2019.11.15-16 熊本県山鹿市 肥後古代の森

菊池市の旧隈府(わいふ)村から山鹿市の旧米田村に至る菊池川中流域の盆地を「菊鹿盆地」
または「菊池盆地」や「山鹿盆地」と呼び 標高約19mの平地から標高約60mの段丘を含む
広大な盆地が広がっている 東は阿蘇外輪山から続く迫間丘陵に 西は関町丘陵 北を筑肥山地
そして南を肥後台地に囲まれたこの地は 約12万年前に阿蘇の火砕流によってせき止められ
標高約70mから60mの水面を持つ広大な湖水が出現した
しかし菊鹿地方を東西に貫く瀬戸内雲仙地溝帯を境に 九州本島が北と南に引き裂かれていることから
菊鹿盆地の地盤沈降が続き 沈下による排水と阿蘇火砕流によるせき止めが数回繰り返し発生している
最後に出現した湖は約9万年前のものとされており 盆地内の段丘はこの繰り返しによって形成された
縄文時代には湖面が標高45m程度に 弥生時代には標高30m程度まで水面が下がり湖面は縮小された
『肥後国誌』によれば 弥生時代には 「茂賀(もが)の浦」と呼ばれたと伝わり
縄文から弥生時代にかけての遺跡が 太古の湖の周辺にそれぞれ存在していることが証とされている
後に志々岐の狭隘地が破れて湖が干上がり その湖底が現在の利水に富む肥沃な盆地となった
盆地では稲作が発展し古代王国が出現した後 中世に菊池氏が台頭し条里制が引かれるほどになった
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1.菊池公園 2.道の駅 七城メロンドーム 3.鞠智城跡 4.岩熊山の切り通し 5.七城温泉ドーム
6.前川湧水源 7.不動岩と不動明王 8.チブサン古墳と 9.岩原古墳群と熊本県立装飾古墳館
2019.11.15  熊本県山鹿市城字西福寺 肥後古代の森(山鹿地区)
肥後古代の森は 菊池川流域のなかで古代遺跡が数多くある菊水町・鹿央町・山鹿市の3地区にある
古代の森は 菊池川・岩野川の合流点北西にある鍋田・城台地の一帯・約32haがその範囲となっている
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古代の森北側に 国指定史跡の装飾古墳で前方後円墳でもあるチブサン古墳と西福寺磨崖仏があり
その西側には 県指定のオブサン古墳(円墳・装飾古墳)がある またオブサン古墳の西側には
肥後古代の森整備事業に伴う発掘で 新たに発見された方形周溝墓や数基の石棺があり
西福寺古墳群と名付けられた 字名の西福寺は 中世にあった禅寺の名前から取られたもので
寺の遺構は磨崖仏の他は存在しない 東南の岩野川右岸の凝灰岩壁には
国指定の鍋田横穴群があり 16基の横穴古墳に装飾がある
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チブサン古墳
現地に着いてから 山鹿市立博物館に予約すれば休館日以外の毎日10時と14時に館員の案内で石室内を
見学できることを知ったが 到着時間が10時過ぎていて 見学者が出てきたところだったので残念!
