2011.12.22−23 琴平・丸亀・道後の旅

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 旧金毘羅大芝居は、天保6年(1835)に建てられた、現存する日本最古の
芝居小屋です。江戸時代中頃から金毘羅信仰が全国的に高まり、
年3回(3・6・10月)の「市立ち」の度に仮設小屋で歌舞伎などの興行を
行っていました。しかし、だんだんに門前町の形態が整ってくるにつれて
常小屋の必要性と、また一方その設置を望む多数の庶民の声を反映し、
高松藩寺社方より許可を契機に、当時、大阪三座の一つ大西芝居(後の浪花座)を模し、富籤(現在の宝くじのようなもの)の開札場を兼ねた定小屋として
建てられました。小屋の名称は所有者が変るたびに変更し、
明治33年に「金丸座」と改名した後は現在でもこの愛称で親しまれています。
 昭和45年に「旧金毘羅大芝居」として国の重要文化財に指定され、
昭和47年から4年間の歳月をかけて現在の場所に移築復元ししました。
(元の場所は、現在琴平町歴史民俗資料館が建っているところです)
昭和60年から「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が開催され、四国路に春を告げる風物詩となっています。
平成15年度に復原及び耐震構造工事(平成の大改修)が行われ、併せて調査中に発見された痕跡を検証し、
これらの判明した「ブドウ棚」と「かけすじ」を復原し、
より江戸時代の情緒あふれる姿に再現することができました。
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舞台から観客席側を見て 左を上手 右を下手とし 下手側を花道 上手側を仮花道と呼ぶ
舞台前の天井に下がるのは役者の家紋を表す 顔見世提灯 天井の竹組格子はブドウ棚と呼ばれ
「花吹雪」を散らしたりする ブドウ棚下手側の木組みは「かけすじ」といい宙づりなどするための装置である
このように古来の施設を持つ歌舞伎小屋は他には例がない
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<左>舞台下の奈落 直径4間(7.3m)の人力回り舞台 押し棒と床の分度器(埋め込み石)
<右>回り舞台の樫製のこま(算盤型木製ベアリング)
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楽屋(大部屋)
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花道下の奈落 途中に昇降装置の「すっぽん」がある
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舞台から
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1・2階の東桟敷席と中央に傾斜する平場席
国の登録有形文化財 琴平町公会堂 昭和9年(1934)建築 現在も使用されている(有料)
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AM 10:25 琴平を後にして 丸亀街道を北上する
丸亀街道
江戸時代では 農民町民の国境を越える他藩への旅は御法度であったが 信仰による参詣旅はその限りではなく
お伊勢参りに代表される旅が庶民の間で流行した しかし  路銀を工面するためと旅の安全を図るため
多くは「講」を組んでの数名から数十名の規模で旅をした  江戸時代末期の文化文政の頃には
温泉宿の1泊宿泊が許され 参詣をかねた物見遊山の旅も出来るようになった
「こんぴら詣り」は特に畿内からの参詣客を 大阪天満の湊から船で定期的に送り出していた
この船を「金毘羅船」 と呼び 日本初のCMソングである「こんぴら船々」という歌まで作られていた
金毘羅船(こんぴらぶね)は  讃岐の宿と大阪の船宿との共同の観光事業で 参詣客を乗せて大坂と丸亀の間を
往来した日本で初めての 観光船であった 途中 室津・下津井などに寄港し 通常3〜5日か早ければ2日以内で
丸亀湊に着いた  湊からは約3里の丸亀街道をガイドが案内し宿も決められていたらしい
客は「金比羅船」に路銀を支払い乗船さえすれば  間違いなく「こんぴら参り」が出来る手筈となっていた
また「こんぴら参り」が流行した一因として  象頭山松尾寺の宥光の発案で参拝の土産物として
丸に金の印を入れた団扇を作ったことが 軽くて嵩張らず  大いに土産物としてもてはやされ
参詣客によって津々浦々まで運ばれ 金比羅の名が広まったことも考えられている
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金比羅側起点石
横瀬の鳥居 135丁
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与北の茶堂跡 道中最大の石灯龍 茶堂は休憩接待所である
入口の石橋・石灯龍・丁石・馬乗石・手洗石・印瓦等に往時を偲ばせる
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丸亀湊から移された起点石「従是金毘羅江百五拾丁」と刻まれてる ここにはかつて駕籠かきの詰所があった
