2019.11.15-16 熊本県山鹿市と菊池市の散歩

上代から古代にかけて「茂賀の浦」が早くに干上がった菊鹿盆地東部のこの地域は 7世紀頃には
「鞠智」と表記され 10世紀初頭には久々知(くくち)と呼ばれていた
平安時代の康宝4年(967)に施行された『延喜式』では 菊池の記載に変わり 後次第に「くくち」が
「きくち」に転訛したものと思われる 標高約90〜171mの米原台地にある鞠智城は
西暦663年の天智天皇の時代に 大和朝廷軍が朝鮮半島の白村江の戦いで 唐・新羅連合軍に大敗した後
防衛のために水城(みずき)・大野城・基肄(きい)城と同時期に築かれたと考えられ 発掘調査では
少なくとも7世紀後半から平安時代の10世紀中頃まで幾度となく増改築及び補修などをうけて
約300年の間存続したことが判明している 平安時代初期に編纂された『続日本紀』に
「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」
<大宰府をして大野 基肄 鞠智の三城(みつのき)を繕治せしむ>と記載されている
築城当初は大宰府の砦城とした軍事施設であり 大野城・基肄城などと共に北部九州防御の要塞であった
7世紀末の律令制の導入とともに 中九州から南九州に至る支配の拠点として役所機能が加えられ
軍事施設以外に食料の備蓄施設などが作られた 8世紀に入ると律令制度が本格化し
肥後国にも国府や国分寺が置かれ 菊鹿盆地には条里制が敷かれた
8世紀後半には防御の必要性も薄れ 鞠智城から防人たちが去って倉庫が立ち並ぶ貯蔵施設となった
鞠智城なき後 平安時代中期の1070年頃に太宰府の武官であった藤原正則と子の則隆が肥後菊池に下向し
隈府の地に城を建て菊池姓を名乗ったのが 肥後菊池氏の始まりとされる しかし
他説も多く判然としないところもある その後 菊池氏は南北朝時代には南朝方につき
戦に破れ和睦した後 室町時代の一時期に肥後守護職に任ぜられたが その後大友氏との諍いが原因で
肥後守護職を解かれ 天草と玉名・山本・山鹿・菊池・飽田・託磨・益城および
筑後の一部地域を支配するまで領地は縮小した
戦国時代に入り 永正元年(1504)22代・菊池能運の死没で嫡流の家計が途絶え菊池氏は滅亡した
肥後国は群雄割拠の状態となったが 島津氏の支配を経て 豊臣秀吉の九州征伐によって佐々木成政が
肥後国大名となり 52名の肥後国人はその配下として各々の領地は安堵されたかに見えたが
成政の性急な検地による領国化に対し肥後国人の一揆が勃発し 秀吉の一揆鎮圧後 成政は切腹させられ
加藤清正が肥後国北半分の大名として封ぜられた 江戸時代には熊本藩が立藩され清正が初代藩主となり
寛永9年(1632)には 加藤家改易により 細川忠利が小倉から入封し 幕末まで細川氏の統治が続いた
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1.菊池公園 2.道の駅 七城メロンドーム 3.鞠智城跡 4.岩熊山の切り通し 5.七城温泉ドーム
6.前川湧水源 7.不動岩と不動明王 8.チブサン古墳と 9.岩原古墳群と熊本県立装飾古墳館
熊本県山鹿市鹿本町高橋 一本松公園の石のかざぐるま
一本松公園は 鹿本平野を見下ろす標高100mほどの御宇田台地にあり 1987年に農村公園として開園
かつて園内にある茶臼塚古墳に一本の松が生えていたことからこの名がついた
他に小町塚古墳などの円墳もあり 公園の東側には 津袋大塚古墳や頂塚古墳なども存在する
延長3年(925)に伊勢からやってきた御宇田氏が 内最古の灌漑用水路「御宇田井手(みうたいで)」を
築いたことで 県台地の開墾が始まったとされる
公園のシンボルである「石のかざぐるま」は 高知市の彫刻家・門脇おさむ氏に依頼し1994年に完成した
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石のかざぐるま
中央親基は高さ5.5m・直径2.2m・羽根の重量1.5t 左右子基は高さ3.5m・直径1.8m・羽根の重量1.0t
石材はスペイン産の赤御影石 この日本一の巨大な石の羽根は風速3m(正面から)の風で回る
風速3mは ススキの穂が揺れる程度のそよ風である ただし それぞれの風向きに対応するため
各々違う方向を向いている 通常は南向きの中央と西南向きの左側の2基が一緒に回ることが多いが
西から低気圧が近づくときは東風が吹くため 右の羽根が回るときは天気は下り坂となる
年に数回3基の羽根が同時に回ることがあり それを見ると幸運という「おみくじ的」要素もあるらしい
蒲生の池
面積:8.8ha 満水貯水量:50万t 灌漑面積:約500ha 県下最大のため池 安政4年(1857)に完成
北は山に 東と南を丘陵地に囲まれた蒲生(かもう)は 江戸時代のはじめから安政までの約260年間に
約60回にも及ぶ干魃が発生するほど水利が不便なところで 干魃時には年貢米を収めることも出来ず
藩の「お救米」によって窮状をしのいでいた この地に始めて赴任し状況を間近に見た
熊本藩の山鹿代官遠山弥二兵衛が 溜池の建設願いを藩主に願い出て着工の許可を得たのは
安政2年(1855)のことで 村人の協力のもと 約3kmの距離にある長谷村の上内田川に堰を設けて
途中に3ヶ所のトンネルを穿って水路を通し 難工事の末 安政4年(1857)に蒲生の池は完成した
遠山弥二兵衛は 明治41年(1908)熊本県葦北郡田の浦町で死去した
遺言に従い土手に遠山夫婦の遺骨を埋め 傍らに遠山神社を建立し水神として祀った
現在も毎年4月4日に水神遠山祭りが開催される
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熊本県山鹿市蒲生(かもう) 不動岩(ふどうがん)
標高388.4mの蒲生山の中腹・標高226mの位置にあり天に向かって岩が突き出している
岩の高さは約80m 基回りは100mとなっている 一般的に不動岩と呼ばれるこの岩は
前不動と言い山頂に向かって中不動・後不動と呼ばれる岩嶺が並ぶ
この3つの岩を合わせ「不動岩」とされるのが正式な名称である
日本列島の原型が形成され始めるのは 始新世の5600万年−3400万年前頃からで
日本海が形成されユーラシア大陸から分離したのは 中新世の2300万年−530万年前頃である
不動岩は まだ日本列島の形すらできていない時代の 5億年以上も前のオルドビス紀と呼ばれる古生代に
地殻内で形成された変斑れい岩が 日本列島形成の造山活動によって隆起したものが崩れ海に流され
さらに海水によって洗われて小石や砂となり 海底に厚く積み重なり
再び岩磐となってまた隆起したものが風化し雨水によって周囲が削り取られてたもので
