2013.12.09 岡山県岡山市北区 吉備津路・西国街道
吉備の国
吉備は弥生時代から塩の生産地であり 古墳時代には畿内・出雲国と並ぶ強大な連合国家となっていた
同時代 岡山平野南部は内海となっており 4世紀頃からこの沿岸部に多くの前方後円墳が造築された
また 弥生時代後期の2世紀初~3世紀中頃に作られ 首長埋葬の祭祀に使われていた朱塗りの大形筒形土器は
後に埴輪となり列島各地に広まったとされている 5世紀後半には畿内ヤマト王権に征服された
6世紀後半には 吉備地方でいち早く鉄生産が開始され 製鉄及び鋳鉄錬鉄の優れた技術を有するに至り
現在まで鋳物・刀剣の生産地として名を馳せている
6世紀中期頃より横穴式の巨大石室を持つ円墳が多く造られたことは この地方に大豪族による連合体があったと
される説を裏付けている 後に吉備朝臣を名乗る一族も現れ 奈良時代には政治家・吉備真備を輩出している
7世紀後半の持統天皇3年(689)に 備前・備中・備後に分割 和銅6年(713)には備前国から美作国が分離され
室町時代以降は備後国が安芸国に組込まれるなど この分割統治は現在までも少なからず各分野に影響している
3.吉備津神社参道 吉備津の松並木 4.備前備中国境標石 5.西国街道 真金一里塚 6.西国街道 板倉宿本陣跡
大阪から復路の旅 前夜は岡山県玉野市の道の駅みやま公園で車中泊 吉備津路を巡る
標高175mの吉備中山は 古代より神奈備として信仰されており 当地を治めた大吉備津彦が頂に葬られたと伝わる
吉備津神社は 大吉備津彦命を祭神として吉備中山の北西麓に創建され吉備国一宮として崇敬された
三国分割後に吉備津神社を分霊し 東麓に吉備津彦神社が創建され備前一宮となり吉備津神社は備中一宮となった
岡山県岡山市北区一宮 備前国一宮 吉備津彦神社
主祭神の大吉備津彦命 (おおきびつひこのみこと)は 桃太郎のモデルとなっている
本殿は寛文8年(1668)岡山藩主・池田光政が造営に着手し 元禄10年(1697)嫡男・綱政の代に完成した
岡山城下から数えて万成一里塚に次ぐ二番目の塚 西国街道を挟み南北に塚が築かれ 北塚に松
南塚には榎が植えられた 掲示板の由来には真金村にあったからとされているが 真金村が誕生したのは
明治8年(1875)である 江戸時代は賀陽郡板倉村で南隣の宮内村と合併し吉備郡真金村となっている
真金とはタタラ鉄を表す言葉で 古代よりタタラ製鉄が盛んであったことから付いた地域名であろうと思われる
昭和35年(1960)に高松町に編入の際 真金町を吉備津と改め 現在は岡山市北区吉備津となっている
岡山県岡山市北区吉備津 吉備津神社
嘗ての吉備国の総鎮守社である 吉備国が備前・備中・備後三国へ分割された後に
備前一宮の吉備津彦神社と備後一宮の吉備津神社に分霊されたが 総鎮守は備中一宮の
当社とされた そのため三備一宮の別名もある 主祭神は大吉備津彦命 (おおきびつひこのみこと)
備前・備中の境に立ち 神奈備として信仰される吉備の中山(標高175m)の北西麓に北面して鎮座する
戦国時代・天正年間(1573-1591)の造営とされ 総延長398mある
旧西国街道を通り備中国分寺跡まで7.2km
岡山県総社市上林 備中国分寺・備中国分寺跡
備中国分寺は 聖武天皇が天平13年(741)国家鎮護のため各国に建てた官寺のひとつである
創建当時は 東西160m 南北178mと推定され 出土した土器などから中世初期まで存続したと推定される
現国分寺は16世紀末の天正年間に再興され 後に廃寺となっていた寺を 江戸時代の18世紀初頭に再建したもので
真言宗御室派 山号は日照山 本尊は薬師如来となっている 創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複し
南門・中門以外の建物の位置は明確ではないが 創建当時の礎石は数多く残されている
なお国府は賀陽郡だが 国分寺は窪屋郡に位置する
重要文化財の五重塔は高さ34.32mで 奈良時代の七重塔(高さ50m・塔跡より推定)が 南北朝時代に焼失し
文政4年(1821)位置を変え再建 弘化元年(1844)頃に完成した江戸後期の様式を色濃く残す建築物である
国分尼寺跡
備中国分寺の東約600mのアカマツ林のなだらかな丘陵にあり 天平13年(741)聖武天皇の勅命により 国分寺と
共に建てられた 当時の境内は 今も残る築地土塀から東西108m 南北216mと推定され 境内の南北中心線上に
南門・中門・金堂・講堂が建ち並んでいた 金堂は礎石から桁行21m 梁間13.2mの広壮な建物と推定される
遺跡内には 古民家を移設保存している一画がある
明治35年(1902)から昭和43年(1968)までの66年間に渡り 山手村役場として利用された
2014.02.12 岡山県総社市総社 総社宮と松山往来を散策
大阪からの復路 総社宮・吉備津宮・川辺宿・神辺宿に立ち寄り九州まで帰る
総社市総社2丁目 備中国総社宮
古代において 国司は各国の神社を一宮から順次巡拝していたが 効率化を図るため 国府近くに国内の神社を
合祀した施設として総社宮を設けた この備前国総社の南方約1kmの地に備前国庁跡が発見されている
明治維新後の格式は郷社となる 主祭神は大己貴命 (おおなむちのみこと)の他
総社格として 「備前国神名帳」に記載される 備前国内128社を合祀する
旧松山往来(商店街通り)
山陽道の板倉宿で分岐して備中松山城下へ至る道筋にあたる 『備中国惣社宮造営帳写』によれば
南北朝時代末期の応永33年(1426)総社宮改築お披露目の際に小物売り等が集まったと記述されていることから
総社宮の周辺に門前町が自然形成され村となった 江戸時代に入ると旅人や参詣人のため旅籠・飲食業が発展し
交通の要衝及び産品の集積地となった 17世紀末の元禄時代から備中松山藩主の参勤交代路として使用された
明治8年(1875)中心部の井手市場と八田部・清水・井手・金井戸の5村が合併して総社村が発足したが
集散を繰り返した後 明治22年(1889)町村制の施行による総社村が発足し 大字総社に役場を設置した
昭和29年(1954)市域が拡大された総社市が発足したが 市域の拡大とともに商店街の衰退を招く結果となった
総社市まちかど郷土館 明治時代の伝統産業を中心とした資料展示
登録有形文化財 明治43年(1910)竣工 旧総社警察署 市内で現存する唯一の明治洋風建築
堀家は 代々総社宮の神職として仕え 江戸時代後期に「志保屋(塩屋)」という屋号で 酒の売買・両替商
及び回船問屋を営む豪商となった 備中松山藩の御用商人にとり立てられ名字帯刀を許された
道標 西 まつ屋ま や可け道/北 あしもり つやま道/南 くらしき…/東 みやうち をかやま道
旧西国街道の川辺宿・神辺宿を通り国道下道で帰る ジムニーで移動しているため車中泊は出来ない
自宅到着は翌日の午前1時半頃となった 帰宅日の午後から雪が降り翌日には25cmの積雪 無事に帰れたと一安心