山鹿温泉鉄道の歴史

山鹿温泉鉄道は 熊本県植木町の国鉄植木駅から鹿本郡山鹿町の山鹿駅に至る
路線総延長 20.3km 軌間1067mmの鉄道路線であった
山鹿は古来より交通の要所として栄え 近世には熊本から植木・山鹿・南関・久留米を経て
筑紫野で長崎街道に合流し豊前小倉に至る街道があった
肥後ではこれを豊前街道と称し 幕府においては 熊本以南を含め筑紫野−鹿児島間を薩摩街道としていた
明治25年(1892)に公布された鉄道敷設法では 久留米から山鹿を経て熊本に至る鉄道が予定線として
掲げられていたが 財政が逼迫していた政府に着工の意思は無かった しかし 明治22年(1889)12月
民営の九州鉄道により九州初の鉄道が 博多−千歳川仮駅(筑後川北岸)間に開業され
明治29年(1896)11月には門司−八代駅間が全通したが 山岳部を避けた鉄道は山鹿を通ることはなかった

山鹿鉄道株式会社の設立と解散 軽便鉄道法の制定
同じ明治29年(1896)に山鹿鉄道株式会社が創立され 同年6月に九州鉄道植木駅から山鹿間の免許を受け
明治30年(1897)5月には 山鹿から九州鉄道久留米駅に至る仮免状を受けたが
資金難により 明治31年(1898)12月 山鹿鉄道株式会社は任意解散し鉄道敷設は実現出来なかった
その後明治政府により 明治33年(1900)に私設鉄道法が施行されたが 後年国有化された幹線鉄道や
大規模鉄道路線を敷設する私業団体を対象に制定されこの法律には大きな問題があった
官営鉄道保護の目的から 国が不要とする競合を避けるために私設鉄道を監理監督する為の法律で
許可申請に関わる条件が厳しく また手続きも煩雑であった
その後国の施策として 明治39年(1906)に公布された鉄道国有法によって 私鉄17社が買収国有化され
日本の鉄道は「民から官」へと方針が大きく転換された
このような要因から 地方において民間鉄道敷設の出願がほとんどなくなるという事態を招いてしまった
そのため地方鉄道の建設を推進するために 規制緩和の方策がとられ
明治43年(1910)に軽便鉄道法が制定された
鉄道法とはいえ 軌間ゲージの規定もなく 僅か8箇条の条文で 軌間や設備など簡易なもので可能とし
認可さえ受ければ道路上に軌道敷設してもよいなど 180度転換の緩やかな内容となっている
さらに 明治44年(1911)には 軽便鉄道の敷設を推進するため
軌間762mm以上の規格で建設された路線に対し 開業から5年間(改正で10年へ延長)は
5%の収益を補償する補助金制度の軽便鉄道補助法も公布され 全国的に軽便鉄道建設ブームが起きた
しかし あまりにも大盤振る舞いの方策であったため 大正8年(1919)には法案廃止失効となり
僅か9年間のブームであった その後多くの軽便鉄道は収支の悪化に陥ることとなった

鹿本鉄道設立へ 繁栄期を迎える鉄道事業
明治42年(1909)に大日本軌道株式会社が 熊本市西唐人町−山鹿町間17哩50鎖の軌道特許を得ており
山鹿町はこの軌道鉄道に期待したが具体化することはなかった
大正4年(1915)11月 再び鉄道敷設実現に向け鹿本軌道株式会社が設立された
当初の山鹿鉄道と同様の資金難を回避するため「郡是鉄道」の掛声のもとに鹿本郡内から広く出資を募り
また行政の支援をも受け 軽便鉄道法により悲願の鉄道敷設を実現することが出来た
その後 鹿本鉄道と改称し 大正12年(1923)12月31日 植木−山鹿間が全通した
大正年間は旅客貨物ともに増加をし 大正14年(1925)に最高の総収入金額に到達するが
旅客の輸送は大正13年の23万8千人をピークに年を追う毎に減少していった
その原因は 沿線を走る乗合自動車の路線網発展による競合であった
また上記にある軽便鉄道補助法の失効に伴う補填終了も 減益理由の一つとして考慮しなくてはならない

