
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今橋のレリーフ
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有隣荘横の路地
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本町
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本町 森田酒店
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旅館くらしき
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冬の夕暮れは早い 雨も降り出し観光客も潮が引くように消えてしまった
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午後 15:15 雨脚が強くなってきたのでノンストップで帰途につく 下道を通り自宅到着は翌日の午前2時頃

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