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中府の大鳥居 金刀比羅宮「一ノ鳥居」
丸亀港の「金比羅講燈籠」
かつて金毘羅詣での客で賑わった門前湊丸亀のシンボル 今も残る船着き場「新堀湛甫」(しんぼりたんぽ)を
天保4年(1833)に築造するとき 当地の金比羅宿の柏屋団次らが発起人となり 江戸地において千人講を作り
浄財を出し合い 天保9年(1838)に完成した青銅製燈籠である 台座には「江戸講中」と 灯籠の側面には
寄進者や世話人達 1357の名前が刻まれている 特に寄進者の中で 最高額の80両を寄贈した江戸本所相生町の
「塩原太助」の名にちなみ「太助灯籠」とも呼ばれている 対岸の「福島湛甫」にも 2基の灯籠が建てられたが
第二次大戦中の金属回収令により没収され この1基のみ残された
高さ5.28mで蓮の花を模るこの太助灯籠を目印に丸亀港に入港し 琴平の高灯籠までの150丁(約12km)の
道のりを参拝客は歩いたのである 1978年には往時の姿そのままに復元され
1986年にはその位置を一段高くして今も丸亀港を見守続けている
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丸亀城
別名「亀山城」または「蓬莱城」ともいう 丸亀市街地の南部に位置する標高66mの亀山に建造された
縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを内堀で囲む渦郭式の平山城である 石垣は 緩やかではあるが
頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」と呼ばれ 山麓から山頂まで4重に重ねられ
総高としては日本一の60mとなるが 単体としての日本一高い石垣は大坂城の33mである
頂部の本丸には江戸時代に建てられた御三階櫓が現存する
内堀の外周に家来の侍屋敷が建ち並び その周囲を土手と外堀で囲み北側に町割りを施している
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正保城絵図
室町時代初期に 幕府の管領であった細川頼之の重臣・奈良元安が亀山に砦を築いたのが始まり
慶長2年(1597)の豊臣時代 生駒親正が讃岐17万石を与えられ 高松城を本城とし亀山に支城を築き始め
慶長7年(1602)通算6年の歳月を要して完成した 江戸時代に入り 元和元年(1615)一国一城令が出され
支城破却の危機にさらされたが 讃岐藩主・生駒正俊が隠蔽を図り城を破却から守ったとされる
寛永17年(1640)生駒氏が出羽国矢島に転封 翌寛永18年に山崎家治が肥後国富岡より入封して
5万石の丸亀藩が立藩した 万治元年(1658)山崎氏が無嗣断絶改易となり 播磨国龍野より京極高和が
6万石で入封し 以降明治時代まで京極氏の居城となった 万治3年(1660)城下町側の搦め手門を大手門とし
合わせて その大手門から見上げる石垣の端に 現存する3層3階の御三階櫓を建てた
現存する石垣の大半は 32年の歳月を要し延宝元年(1673)に完了した大改修によるものである
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大手二の門 右は大手一の門
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大手一の門
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現存する丸亀城天守 3層3階の御三階櫓
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天守から見る現在の丸亀城下 PM 1:35
車を城に止めたまま 市民会館の「たも屋」で讃岐うどんを喰らう
車に戻り道後温泉を目指すが 愛媛県に入って寄り道が数箇所
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四国中央市川之江町 川之江八幡宮弁天橋
四国中央市三島宮川  三島神社西参道橋
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愛媛県新居浜市角野新田町 別子銅山記念館のクラウス
大阪万博・EXPO70で運転されていた明治の機関車 40年ぶりの再会だが辺りは暗く写真もブレブレ
再々度の出会いを期待して 道後温泉へまっしぐら 現在 PM 5:15
道後グランドホテルについたのは6時半を過ぎていた 夕食は道後温泉本館前の居酒屋・魚武
12月23日 道後温泉
日本三古湯の一といわれ 日本国内でもひときわ古い3000年もの歴史を持つといわれる温泉である
その存在は古代から知られ 古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい 万葉集巻一に見える
伊予国(いよのくに)という名前も 湯国(ゆのくに)が転じたものという説がある
道後温泉は 神話の昔はもちろん 史実上の記録に登場する温泉としても 日本最古級の歴史を持つ
白鷺伝説
昔 足を痛めた白鷺が岩の間から流れ出る湯に浸していたところ 傷が癒えて 飛び立って行くのを見て
村人が温泉を発見したという伝説がある 道後温泉のみならず 白鷺と温泉の縁は深く 各地の温泉の