斜陽化する鉄道事業とバス運行重点への方向転換
鹿本鉄道も大正15年(1926)11月に乗合自動車の許可を受け
同期に鉄道にも3両のガソリンカーを導入した 昭和になると沿線を走る乗合自動車の運行が盛んになった
昭和4年(1929)には山鹿発の乗合自動車は11社を数えた その内 熊本市内直行便が2社26便あり
自動車営業は熾烈な競争にさらされ 昭和7年(1932)にバス事業を廃止した
同年 鹿児島大手の林田バスが参入し 鹿本鉄道はバス路線との競合で鉄道部門の不振が続き
総収入益は減少の一途であった 昭和8年(1933)鉄道事業に見切りをつけ
乗合自動車へ経営をシフトしバス事業を再開し 熊本市内直行便を運行するなどバス事業を本格化させる
8月には鉄道の大幅減便を行い 鉄道資産売却と同業他社の買収を進め域内バス路線の独占化を計った
昭和12年(1937)には バス路線の活況もあって鉄道旅客も増加してたが
それを遙かに超える収益をバス事業がもたらしていた

戦時体制が破局への序幕となる
昭和12年(1937)7月の盧溝橋事件を契機として 日中戦争が勃発し太平洋戦争へと拡大していった
昭和13年(1938)5月に国家総動員法が施行され 同時に生活必需物資統制令も発布され
ガソリンが切符制となり車両燃料油の統制が始まった
陸運会社も例外では無く 翌年には木炭自動車が登場するが 非力で使い物にはならなかった
国家総動員法と同時に陸上交通事業統制法も施行され 昭和15年(1940)の陸運統制令発布により
県単位での交通事業統合を強制された 統合本来の目的は鉄道を含む交通全般に及ぶものとされていたが
熊本県ではまず受け皿となる「九州産業交通株式会社」を 地方財閥である古荘本店の資金をもって設立し
バス・トラック輸送事業のみ統合を図る異例の方法が取られた
この方策は 鹿本鉄道にすれば優良採算部門を強制的に剥がし取られたと言っても過言ではなく
熊本県においては戦時統制に名を借りた 県政を支配する一部有力者への利益誘導策及び
熊本県官吏のうち 特に陸上輸送を管轄とする県警の権益を優先させたものと考えられる
当時の鉄道省を含む官民全てが 戦争の勝ち負けに関係なく 戦争終結後は地方の陸上輸送は
自動車・バスが主体となるとの見解でほぼ統一されており
鹿本鉄道は「バス事業の分離を進めるなら鉄道も統合すべきである」と主張したが聞き入れられず
「私鉄への補助金打切りの場合は統合を破棄する」との条件を添えて
昭和18年(1943)10月 ついに譲渡の契約を九州産業交通とかわした
後の昭和23年(1948)に補助金打切りが実施され 5年後の昭和28年(1953)全線に水害被害を被った際
解約可能と判断し九州産業交通に解約を申し入れたが 拒絶通告を受け物別れとなった
結果として 統合時の条件は統合を促すための方便で「騙しに近い口約束」的なものであった
熊本南部にあった熊延鉄道も同様であったが 観光地の山鹿と比べて南部山岳地帯へと伸びる鉄道及び
バス路線に九州産業交通の食指が動か無かった為 熊延鉄道は今日まで熊本バスとして会社が存続している

終焉
戦後一時期は 疎開・買い出し・復員などの旅客が増加し旅客収入の増収を得たが
インフレ等の経済的混乱と諸経費の値上がりで収益は減少し 昭和23年(1948)からは旅客数も減少した
熊本駅への直通運転も一時期の好転材料となったが
皮肉にも元自社路線であった沿線バスとの競合により経営は苦しかった
昭和27年(1952)6月 社名を全国的に知名度の高い山鹿温泉を冠した 山鹿温泉鉄道に改称したが
昭和28年(1953)6月26日の集中豪雨により被害を受け 約4か月間不通となってしまった
昭和25年 一般旅客乗合自動車運送経営免許を申請したが資金難により挫折断念した
昭和30年に再度申請するが 九州産業交通に譲渡した路線とほぼ同じ路線であったため
「権勢並ぶ者なき」とまで言われた産交社長の野上進(*注)に遠慮するかのように
(*注)1947年・県議会副議長 1956年・自民党県連会長 1960年・参議院議員選挙補欠選挙当選
運輸当局も当事者同士の交渉を促すのみで捨ておかれ 進展を見ないままであった
この間4回にわたり増資を行っている おそらく全て損失の補填に充てられていたと思われるが
域内の株主は無配にもかかわらず増資に応じた
昭和32年(1953)7月26日 集中豪雨による甚大な被害を受け 植木町−山鹿間は約1か月後に復旧したが
植木−植木町間は築堤が崩壊し復旧不可能となり そのまま区間休止となった
昭和35年(1960)12月には全線休止に追い込まれ 昭和40年(1965)2月4日 ついに全線廃止となり
50年の歴史にピリオドを打った 山鹿駅構内跡地は鹿本停車場(株)の所有となり自動車学校が作られた
学校内には流用された駅舎や煉瓦給水塔も残っていたが 今は宅地化され面影は灰燼に帰している
線路敷は熊本県に売却され 後年自転車道として復活 植木駅敷地は国鉄に返却されている

