2010.11.18  福岡県久留米市草野町草野     須佐能袁神社参道橋

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草野町の歴史
源平の戦い(1180〜1185)において手柄をたてた豪族草野家は源頼朝から平安末期の文治2年(1186)
永経の子永平が筑後国在国司・押領使に任じられ 所領三千町歩を受領 耳納山麓竹井城(草野町吉木)に居城し
以後草野の地に勢力を張り草野郷を治めた 草野町は筑後国の一大拠点として栄え
今なお山麓に営まれる神社や寺院・中世の城跡などの旧跡を随所に見ることができる
天正5年(1577)草野家清は 戦国時代を生きるため父祖代々の居城竹井城を棄て難攻不落の
発心城(現:草野町発心公園)を築城するも 秀吉の命をうけた蜂須賀家政により肥後南関で誘殺される
天正15年(1587)約400年もの間 耳納山麓に権勢を誇った草野家は滅亡し ゆかりの神社 寺院も衰退していく
慶長6年(1601)田中吉政が筑後に国主として入国し 新道及び町を作り 善導寺などの
有力寺社の再建にもとりかかった その後 有馬豊氏が筑後北部21万石の大名として入国(久留米篠山城)
漸く草野の町は再興された 江戸時代においては 久留米から天領日田への街道は 山川町の追分で
川辺道と耳納山麓へと向かう山辺道とに別れ 草野は山辺街道沿いの宿駅として栄えた
この道沿いにある須佐能袁神社を中心に元禄8年(1695)頃は 長さ五丁(約550m)140余戸の民家が
集合し賑わいをみせた 須佐能袁神社は建久8年(1197)草野永平が勧請した勝光山祇園寺に起源するもので
代々草野家に加護されてきたが 草野家滅亡後荒廃の一途をたどるも 明治までの神仏混合時代は
草野町の守護寺として祀り続けられた 明治に至り 神仏分離令により 主祭神を素戔鳴尊とし
通称「祗園社」と呼ばれる須佐能袁神社となる 現神殿は明治19年(1886)に改築された欅の権現造りで
拝殿・桜門とともに 県の文化財に指定される 石橋の架橋年月 明治19年(1886)9月
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明治十有九年丙戌仲秋佳辰(吉日のこと) 架之
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