しかし 翌日訪ねた熊本県立装飾古墳館に 寸分違わないレプリカが展示されていた
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昭和38年(1963)作成 チブサン古墳墳丘測量図
チブサン古墳は 長軸をほぼ東西に向けた前方後円墳で6世紀前半の築造とされる
墳丘の周囲は 古くから道路や開墾等で削られており 元の形から少し変形しているが
周溝の確認調査の結果等から考えられる本来の全長は55m以上と推定されている
斜面に築かれているため やや不整形な平面形状であるが 周囲には周溝が巡らされており
北側のくびれ部には造出しが確認されている
埋葬施設は後円部にあり 南に入口のある複室の横穴式石室である
石室の全長は約6m・前室は約1.9m四方 後室は約3.6m四方の正方形となっている
側壁は 凝灰岩の割石がドーム状に積み上げられ 大きな一枚の天井石でふさがれている
このように方形の平面形で側壁がドーム状に積みあげられた石室は
熊本県を中心に分布しており 肥後型石室と呼ばれている
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チブサン古墳の石屋形(いしやかた)
後室の奥壁沿いに石屋形があり この部分に華麗な装飾文様が施されており熊本と福岡県に多く見られる
装飾文様は 石屋形の左内壁に菱形と円文が右内壁には円文と人物が
奥壁に三角文・円文・菱形文 そして蓋の軒先の部分に三角文・菱形文が描かれている
顔料は 赤・白・青の3色が使用されている
石屋形の奥壁右側にある同心円文を乳房にみたて 乳の神様として甘酒を供える信仰が近年までみられた
チブササン(乳房さん)が転化してチブサンとなったといわれている
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後円部と前方部
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チブサン古墳
西福寺第12号石棺(チブサン古墳築造以降)

オブサン古墳
チブサン古墳の北西に位置する直径約22m・高さ約4m円墳で 円形の墳丘からふたつの突堤を突出し
羨門(せんもん)前に間口4.5m・奥行8mの前庭部を確保しているのが特徴的である
江戸時代以降は チブサン古墳の乳房の神とともに オブサン古墳はその形から安産の神として信仰され
両者は一体として崇められてきたと思われる なお「オブサン」は 産さんが転訛したとされている
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昭和59〜60年に発掘調査され 幅4m前後の周溝が巡らされていることが判明した他
南に開く横穴式石室は前後二室構造で 玄室に石材は残っていないが石屋形があったことが判明している
石室の全長は 羨門から玄室奥壁まで約8.5m・前庭部の8mを加えると16.5mもの長さとなる
発掘時には 玄室と前室を仕切る袖石に赤彩の連続三角文が 奥壁にもかろうじて赤彩の小型の*
もしくは盾の絵が認められたが 痕跡程度であって肉眼では判読できなかった
発掘調査の結果 本来 玄室には装飾豊かな壁画が描かれていた可能性が高いと思われた
*靫(ゆぎ):矢を入れて背に負う筒状の道具>
また鉄地金銅張りの馬具等が出土しているが 葺石や埴輪は認められなかった 築造は6世紀後半とみられ
6世紀前半に築造されたチブサン古墳に続く首長の墓で 7世紀前半まで追葬されていることも判明した
西南戦争では薩摩軍が立てこもり 今でも官軍の弾痕が残っている
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正面の突堤に挟まれた前庭
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前室から外を見る
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前室と玄室を仕切る框石と袖壁
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玄室の奥壁
西福寺古墳群
この古墳群は 平小城(ひらおぎ)台地の東斜面に所在し、石・大原間の旧道がこの中を通っている
「古代への道」から「古墳の森」にかけて 方形周溝墓や箱式石棺が密集し古墳時代の一大墓域を形成し
これらの遺跡のほとんどは 風土記の丘整備事業により発見されたものである
平小城台地の東端の崖下には 戦国期に栄えた中世寺院跡があり
この一帯の字名が西福寺と呼ばれるため「西福寺古墳群」と命名した
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主な遺跡としては 方形周溝墓:2基 古墳:1基・箱式石棺:12基などがある
1号方形周溝墓は盛土がなくなっていたが 土橋は南側にあり 内部主体は木棺であったと考えられる
2号方形周溝墓には盛土が残り 内部に石棺材が残存し周溝内から古い型の土師器(壺)2点が出土した
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西福寺第2号方形周溝墓
