2014.04.23 長崎県 平戸島散歩

平戸島(ひらどしま)は 南北32km・東西最大幅約10km・面積163.42平方kmで
島としては国内20位の面積で 北端の田の浦から南端の宮ノ浦までの道のりは約45kmある
東側の九州本土に接する海峡は平戸瀬戸と呼ばれ 最も狭い部分は約570mあり
昭和52年(1977)に瀬戸を横断する長さ665mの平戸大橋が架設された
島の最高峰は標高535mの安満岳で 東西二筋の山地が横たわり平地は比較的少なく棚田と溜池が多い
浦々には漁港があり漁業も盛んである 耕地が少ないため醤油の代用として昔から魚醤が作られ
平戸醤油として有名である またトビウオ漁も行われ「焼きアゴ」や「干しアゴ」も名産で 北部九州では
これを「ダシ」に使う「アゴだし」で正月の雑煮を煮る 長崎県北部の この温暖な地域では
ツツジ栽培が盛んで多くのツツジ公園がある その多くに平戸島原産の「ヒラドツツジ」が植えられている
歴史
古代では 遣隋使・遣唐使の寄港地となり 大陸との交易に重要な拠点であった 平安時代以降は
水軍・松浦党の本拠地となり 「ひら」または「ひらのしま」と呼ばれ「比良」「庇羅」「飛鸞」などの記述がある
その後 肥前国と「庇羅の島」間の瀬戸を「ひらのと」と呼び これが訛り鎌倉時代からは「平戸島」と呼称された
モンゴル帝国の二度に亘る日本侵略(元寇・1274年・1281年)に 無防備であった平戸島は大きな損害を受けた
特に二度目の侵攻では 元軍の拠点として島は征服され 日本軍の襲来に備え島に塁を築いて陣地を構築した
天文19年(1550)にポルトガル船が来航し 平戸港は南蛮貿易港として海外に開かれ イエズス会によって
キリスト教の布教が進められ その後はキリスト教弾圧の舞台にもなる
ポルトガル船は永禄4年(1561)の日本人との暴動(宮ノ前事件)により 佐世保湾内の横瀬浦に貿易拠点を
移したが その後も平戸港には 天正12年(1584)にはイスパニア その後はオランダ・イギリスの船も来航した
江戸時代に入り慶長4年(1599)に 初代平戸藩主となる松浦鎮信によって平戸城が築城され
慶長14年(1609)オランダ商館・慶長18年(1613)にイギリス商館が設立されたが その後の鎖国政策により
元和9年(1623)イギリス商館が閉鎖 オランダ商館も寛永18年(1641)に長崎の出島へ移転し
平戸港の南蛮貿易は終焉を迎える 以後は平戸藩の城下町として栄え明治維新を迎える
昭和30年(1955)周辺地域とともに西海国立公園に指定され 島の24%が国立公園の範囲内となる
昭和52年(1977)平戸大橋が開通 平成22年(2010)島の西岸と生月島を含む約1100haが
隠れキリシタンの伝統と棚田群などの景観を指して 重要文化的景観として選定された
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国指定建造物 幸橋(オランダ橋)
平戸城西口門外郭にあった平戸藩勘定場へ架かる橋 寛文9年(1669)に架橋された木橋を
元禄15年(1702)に石橋に架け替えた
寛永16年(1639)に築造されたオランダ商館の建築技法を用いたことが 別称「オランダ橋」の由来となった
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英国商館遺址之碑
英国商館が平戸の地に設置されたことや 日英友好扉を開いた関係者を偲び その大いなる功績を讃え
英国商館が設置されていたであろう対岸のこの地に 昭和2年(1927)5月29日に建立された
碑文には 商館開設当初従事していた11名の商館員の名前と「1613〜1623年間のこの地の向こう岸にあった
英国商館およびその館員、ならびに貿易に従事したすべての人々の記念のために」と英文で書かれている
英国商館設置400年を記念し 協賛金を募り2013年に改修された
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文化財 オランダ船錨
16世紀後半から17世紀初頭の平戸は、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスの貿易船が来航し、
海外貿易の中心地であり、西の都と呼ばれるほどに繁栄を極めた。
大型の錨は1952年(昭和27年)に川内港から引き上げられたもので、松浦史料博物館に展示されている
オランタ船錨(県指定文化財)ともよく似ており、海外貿易で栄えた平戸を実証する資料である。
小型の錨は1956年(昭和31年)に平戸瀬戸で引き上げられたものである。
なお、一緒に展示している方柱状の石材は、
平戸の最南端に位置する首務港から引き揚げられた、中国船の碇石である。
平戸市教育委員会
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平戸城址 亀岡公園
北虎口塀
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北虎口門(搦手門)
五代藩主松浦棟によって建築され宝永4年(1707)に完成した建物
明治4年(1871)廃藩置県後の廃城令による解体から 傍らにある狸櫓とともに残された
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本丸跡の亀岡神社
寛永8年(1631)平戸藩主松浦棟が祖霊4柱を平戸城内の霊椿山に祀ったのが始まり 歴代藩主の崇敬を受けた
社殿の修造等一切の経費は藩費にて賄われた
明治11年(1878)現在地に社殿を建立し 明治13年には霊椿山・七郎・乙宮・八幡の各神社の祭神を遷座
4神社を合祀して亀岡神社と改称した後 県社に列し平戸の産土神とされた
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乾櫓(疑似建築) 昭和37年(1962)建築
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慶長4年(1599)の築城時に植えられた 樹齢400年になるマキの並木 
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平戸つつじ原木園
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名所 寺院と教会の見える坂
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浄土真宗 龍渓山 光明寺の山門
文禄元年(1592)に柴田勝家三男・空性が開基 寺名は本願寺11世門主顕如の命名によると伝えられる
その後 慶長年間に領主の松浦鎮信が領内の浄土真宗弘布を禁じたため一時廃寺となった
江戸時代初期の元和元年(1615)に空性の甥・了空が再興した
現在の堂宇は 弘化から文久年間に建立されたもので 経堂・鐘堂・山門はの文化財指定となっている
平戸ザビエル記念教会
昭和6年(1931)4月竣工 鉄筋コンクリート造のドイツゴシック様式を持つカトリック教会堂で
左側にのみ八角塔がある左右非対称の景観が特徴となっている
市街地から坂を登る途中で手前の光明寺や瑞雲寺などの寺と重なって見える風景は
「寺院と教会の見える風景」として平戸を代表する景観の一つとなっている
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平戸城下・志崎方町の古い町並み
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オランダ塀
平戸和蘭商館跡

