2014.04.23/24 長崎県平戸市 生月島(いきつきしま)散歩
現在 長崎県平戸市に属するが 江戸時代まで松浦郡に属し 生属・山田の2ヶ村があり平戸藩領であった
明治4年(1871)廃藩置県を経て長崎県の管轄となった 明治11年(1878)行政区画としての北松浦郡が発足
明治22年(1889)に生属・山田の2ヶ村が合併して生月村が発足 昭和15年(1940)町制施行して生月町となる
平成17年(2005)には 平戸市と合併し北松浦郡から離脱した
平戸島と生月島間の辰ノ瀬戸(最小幅700m)に 平成3年(1991)全長約1.1kmの生月大橋が架橋された
1991年の開通時 中央部最大径間400mは3径間連続トラス橋としては 世界最大規模であった
当初は有料(普通車 片道:200円)であったが 平成22年(2010)4月1日より無料となっている
かつては平戸の薄香港や田平町の田平港からフェリーが就航していた
島は南北約10km・東西約2km・面積 16.57平方kmで南北に細長く 東側は丘陵状の穏やかな地形であるが
一方の西側は断崖の続く地形で風光明媚な場所が多く一部は西海国立公園に入る この地形により殆どの人家は
島の東側にあるが起伏が激しく平地は少ない 島の最高峰は標高286mの番岳である
生月島の歴史
島名の由来は 遣隋・遣唐使の古代に帰国する和人が 船上よりこの島影を見つけ 難なく無事の帰国を確かめ
ため息を漏らすことから「息つきの島」と呼ばれたと言われる 戦国時代に宣教師のガスパルやルイスらが
生月島で布教をおこない 約2500人いた島民のうち 800名程度がカトリック教徒ととなった
16世紀末には 大半の島民がカトリック教徒となったが 後の禁教令により離島し また殉教した
これを機に 多くの島民が隠れキリシタンとして密かに信仰を守ったとされる 今は島内に2ヶ所の
カトリック教会がある しかし現在でも 隠れキリシタンの信仰形態をそのまま受け継ぐ信者も多く存在する
江戸時代には沿岸捕鯨が活発に行われ 平戸松浦藩の財政を支えていた 第二次大戦後は 東シナ海への巻網漁業が
活況を見せ 多くの船団を擁していたが 近年は漁獲量の減少などにより船団数も激減している
生月町山田免 カトリック山田教会
生月島に宣教師・ガスパル・ヴィレラ神父によりキリスト教がもたらされたのは
室町時代の永禄元年(1558)であった その後 禁教令により多くの信者は隠れキリシタンとなり
外界と遮断した状況で独自の信仰形態に変化した 江戸時代末期の慶応元年(1865)に信徒が発見されたが
復教するものは殆どいなかった 漸く明治11年(1878)平戸に上陸したアルベール・ペルー神父によって
洗礼を受けた人々が復教し山田教会のカトリック信徒となり 明治13年(1880)に仮聖堂が建てられた
明治42年(1909)マタラ神父の時代に教会建設に着工し 五島列島で教会建設に携わった鉄川与助の
設計・施工によって大正元年(1912)に教会が完成された 後の昭和45年に一部増改築が施されている
平戸市生月町壱部 塩俵の断崖
玄武岩の柱状節理断崖は 大碆鼻(大バエ)まで続く また大バエまでの遊歩道もある
平戸市生月町御崎字オンケン平 生月島最北端 大碆鼻(大バエ)の夕景
「大バエ」の由来には二つの説がある 遣唐使が帰国途中で生月島を見つけて安堵し 一息ついたことに由来する説
「バエ」は島の言葉で岬や先端(鼻)を意味し 大バエは「大きな岬」や「先端」といった意味で名付けられた説
二説ともに柱状節理の大地が 海食によって海にせり出す断崖となった地形に由来する

今日は道の駅生月大橋で車中泊し 翌朝 道の駅から壱部まで島西部のサンセットウェイをサンライズドライブ
正式名は「生月農免農道」9年の歳月をかけて1993年完成 延長10km トンネル1ヶ所 橋梁3ヶ所
形式:3径間連続曲弦下路鋼トラス橋 全長:960m 桁下橋高:31m 最大支間長:400m
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ikitsuki_Bridge.jpg
一般に「赤クローバー」や「クローバー」と呼ばれる
和名の詰草は 江戸時代にオランダから輸入されたギヤマン(ガラス製品)などの緩衝材に
乾燥したこの草が使われていたのがその語源とされる
農道(サンセットウェイ)は県道42号平戸生月線に合流 県道を通り平戸市街地に戻る