一辺が12.5mの方形周溝墓である 周囲を巡る周溝は 幅2.3m・深さ約0.8m前後で
東側周溝の中央部には 幅2.5mの土橋(入口部)が設けられている
調査時には 周辺表土よりの比高差が0.8mほどの残丘が存在しており 盛土高さの推定を可能にさせた
盛土中央から加工された板石状の凝灰岩片20点ほどが出土し 内部主体は箱式石棺であったことが判った
また 南側と西側の周溝底からは 土師器の壷が出土しており 築造年代は 古墳時代前期と推定される
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西福寺1号古墳
整備前の墳丘の状況は その中央部を近世時の切通し道によって断ち切られ 杉林の山の斜面に
僅かな墳丘の盛り上りが認められる程度であった 北側の道路から見た古墳の高さは3.1m程度であるが
実際認められる盛土の厚さは 1.5mであった この一帯はある時期に畑地として開墾されており
段々畑状となっていたが 整備前の試掘調査で盛土の北側に長さ12.5m・幅約1.1m・最大深さ1.0mの
弧を描く周溝の所在が認められ円墳が復元された 墳丘の中央部が切通し道によって切り取られたため
内部主体は不明であるが 木棺もしくは箱式石棺が埋納されていたと思われる
また盛土内に土師器片が僅かに見られる程度で 直接古墳に関連する遺物・副葬品はない
築造年代は 古墳時代前期末の可能性が強いが判然としない
なお現在の墳丘は調査結果をもとに復元修復をしたもので 墳丘を貫いていた切通し道は園路として残し
古墳の森へのタイムトンネルとして生かした
2019.11.16 熊本県山鹿市鹿央町岩原 肥後古代の森(鹿央地区)
鹿央古代の森の面積は14ha 県立装飾古墳館・岩原古墳群・鹿央物産館・古代広場・古代ハス園がある
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1.鹿央物産館 里やま館 2.古代ハス園 3.鹿央物産館ツインドーム 4.古墳公園
5.熊本県立装飾古墳館 6.岩原(いわばる)古墳群 7.岩原横穴墓群 8.長岩横穴墓群
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国指定史跡 岩原古墳群
菊池川中流域の左岸 標高約75mの岩原台地にあり 古墳時代中期から後期にかけて造成された古墳群
双子塚古墳と直径20〜30m前後の円墳8基から成り 菊池川流域では最大の古墳群である
地元では「四十八塚」とも呼ばれていたが 昭和33年(1958)に国の史跡に指定された
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古墳群の中心となるのは 岩原古墳と呼ばれていた前方後円墳の双子塚古墳で 周囲の円墳3基を含め
国の史跡に指定された 昭和40年(1965)には農道工事によって家形石棺が露出し
直径10m以上の円墳と推定された寒原(かんばる)2号墳が追加指定された
指定名称である「岩原古墳」は 主墳「双子塚古墳」の別称であり
寒原2号墳が追加指定されるのと同時に双子塚古墳と改められ 古墳群の名を「岩原古墳群」と改めた
寒原2号墳・狐塚古墳は 発掘にてそれぞれ家形石棺・横穴式石室が確認されているが
下原(しもばる)古墳・馬不向(うまむかず)古墳・寒原古墳の3基は未発掘で
馬不向2・3号墳・塚原(つかばる)古墳は復原したものである
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寒原(1号)古墳
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双子塚古墳 後円部
西北向きの前方後円墳 主軸長は約107m・後円部径約57m  前方部幅約50m・後円部の高さは約9mで
前方部はそれよりやや低い 3段に築成され全面に葺石が残る また埴輪も配列されていた
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左・後円部 右前方部
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前方部から見ると三段丘の様子がよく解る
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下原古墳
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移設復元された横山古墳
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横山古墳掲示案内板
元は鹿本郡植木町大字有泉字横山にあり 昭和43年に高速道路の建設に伴う埋蔵文化調査で発見された
昭和44年に本格的に発掘調査がされ 装飾古墳であることが判明し 古墳の石材は完全復元を前提に
保管された 以降24年の歳月を経て 平成5年 肥後古代の森に敷地を得て復元された
横山古墳が築造されたのは 石室の構造や出土品から古墳時代後期(6世紀後半)と推定され
玄室内で多量の人骨が発見されたことから かなり長期間に渡り使用されたと思われる
調査時の墳級規模は 長辺39.5m 前方部幅19m・高さ3m 後円部の直径29m・高さ5mであった