億単位の年月をかけて「さざれ石」の岩嶺となった 一説に日本の国歌とされる「君が代」の歌詞にある
「さざれ石の巌」とは この岩を指すともいわれている 不動岩の名称は 平安時代に山伏たちが
この山中にこもり 不動明王を本尊として祀り修行したことに由来する
中不動と後不動へは 遊歩道が通じていて登ることができる
掲示板に「みいくさの 神の姿を仰ぐかな 平伏す岩は まつろえる神」という古歌が残るとされるが
この歌の出典は不明で 個人的には明治から戦前に作られた国威発揚の歌ではないかと思われる
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蒲生の農道からみる不動岩 前不動・中不動・後不動
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前不動と中不動(大きい方の岩)
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不動岩(前不動)
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中不動から後不動を見る
駐車場から中不動への登山道がある 階段を登って行くと後不動への分岐がある 今回は中不動のみ
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前不動
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菊鹿盆地の条里制
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前不動頂上
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16:48 足元の明るいうちに下る
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17:02
今日は七城メロンドームで車中泊 七城温泉ドーム近くの家族風呂でゆったり入浴 の・つもりが
お湯が熱くて早々に退散 ロッキースーパーストア鹿本店で寿司を買ってビールも買って・・・・
2019.11.16 朝から昼まで鹿央古代の森で過ごし 午後は前川水源から夕方まで菊池公園へ
熊本県菊池市七城町亀尾 前川水源
亀尾城址公園の中にある水源地 熊本の名水百選にも選ばれている 公園内には 昔用水に使われていた
二連水車の原寸模型があり 初夏にかけてはショウブの花がを見ることができる
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水汲む人 洗車(?)する人で賑わう水源 私達は名水コーヒーで昨日買ったメロンパンを食べる
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亀尾集落内の水源
熊本県菊池市隈府 菊池神社と菊池公園
慶応4年(1868)明治新政府の参与となった熊本藩の長岡護美が 菊池氏と加藤清正のために
神社の創設案を建議し 同年7月に太政官政府はこの建言を採択して熊本藩に両者の祭祀執行を命じた
熊本藩は 清正のために熊本城内に加藤神社を建立し 菊池氏のために菊池城址に菊池神社を建立した
菊池神社の鎮座祭は明治3年(1870)4月に行われた 南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏三代を祭り
主祭神は菊池武時とし 武重と武光を配神とした
第二次大戦後は 武時・武重・武光の父子を主祭神に 菊池氏一族26柱を配神としている
菊池公園は 菊池神社の南 菊池市内を見渡せる標高123mの丘に位置し
春には ソメイヨシノや山桜など22種・約1万本の桜が咲き乱れ 続く初夏には3万本のツツジが開花する
ただ なぜか頂上に墓地が展開する風景は興醒めである
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菊池公園第二駐車場
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狂い咲きの桜か?
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七五三詣り
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菊池神社拝殿
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西南向きの菊池神社神門
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菊池市ふるさと創生広場と菊池観光交流館
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表参道の桜並木
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菊池神社鳥居
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菊池市ふるさと創生広場
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菊池温泉旅館街
温泉が湧出したのは比較的新しく 昭和29年(1954)である 現在約40軒の旅館がある
当所から男性団体客向けの歓楽的要素が強く 近年は宿泊客が減少傾向にある
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城山
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菊池武光の像
鎌倉時代末期から南北朝時代を生きた 菊池氏第15代当主  元応元年(1319)生 文中2年(1373)没
後醍醐天皇の皇子で 征西大将軍として九州へ派遣された懐良親王を迎え 九州における南朝勢力として
大宰府に征西府を樹立 九州における南朝勢力の優勢を確立した
後に足利軍の反撃によって懐良親王とともに大宰府を追われ 筑後の高良山に立て籠もるが
文中2年(1373)11月16日 高良山攻防戦の最中に死去した
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城山公園展望所
展望ベンチからパノラマ
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観月楼展望所
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