起終点及び途中駅は下記の通りである
植木駅−植木町駅−一ッ木駅−今小閑駅−山本橋駅−今藤駅−肥後豊田駅−舟島駅−伊知坊駅
−平島温泉駅−山城駅−宮原駅−奥永駅−分田駅−来民駅−肥後白石駅−肥後大道駅−山鹿駅

沿革
大正04年(1915)11月鹿本軌道の名で会社設立
大正05年(1916)3月大日本軌道より軌道特許(熊本市西唐人町-鹿本郡山鹿町間)譲受
12月鹿本鉄道に社名変更 鉄道免許状下付(鹿本郡桜井町−同郡山鹿町間)
大正06年(1917)3月未着工により軌道特許失効
12月植木−肥後豊田間を開業
大正07年(1918)12月肥後豊田−宮原間を開業
大正10年(1921)12月宮原−来民間を開業
大正11年(1922)5月鉄道免許状下付(鹿本郡山鹿町−同郡三岳村間)
大正12年(1923)12月来民−山鹿間を開業
昭和03年(1928)8月肥後大本・肥後大道駅を開業 (同年長浦−熊本間連絡バスの運行を開始)
昭和05年(1930)7月期限未着工により鉄道免許失効 鹿本郡山鹿町−同郡三岳村間
昭和07年(1932)バス事業を一時廃止
昭和08年(1933)7月シボレーバス20台を導入しバス事業を再開 沿線各地から熊本市内直通便を運行
昭和11年(1936)熊本市中心部の花畑町にバス待合所を設置
昭和12年(1937)4月肥後大道駅・肥後大本駅を廃止
昭和18年(1943)10月陸運統制令によりバス事業を九州産業交通株式会社に譲渡
昭和24年(1949)7月平島を平島温泉に改称
昭和25年(1950)12月ディーゼル動車2両を導入 熊本直通運転を開始
昭和27年(1952)6月社名を山鹿温泉鉄道に改称 同年8月 肥後大道駅を復活
昭和28年(1953)6月集中豪雨(熊本6.26大水害)により被害を受け 約4か月間不通
昭和29年(1954)6月肥後大本駅を今藤駅として復活
昭和30年(1955)4月一ツ木駅・舟島駅・伊知坊駅・奥永駅・白石駅を開業
昭和32年(1957)7月集中豪雨により被害を受ける 植木−植木町間は築堤が崩壊し復旧不可能となり休止
昭和35年(1960)12月全線休止
昭和40年(1965)2月全線廃止 社名を鹿鉄バス(株)に改称し貸切バス事業者となる
昭和46年(1971)貸切バス事業を縁故会社の鹿鉄停車場(株)に移管
昭和49年(1974)線路跡地の自転車道建設のための用地保全を目的とする法人 山鹿自転車道(株)となる

現在 鹿鉄停車場(株)・山鹿自転車道(株)ともに廃業 消滅している 自転車道のパンフレットには
「山鹿温泉鉄道の息の根を止めたのは「陸上交通事業統制法」という地方の鉄道を
統合・整理する法律です。政府の指示を受け、鉄道部門は維持しながらもバス部門を手放してしまった。
モータリーゼーションが急速に進む中、バス部門を死守した鉄道会社は生き残り、素直に指示に従った
「山鹿温泉鉄道」は、時代の大きな波に飲まれるしか・・・・」とあるが
他人事のようで釈然としない文である バス事業に経営シフトした後も 鉄道を廃止することもなく
戦時統合の名のもとに強権にバス部門をはぎ取られ 時代の流れに翻弄されつつも
なおも鉄道を死守しようとしたのは「この鉄路が山鹿市民によって作られた」という歴史の重みが
最後の最後までこの鉄路を預かった経営者・社員の気概であったと 私は信じたい
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