後円部にある石室は 西向に開かれ玄室まで長い羨道が設けられている 玄室は石灰岩や安山岩で築かれ
一辺が3.8mある隅丸のほぼ正方形で 正面に石屋形を設置し通路の左右に板石で仕切られた屍床がある
石屋形の前には 灯明台のようものが造り付けられている
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装飾文様は 石屋形の袖石に等に良好な状態で残されており 右袖石上部に同心円文・下部に双脚輪状文
周囲に三角文等が 赤・青・白の顔料を使って描かれている 左袖石には連続三角文が同様の顔料を使い
二列描かれ 上部に双脚輪状文が描かれている他 屍床の仕切り板にも同じ顔料で三角文が描かれている
山鹿市鹿央町岩原(いわばる)・山鹿市志々岐(しじき) 岩原横穴群
標高311.7mの米野山(めのやま)の北麓に広がる標高約75mの岩原台地の裾 北から南西側にかけて
6群131基の横穴墓が分布する そのうちの8基に装飾が認められる
特殊な例として T群14号墓の正面屍床の障壁をゴンドラの形状にし船葬思想を連想させるものがある
当所一帯には 長岩・桜の上・小原大塚・小原浦田などの横穴墓群など
数にして数百の横穴があり 同一の横穴墓文化圏に含まれるものと思われる
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ゴンドラの船縁形状の仕切り
船の櫓べそと考えられる円錐形の突起
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草が茂ってよく見えない
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熊本県山鹿市小原(おばる)  長岩横穴墓群
熊本県山鹿市鹿央町岩原 熊本県立装飾古墳館
古墳内部の石室や石棺 また崖に造られた横穴墓の壁面に絵画や文様が描かれたものを装飾古墳と呼び
日本国内に約600基ほど存在する その1/3の約200基が熊本県にあり 県別では全国一の数となる
昭和54年(1979)に文化庁が提唱した「風土記の丘」設置構想の一環として 熊本県が菊池川流域の
山鹿市・鹿央町・菊水町の3地区を指定し「肥後古代の森」として整備を進め 熊本県立装飾古墳館は
その中心施設として 平成4年(1992)4月15日に鹿央町の古代の森敷地内に開館した
建築設計は 建築家の安藤忠雄氏によるもので 前方後円墳を模した形になっている
現在メンテナンス中ですべての場所を回ることが出来なかった 建築的にも美しい建物なので再訪したい
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黒橋貝塚土層転写
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古代馬と馬具
大阪府日下遺跡(古墳時代中期・5世紀後半)出土の完全な馬体骨格を基準に 宮崎県都井岬で
自然繁殖する日本古来の馬である「御崎馬」を参考に復元された
体高は130cmと推定されており 古墳時代以降に大陸から多く導入された中型馬に属す
馬具は大阪府吹田市新芦屋古墳出土の再現レプリカである
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鴨籠(かもご)石棺(出土品)
出土地:熊本県宇城市不知火町大字長崎字坊の平 鴨籠古墳(後半円墳) 推定年代:5世紀
鴨籠古墳は宇土半島南岸の城の越丘陵にあった円墳で 大きな板石を立てて造った竪穴式石室があり
石棺はその北壁に沿う形で置かれていた 蓋・本体ともに阿蘇凝灰岩をくり抜き造られた家形石棺である
蓋の四周に幅の狭い縁取りが施され 長辺の縁取りの下にある欠けた部分に
それぞれ2個づつの縄掛用の突起があったと思われる 棺本体内の一端には枕を造り出してある
蓋の屋根に刻まれた文様は「直弧文」で、もとは赤や青で彩色してあったと想像される
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国指定史跡 小田良古墳・石室(等大レプリカ)
所在地:熊本県宇城市三角町大字中村字前田 推定年代:5世紀
天草に向かう国道57号線右手の海岸にあり 墳丘は失われているが円墳であったと推定されている
内部は割石をドーム状に積み上げ築いた横穴式石室と考えられている
石室の幅は2.2m・長さ2.3mのほぼ正方形で 通路をはさんで左右に屍床を設けている
側壁にそって高さ約0.3mの板石をめぐらし それぞれの板石の内面に2条の横線を刻み
横線の間に正面の板石には*靫・ 盾をそれぞれ2個ずつと同心円文を3個 左側には円文4個
右側には円文3個 手前にも円文2個が刻まれている 石室からは人骨1体分と猪・犬・馬などの骨のほか
ガラス製なつめ玉・白玉・直刀・鉄剣・銅製品などが出土した
<*靫(ゆぎ):矢を入れて背に負う筒状の道具>
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国指定史跡 千金甲(せごんこう)1号墳・石室(等大レプリカ)
所在地:熊本市小島下町勝負谷 推定年代:6世紀初頭
 金峰山系から南にのびる権現山丘陵にある千金甲古墳群中の1基で 斜面を削った平坦地に築かれている