平戸和蘭商館跡
慶長14年(1609)2隻のオランダ船が平戸に来航した。時の領主松浦鎮信(法印)の斡旋によって、家康、
ついで秀忠に謁見したオランダの使節は、商館の設置と貿易の許可を得、平戸オランダ商館が設置された。
当初、平戸商館はオランダ勢力の「東インド」における活動を支える拠点としての機能を期待されたためか、
食料や武器などを調達する機能が優先されていたと考えられる。
1610年代には大砲の修理などが平戸でおこなわれ、武器や食糧、また傭兵としての日本人が
オランダ船に乗って東南アジアへと渡ったのである。やがて、タイオワン事件を契機として、
平戸オランダ商館は日本との貿易に重きをおくようになり、1630年代後半からは貿易額、あるいは取引額は
飛躍的に増大する。後の出島時代を含めても、貿易額が最高潮に達するのは平戸時代後期のことである。
貿易の増大に対処するため、平戸オランダ商館は施設のさらなる拡張を図り、1637年そして1639年に
巨大な石造倉庫を建築する。しかし、次第に進展する鎖国政策の波には抗し得ず、1639年築造倉庫は
破風にキリスト生誕を紀元とする西暦年号が記されていることを理由に破壊を命じられる。
また、平戸オランダ商館自体も1641年長崎出島への移転を命じられ、平戸オランダ商館の歴史は幕を下ろす。

