2014.11.13 愛媛県今治市来島 来島(くるしま)散歩
11月12日から13日まで 道の駅「今治市多々羅しまなみ公園」で車中泊し 一日目は大三島−因島往復
二日目に大三島−今治を往復して しまなみ海道を二日間の予定で走破するつもりであった
しかし 一日目の午後から北日本を通過する低気圧の発達により 強い西向きの向かい風にたたられ
翌13日のサイクリングは中止にして ドライブと来島・小島巡りをして帰途についた
愛媛県今治市大三島町宮浦 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)
愛媛県今治市大三島町宮浦にある伊予国一宮 全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社でもある
また 主祭神の大山祇神は 三島大明神とも称されることから 四国を中心に新潟県や北海道まで広がる
三島神社の総本社でもある 山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から崇敬された
主祭神 大山積神 (おおやまづみのかみ)
元は山の神で 伊弉諾尊と伊弉冉尊の子であり 磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父とされる
古代の表記では「大山積神社」とあり 扁額には「大山積大明神」と掲示されている
本社の鎮座する大三島は古くは「御島」と記されたように 神の島とされていた
大山祇神社は 仁徳天皇の代に百済より摂津国御島へ勧請し 推古天皇2年(594)に大三島瀬戸に遷宮された
現社は 霊亀2年(716)に造営を終了し 養老3年(719)の遷宮の儀を経て鎮座した古社である
来島(くるしま)
面積 0.04平方kmの小島で 中央部の標高47mの小山には 嘗て村上水軍の来島城があった
島の南東部に来島漁港と集落があるが 人口は僅か24名(2015年1月)である
「くるしま」は 来島海峡の潮流が速く また潮向も複雑なことから言われる「狂う潮」が語源と伝わる
能島・因島と並び 南北朝時代から戦国時代にかけ活躍した海賊・村上水軍の根拠地であった
来島村上氏は6代・約160年の間 来島に本城を小島に出城を築き 海峡をゆきかう船に睨みを利かせていた
戦国時代には 早くから秀吉の臣下についたことで独立大名とされたが 秀吉の海賊停止令により
水軍の解体を余儀なくされた 関ヶ原の戦いでは西軍についた為 内陸部の豊後森に転封された
豊後森藩では久留島と名乗り 無城大名で尚且つ海から遠く放れたところではあったが
家督は明治維新まで12代続いた 来島は 江戸期以降波止浜に塩田が築かれると 塩買船や回船の集まる
港町として繁栄した 来島にも多くの船主が居を構え 昭和初期まで瀬戸内航路の要衝として繁栄した
写真上から小島・来島 左下は波止浜の入江 中央下は糸山公園と来島海峡第三大橋
<灯明台掲示板>
奥深い入江が箱のような形をした波止浜湾は、筥潟湾と呼ばれ、古くから帆船の重要な風待ち、潮待ちの
天然の良港で、戦国時代は来島水軍の船溜まりとして重要視され、天和3年(1683)以降の塩田開発による
町家の増加、塩買船、塩田資材を供給する船の出入りが多くなり、港町として発展し、
伊予の小長崎といわれるほどに成長した。元禄16年(1703)には港の入り口に出入船舶を監督する
船番所が置かれ、船舶と他国者の出入りを厳しく取り締まり、船税の徴収にもあたった。
今もその付近を御番所前という。(現在地より北の方、ドックの中あたり)
この大燈明台は嘉永2年(1849)に御番所前に建てられたもので、高さ約6メートルあり、
海上の安全を祈願したもので、当時の波止浜の人々の意気を示している。
明治35年(1902)に現在地に移された。南面に嘉永二己酉十月吉日、海上安全と彫られ、
東面には金毘羅大権現と彫られている。この前から来島、小島、馬島への渡船が発着している。
波止浜 10:10−来島 10:15 次の小島行は 11:15発 狭い島内散策にたっぷり一時間はある
上部にバス停と島民専用の馬島ICがあり 自転車・歩行者用のエレベーターがある