直径12m・高さ3mの円墳で単室の横穴式石室を持つ 石室は板石を平積みした壁で構築されている
石室の内部には阿蘇凝灰岩の切石を石障として四方に巡らし 奥壁と並行に1つ 中央の通路をはさんで
左右に1つずつ 合計3つの屍床を設けている 装飾は主に石障の内面に施されており
体角線文と同心円文が交互に刻まれ 三重の同心円文を描くのにコンパスのようなものが使われたらしく
芯に孔が残されている 中心から赤・青・黄・赤の順で塗りわけるなどデザインに工夫がみられる
また対角線上には三本の矢が入る靫が彫られている 盗掘よる開口が古く 遺物はほとんど残らないが
大正5年(1916)に碧玉製管1個が見つかっている 大正10年(1921)に国の史跡に指定された
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国指定史跡 チブサン古墳・石室と石屋形(等大レプリカ)
所在地:熊本県山鹿市大字城字西福寺 推定年代:6世紀前半
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国史跡指定 大坊(だいぼう)古墳・石屋形(等大レプリカ)
所在地:熊本県玉名市大字玉名字出口 推定年代:6世紀前半から中期
 玉名平野のほぼ中央部 菊池川右岸の丘陵上にある全長54mの前方後円墳である
石室は 後円部南側に入口をもち 安山岩の割石を平積みにした横穴式石室で 前室と玄室の2室からなり
玄室奥に石屋形が設けられている 石室の各所に赤と青で正三角形を基本として描かれた図柄はみごとで
壁面を5段に分け 各段に三角形を上下たがいに配列し 赤と青で厚く塗り分けられている
さらに2段目と4段目には 円文が3個ずつ描かれている
昭和38年に調査の際 石室から金製垂飾りのある耳飾・真珠玉・めのう製勾玉・直刀・鉄剣・鉄鉾・鉄斧
杏葉(ぎょうよう)・鐙(あぶみ)など多くの遺物が出土している
昭和52年に国史跡に指定され 現在は期間を定め公開されている
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永安寺東古墳・石室(等大レプリカ)
所在地:熊本県玉名市大字元玉名字永安寺 推定年代:7世紀初頭
 玉名平野の北方 東西につらなる丘陵の南崖に築かれた円墳である 隣接して永安寺西古墳があり
さらにその西側に大坊古墳がある 現在の墳丘は高さ約3mあるが 大部分が崩壊して石室が露出している
内部は南東側に入口をもつ複室の横穴式石室で 前室の前半分は崩壊している
玄室奥に右屋形があり 奥壁と左右の側壁には阿蘇編成岩切石の巨大な一枚石をたて
その上に小形の切石を持ち送り式に3段に積み上げ さらに安山岩の板石を乗せて天井としている
大坊古墳では三角文を主体とするのに対して ここでは円文が中心である
赤く塗られた円文を並べ 上方に馬やゴンドラ形の舟の絵がある図柄は
幾何学文様から形象的な文様への装飾文様の発達過程を示すものとして注目されるほか
福岡県の装飾古墳との結びつきの強さをも想像させてくれる また この装飾文様とそっくりな文様が
茨城県の虎塚古墳にも描かれており 北関東との交流を指すものと考えられている
国指定史跡 弁慶が穴古墳・石室(等大レプリカ)
所在地:熊本県山鹿市熊入町 推定年代:6世紀末
山鹿市の東北部 通称熊入台地にある直径15m・高さ5.7mの円墳で 内部は南西に入口をもつ
複室の横穴式石室である 石室には阿蘇凝灰岩の巨石が使用されている
前室・玄室とも側壁の基礎部分には大きな板石を立て その内側に壁画が描かれている
向かって右側の壁には「馬を乗せた舟」「舟と荷と鳥」正面右側の袖石には赤と白と青の幾何学文様
左側袖石の小口部分には「馬を乗せた舟」を中心に 上方には同心円文 下方には靫が2つ並べてある
現在は色が薄れているが 左側壁には太陽と人物と馬を乗せた船団があり
羨道部左壁には人物像の浮彫りがある 石室内の至る所に描かれた人物や船は黄泉の国への旅立ちを表し
船に載せてある荷は棺ともとれる また棺の中には魂とされる赤い点が置かれ 棺の上には
魂を天に運ぶ鳥が描かれていることから 当時の死後の世界観が表現されているとする学説は有名である
石室の壮大さや装飾の鮮やかさにおいて県下屈指のもので この地を統治した有力者の墓とされている
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羨道と前室入り口
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玄室
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玄室上部の石組み
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玄室
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玄室屍床奥壁
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地下展示室ロビー
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