オランダ塀
石段に沿って続く漆喰で塗り固められた塀は、通称オランダ塀と呼ばれています。
1609年から1641年までのあいだ、この塀の東側に、オランダ商館が置かれていました。
商館を外から覗かれないために、また延焼などから守るために、この塀が設けられました。
塀の高さは約2m、底辺の幅は約70cmあります。商館当時の様子を知ることのできる数少ない遺構のひとつです。
平戸市
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オランダ塀と平戸城
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オランダ井戸
オランダ埠頭の恵比須
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店内に残るオランダ商館の塀
藩主松浦家邸(松浦史料館)

2014.04.24 平戸島散歩の続き

前日は「道の駅生月大橋」で車中泊し 早朝から生月島を西部を周り 再び平戸島へ
島の西部を南下し日本最西端の港町・宮の浦に向かう
平戸 春日の棚田
写真で紹介するのはほんの一部である 指定された歩道だけでも延べ1928mあり 周回出来る道ではないので
往復分を考えれば 4km程度の歩行を覚悟しなければならない 無論田植え・稲刈り時期は農道に車を
乗り入れることは出来ない 駐車場は春日公民館に数台分はある 最寄りのバス停は小春日になり
バス停に案内地図が置かれている 地区唯一の飲料自販機もバス停にあるが地区に商店は無い
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春日集落は 隠れキリシタンの集落であった 隠れキリシタンが切り拓いた耕作地は1100ヘクタールあり
棚田の景観が対岸の生月島とともに「平戸島の重要文化的景観」の名称で文化財保護法に基づく
重要文化的景観として選定されている 明治6年に禁教令が解かれた後もカトリックに復帰せず
独自の信仰を続けているため教会堂は設立されていない
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高越の棚田 こちらはまだ田に水が入っていない
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獅子町の棚田
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背後の島影は五島列島野崎島・宇久島
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手前の島は立場島 向こう左は下阿値賀島 右は上阿値賀島 背後の島影は五島列島中通島・野崎島

日本最西端の港町 野子町宮の浦 掲示板より(一部編集)
日本一の漁港数を誇る平戸市の中でもここ宮の浦は 全国でも有数の天然ヒラメのほか 豊富な漁場に恵まれ多くの
魚が水揚げされる 歴史的に見ても平戸の文化発祥地とされ 縄文式土器の出土地でもある 景行天皇行宮跡
十城別王を祀る志自岐神社の沖都宮や 地の宮が古くからあり 又 海路の要所として重要な拠点でもあった
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カトリック紐差教会 掲示板より
カトリック紐差教会は 昭和4年(1929)紐差の町を一望する高台に 教会堂設計で著名な鉄川与助によって
建てられました 鉄筋コンクリート造で 梁間48尺(約14.5m)に桁行144尺(約43.6m)と規模が大きく
礼拝空間が2階に設けられているのが特徴です 天井や壁面につけられた花や葉の彫物が ステンドグラスとともに
堂内を華やかに演出しています 現在の教会堂が建つ以前にあった旧紐差教会(明治中期建造)は
紐差教会の布教範囲であった馬渡(まだら)島(佐賀県東松浦郡鎮西町)に
昭和3年(1928)に移築され 馬渡島教会として現存しています
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苺 200円 安い!
芝桜発見 大石脇町 神ノ池堰堤
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神ノ池と鯛の鼻(山)標高447m
カトリック宝亀教会 掲示板より
カトリック宝亀教会は 明治31年(1898)マタラ宣教師の指揮のもと 五島列島宇久島出身の
大工・柄本庄市によって建てられました 平戸市内で最も古い教会建築で 数ある長崎県内の教会の中でも
15指に入る歴史を誇ります 正面の外観からはレンガ造のように見えますが 主体構造は木造で
両側面にベランダと床面まである窓を設けているのが特徴です
建設当初からのステンドグラスは 美しく貴重です
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教会からの眺め

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千里ヶ浜
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川内峠から西側展望 古江湾と半島としては本州最西端となる古江半島 背後は生月島
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川内峠 標高267.2m 360度の展望 平戸から島南地区へはこの峠越えが古来からの道筋

崎方公園より平戸市内展望 崎方公園の上には三浦按針の墓がある
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