金毘羅往来と干拓の推移地図

吉備の穴海(きびのあなうみ)
温暖期であった縄文時代の岡山平野は 児島とその周辺の島嶼に囲まれた「吉備の穴海」と呼ばれる内海が広がる地域であった
その後 気候の寒冷化によって海水面が下がり また河川の堆積作用により扇状地から連なる干潟や沖積地の浅瀬へと姿を変えた
古代の吉備国ではたたら製鉄が盛んとなり 鉄穴(かんな)流しによる砂鉄の生産によって 花崗岩由来の土砂が大量に流され
河川の堆積作用を一層押し上げたことも重要な要因になった
浅瀬や干潟の小規模な干拓は奈良時代から行われて来たと考えられている 倉敷本町のある児島群島最西端の鶴形島と向山島の間は
高梁川の堆積作用によって平安時代初期には陸続きとなり人が住み始めたが 周辺には阿智潟と呼ばれる干潟が広がっていた

宇喜多堤(うきたつつみ)
岡山城主の宇喜多秀家は 天正17年(1589)に高松城水攻めの築堤指揮者であった岡勝利と千原九右衛門に汐止堤の築堤を命じ
干拓を行った 潮止堤は 西側の酒津から浜村まで 南側の早島塩津から宮崎の鶴崎神社までと
鶴崎神社から向山麓の岩崎までの3基が築堤されたが 現在ではその痕跡を探すことが困難で位置については確定されていない
しかし 早島の街筋と言われる県道152号倉敷妹尾線はこの堤の跡と言われており 後に金毘羅往来の一部となった
この干拓普請で向山や早島は陸続きとなった その後も左岸に潮止堤が出来た高梁川は 自らの堆積作用によって西へと移動し
主に河口東側に沖積地が広がり児島が本土と陸続きとなって半島となった

江戸時代の干拓と金毘羅往来
江戸時代初期には 備中松山藩や旗本知行地の小規模な干拓が児島湾西部や北部で行われた
延宝7年(1679)には 早島の庄屋佐藤助左衛門を中心に民営の干拓工事が行われ 約100町歩の前潟新田が完工した
その後 岡山藩の石高増強策として藩普請の大規模な新田開発が展開され 宝永4年(1707)に早島沖新田と帯江沖新田が完工した
江戸時代中期には 参詣旅が庶民唯一の旅行として公儀から認められており 近畿から瀬戸内地方にかけて「金毘羅詣で」が流行った
大阪から海路で下津井を経由し丸亀湊に向かう他 西国街道を経て岡山から南下する道筋や吉備津宮・瑜伽大権現・金毘羅大権現の
三社詣の道筋である新たな金毘羅往来が沖新田を通り 参詣者を接待する茶屋や旅籠が出現して茶屋町と呼ばれるようになった
児島半島の南に開かれた丸亀湊に渡る金毘羅参詣の湊は 西から下津井湊・下村湊・田の口湊の3ヶ所があった

沖新田の開発は その帰属を巡って新たに備前備中の激しい境界争いや水争いを引き起こした
争いは幕府の裁定が下る文化13年(1816)まで続き 100年以上干拓普請が行われなかった 当地に残される備前備中の国境石は
この争いの名残である 文政6年(1823)備前藩によって興除新田(西畦・曽根・中畦・内尾・東畦)が開発され明治を迎えた

室町時代から始まった書院造は 畳・襖・障子などを多用した武家の住宅様式として急速に普及し 畳表としてイ草が使用された
早島では室町時代から栽培もしくは野生のイ草が収穫されており 干拓地には塩分に強いイ草が好適な作物として推奨された
後に早島表・備前表・備中表などの名で全国に普及し 児島湾干拓地はイ草の一大産地として栄えた
第二次大戦後は 日本のイ草が中国に流れ 格安の畳表として輸入され高度成長期には公営住宅や建売住宅に大量に採用された
また 生活様式の西洋化が進み畳自体の減産によって国産畳表が壊滅的状態となり 当地でのイ草栽培は消滅した

明治30年(1897)測図

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幕末から明治の金毘羅街道(四国街道・下津井道) 倉敷八浜往還 干拓地は興除新田が出来た江戸時代末期と変わらず
1.倉敷本町 2.秀天橋 3.八浜本町 4.妹尾(旗本戸川家知行地)戸川陣屋 5.茶屋町
明治24年(1891)4月に山陽鉄道が倉敷駅まで延伸開業 国鉄宇野線及び宇高連絡船の開業は明治43年(1910)6月