2020.11.09 熊本県阿蘇郡小国町大字宮原(みやのはる) 小国郷宮原の散歩
現在でも小国・南小国町の両域を合わせて「小国郷」と呼び 歴史的・経済的に深い関係にある
古代の阿蘇は 阿蘇カルデラ内の宮地を中心とした平地が繁栄し 阿蘇国(阿蘇ノ県)と呼ばれ
宮地に阿蘇比咩社・阿蘇国造社が建立され阿蘇国造が支配した 小国郷には主に牧野などが拓かれた
後の律令制によって肥後国に阿蘇郡が制定され 阿蘇国造の後裔である阿蘇氏による支配が続いた
古よりこの地を小国郷と呼びはじめ 徐々に人々が居住し 小国郷総鎮守として両神社が建立された
鎌倉時代には北条氏が地頭に任ぜられたことから ほぼ九州の中心部にある小国郷は
阿蘇氏をはじめとする九州各地の豪族に 睨みを効かせる重要な戦略的拠点となった
文永の役(元寇)では 鎮西奉行となった北条時貞により 国土安泰を祈願して満願寺が建立され
室町時代には 宮原が小国郷の集積地および交易地となり両神社に市が立った 宮原の地名も
その市場が由来と思われる 後世の戦乱時代には 戦場となることも少なく比較的穏やかであった
天正16年(1586)6月 加藤清正の熊本入国後は 家臣の吉村橘左衛門が小国郷の統治を行った
江戸時代の寛永9年(1632)に細川氏が改めて入封し 手永惣庄屋の支配体制が敷かれた
小国郷は 郷士の北里伝兵衛惟宣が北里手永惣庄屋に 弟の下城十郎左衛門が下城手永惣庄屋となって
両惣庄屋の統治に分割され明治に至った
当時の小国郷は27ヶ村に別れていたが 明治3年(1870)藩政改革により1町9村に統合され
その後 宮原町が宮原村に編入され 現在の大字として残る9村に再統合された
更に明治22年(1889)には町村制施行により 上田・北里・黒渕・下城・西里・宮原の6村が北小国村に
赤馬場・中原・万願寺の3村が南小国村になり 小国郷は2村体制となった
昭和10年(1935)町制施行で北小国村が小国町となり その後 昭和44年に南小国村にも町制が施行された
起伏は激しく標高300mから1000mに位置し 平地が占める面積は僅かで 耕作地の多くは
標高400m前後のところに存在する 中心地の宮原は標高430mにあり 役場・商店・学校などがある
P.道の駅小国ゆうステーション 1.国鉄宮原線未成線跡 2.宮原紅葉公園 3.河津酒造イチョウ
4.鏡ヶ池 5.けやき水源 6.富くじ六花園 7.トトロ 8.沈下橋 9.小国町図書室(旧肥後銀行)
宮原は現在「みやはら」と読むのが正式となっているが 昭和2年修正明治36年測図では
「ミヤノハル」とルビが振られ 廃線になった国鉄宮原線も「みやのはるせん」が正式名である
古い地名を自治体自ら一般的ではないと 読みを改めるのはどうだろう
「みやのはる」は九州らしくて美しい響きを持っていると 私は思うのだが
町政施行50周年の昭和60年(1985)に 21世紀を見据えた町づくり構想として提唱された
「悠木の里づくり」の第一作目となった木造建造物 設計は熊本出身の葉祥栄氏が携わり
2461本の小国杉の角材を 特殊なポールジョイントで結合した日本初の木造立体トラス構法を採用
外壁はミラーガラスとした 廃線となった国鉄宮原線肥後小国駅跡地に昭和62年(1987)完成
ゆうステーションの「ゆう」は「悠木の里づくり」の「悠」 構想の出発点を表す




🔗 歳時記:宮原もみじ公園




国土地理院地図では田の原川となっている 宮原の柏田(小字)で志賀瀬川と合流し杖立川となる
杖立川は市井野で中原川と合流 下城で樅木川を合わせ 県境の松原ダムで大山川に合流する
よって杖立川の名は宮原から県境(肥後豊後の国境)までとなる