発見物語に白鷺が登場する 白鷺は道後温泉のシンボルの一つともなっており 道後温泉本館の周囲の柵にも
白鷺をモチーフとした意匠がみられる また鷺谷という地名が残る
伊予国風土記
神話の時代 大国主命と少彦名命が出雲の国から伊予の国へと旅していたところ 長旅の疲れからか
少彦名命が急病に苦しんだ 大国主命は大分の「速見の湯」(別府温泉)を海底に管を通して道後へと導き
小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めたところ たちまち元気を取り戻し 喜んだ少彦名命は石の上で
踊りだしたという この模様を模して 湯釜の正面には二人の神様が彫り込まれている
なお 有馬温泉 玉造温泉ほか全国の各地に類似の伝説が残る
596年 厩戸皇子(聖徳太子)来湯
病気療養のため道後温泉に滞在したことが伊予国風土記に記されている 皇子は伊佐爾波の岡に登り
風景と湯を絶賛し 記念に碑文を遺したとされるが 今日までその現物は発見されておらず
道後温泉最大の謎とされている 14世紀に河野氏が湯築城造営の際に持ち去ったという説もある
Link:道後温泉物語・道後温泉旅館協同組合HP
朝食後 道後温泉街を散策
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道後温泉本館
明治27年(1894)から大正13年(1924)に建設された近代和風建築を代表する歴史的建造物である
1994年に国の重要文化財として指定され 2009年には経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された
最上部の振鷺閣(しんろかく)は刻太鼓を鳴らす場所で朝6時の開館時および正午と午後6時に鳴らされる
1996年に環境庁の日本の音風景百選に指定された この歴史的建造物の誕生は 1890年道後湯之町の初代町長に
伊佐庭如矢(いさにわゆきや)が就任したことに始まる その頃町最大の懸案は 老朽化していた道後温泉の
改築であった 伊佐庭は町長就任に際して 自ら無給とし その給料分を温泉の改築費用に充てることとした
総工費は13万5千円 当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で あまりに膨大な予算に町民は驚き
町の財政破綻を懸念し激しい反対運動が起きたが 完成した木造三層楼は注目を浴び当時でも大変珍しがられた
伊佐庭はさらに道後への鉄道の引き込みも企図し 道後鉄道株式会社を設立 一番町〜道後 道後〜三津口間に
軽便鉄道を走らせ 客を温泉へ運んだ 文豪・夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任したのは 本館の
完成した翌年のこと 漱石はその建築に感嘆し実際に、頻繁に通ったという 手紙や後の小説『坊つちやん』の
中で「温泉だけは立派なものだ」と絶賛している 漱石の手紙によれば 8銭の入浴料で「湯に入れば頭まで
石鹸で洗って」もらうことができ また3階に上れば「茶を飲み、菓子を食う」ことができたようである
本館正面玄関には「道後温泉」と書かれた額が掲示されているが これは新築当時からあったものではなく
1950年に道後温泉を舞台とした獅子文六原作の松竹映画『てんやわんや』が撮影された時に 道後温泉と一目で
分かるように撮影スタッフが掲げたベニヤ板製のものがはじまりである これは撮影終了時に撤去されるはず
だったが 利用客からも好評で存続することになった 文字は松山出身の画家・村田英鳳による
証拠に文字が戦前主流だった右横書きではない 老朽化が激しく 昭和61年(1986)に現在の額に交換された
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伊佐爾波神社石段
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伊予鉄道 道後温泉駅 明治44年(1911)建築の旧駅舎を明治洋風建築そのまま再現
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駅ホーム
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終点の待避線
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 坊ちゃん列車はディーゼルエンジンのレプリカ
道後から松山を経て 梅津寺公園に保存されている坊ちゃん列車を訪ね 松山市内の石橋を数箇所見て砥部へ
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日招八幡大神社
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履脱天満宮
椿神社参道
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砥部焼の里で湯呑を買う PM 1:15
砥部から内子−大洲−八幡浜−伊方きらら館へ立ち寄り 三崎港から九四国道フェリーで九州へ帰る
強風で船が揺れ 不安をかきたてる長い航路であった
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