鏡ヶ池の恵比寿様(掲示板)
平安時代、醍醐天皇の孫姫小松女院が、清少納 言の兄清原正高公を慕って、当地を訪れこの池に大事な鏡を沈め、
正高公に再会できるようにお祈りしたことは今に語り継がれている。
室町時代になると両神社門前には市が立つようになり、細川公肥後入国後は、社会の安定とともに町ができ
商家も並んだ。 商家では早くから恵比寿様を「福の神」として信仰し、
江戸時代中頃、高札場横(小国図書室前)に大きな恵比寿様がお祭りされた。
商家の中に湊屋橋本順左衛門がいた。順左衛門は、毎朝けやき水源で体を清め、
水神様に自然の恵みを感謝した。その後、両神社に天下の太平と商売繁盛をお祈りして朝食をとった。
順左衛門は才覚・算用を旨として商売に励み、タ刻になると、その日の商売を
この恵比寿様に報告して一日を終わった。ある朝方、けやき水源に舟の入る夢から吉兆を感じ、
その頃、両神社で始められていた富くじを買い一番くじを当てた。順左衛門は社会への恩返しとして
けやき水源や横町坂を石畳にし、宮原への水害を防ぐため石の堤防を作った。
また、再度水源の夢に津江の鯛生や鹿児島の菱刈に金鉱を探しあてた。
明治24年12月28日、餅つきの残火から宮原の大半を焼いた大火災で湊屋も焼けた。
その時、大人でも持てないと言われた湊屋の大金塊は消えていた。
蔵跡を掘って見なさいの遺言は今も生き続けている。



けやき水源
樹齢およそ千年と言われるケヤキの根元に湧水があり くまもと「水と緑の景観賞」に選定されている
水源にある水神は 小国両神社・鏡ヶ池の恵比寿と合わせ福運三社めぐりの一つとなっている





小国両神社
主祭神:高橋神 火宮神 雨宮媛命 配神:御妃神二座・御親族神十六座奉祀
雨宮媛は 初代阿蘇国造(あそのくにのみやつこ)であった速瓶玉(はやみかたま)の妃で
高橋・火宮の二柱は 速瓶玉と雨宮媛との間に生まれた第二子と第三子である
この四柱の神は 今も肥後国最古社のひとつ阿蘇国造神社の祭神として祀られていることから
速瓶玉を除く三柱の神を勧請し祀ったものと思われる 創建年代は古文書焼失のため不明とされる
現本殿は元禄2年(1689)に再建され 大正2年に宮山を切り開き本殿を移築 同時に拝殿と楼門を新築した
平成3年 19号台風のため倒木により楼門が倒壊し
本殿屋根が損壊・社務所も大破する被害を被ったが 平成9年10月に再建竣功した




小国ドーム(小国町民体育館)
道の駅・小国ゆうステーションと同じ葉祥栄氏の設計による木造立体トラス構法による建築物で
昭和63年(1988)に竣工オープンした 使用された杉角材の本数は5602本に達す
屋根はステンレス張りで巨大な亀の甲羅のように見えることから BIG TURTLE の愛称がある
規模は縦44m・横34m 1階のアリーナはバレーコート3面・バスケットコート2面がとれる大きさで
2階観客席の収容人員は1000人である 音響効果にも優れているためコンサートなどにも利用される
防災上禁じられていた3000平方mを越える木造建築のため 安全性を証明するのに3年を要した
建設は橋本建設と小国町森林組合 膜屋根工事は太陽工業が担当した 採光にミラーガラスを多用

けやき水源 対岸の撮影スポット
城山大神宮
江戸時代 延享2年(1745)に宮原村の庄屋三左衛門が伊勢神宮より「天照大神」をお迎えして
山上に創建したといわれており 地元では御伊勢様の愛称で呼ばれております。
神殿内の左には商売繁盛の「稲荷神社」が 右には火災防止の「秋葉神社」が合祀されています。
4月の18日・19日には 五穀豊穣と商工業の発展 日々の平穏を祈願する神事(お祭り)が
途切れることなく延々と続けられており 現在は住民の組織「宮原町内会」の手で行われています。
この大祭には地域対抗の奉納相撲や出店もあり 昭和のころまではたいへんな賑わいがありました。
平安時代に北里柴三郎の先祖である清和源氏の北里氏が小国郷に下向して支配しました。
南北朝時代 将軍足利尊氏は延元元年(1340)に小国郷を支配するため軍勢を送りました。
小国郷の武士たちは阿蘇大宮司・惟澄の下 この地に城を築きこれを迎え討って破りました。
豊臣秀吉の九州平定後 領主加藤清正の重臣吉村橘左衛門がこの城山に館を築き小国郷を治めました。
そしてこの城山の周辺に家臣を住まわせたことから「殿町」の地名が現在も残って使われております。
登り口石段の脇には病の平癒を願う小国八十八所の十一番札所「薬師如来」が祀られております。
平成26年9月 宮原町内会



昭和10年(1935)竣工 鉄筋コンクリート造/平屋建
昭和17年 肥後銀行に統合され平成12年(2000)に移転した 移転と同時に小国町に譲渡され
「あみだ杉の館」として開館 平成21年(2009)から小国図書室を併設している









