山辺郡の市として栄えた丹波市に天理教が勃興したのは 徳川幕府瓦解前30年の天保9年(1838)から
明治初年にかけてである 当初は迫害にあったが明治中期には公認され 大字三島地区に
教会の本部となる「お地場」が設けられて急速に発展した
人口は江戸期から明治中期までは 一寒村として500人にも満たなかったのが
おおよそ大正初期には2千数百人となり 信者の拡大と共に丹波市は宗教都市へと変貌していった
天理市誕生
天理市は昭和29年(1954)4月1日 山辺郡丹波市町・二階堂村・朝和村・福住村
添上郡櫟本(いちのもと)町・磯城郡柳本町の三町三村の合併により誕生した都市である
新しい市名は 天理教の本部が丹波市町にあったことに因み「天理市」が選ばれたが
天理教団は山辺郡の郡名である「山辺市」を推薦したという経緯がある
この市名が決まる39年前 丹波市町に「天理駅」を開業した鉄道が「天理軽便鉄道」であった
天理教と軽便鉄道
天理軽便鉄道
この鉄道は天理教本部を「ぢばがえり」と称し参拝する人々を 官営鉄道関西本線「法隆寺駅」から
奈良駅を経由せずに直接天理に運ぶために計画された参詣鉄道である
丹波市町に開業した駅名は「天理駅」と称し駅名は現在もそのまま引き継がれ残る
大正4年(1915)1月13日に 全線5哩(マイル)48鎖(チェーン)<換算値約9.0km>
軌間762mmの単線が完成 資本金25万円で開業し 独国コッペル社製蒸気機関車3両と客車10両を有し
客車を2〜3両を牽引して通常は13往復 天理教大祭など繁忙期は15往復した
速度は時速17kmと極めて遅く全線を34分で走行した
開業時の停留所は 新法隆寺・額田部(ぬかたべ)・二階堂・前栽(せんざい)・天理の5駅であったが
その後「安堵(あんど)駅」を開業し6駅となった 新法隆寺の始発が朝遅く07時03分
天理の最終到着が深夜に近い23時47分と天理教信者の利便性を考慮したダイヤとなっている
しかし当初から利用旅客数が計画値より低く また法隆寺を観光して天理へと向かう客が
復路は天理から観光のため奈良まで桜井線を利用し 奈良から関西線を利用して帰る片道利用の客が
多くを占め経営が困難であった 一方 大正3年(1914)には大阪上本町から奈良間を
大阪電気軌道株式会社(近畿日本鉄道前身)が開業し その後同社が大正6年(1917)に
西大寺橿原神宮前間の畝傍線建設許可を出願した事により 零細軽便鉄道の運命は暗転することとなる
畝傍線建設許可自体が この路線が完成する事で天理軽便鉄道の経営が行き詰まるであろうと言う
前提に立案され 大阪電気軌道が天理軽便鉄道を買収する条件で許可された政府認可であった
大正9(1920)12月 大阪電気軌道に全線譲渡し 5年10カ月の短い歴史にピリオドを打った
大軌天理線
大阪電気軌道は軽便線を買収することにより 大阪上本町から天理まで直通電車を運行する事を考えた
そのため畝傍線と天理軽便線が交差する平端駅で天理軽便線分割し 平端・天理駅間の軌間を
1435mmの広軌道に拡げると同時に電化して天理線とし 平端以西を軌間762mmのまま
新たに法隆寺線として分離した 平端・天理駅間の改軌工事は軽便軌間の列車を運行しながら施工され
大正11年(1922)3月31日に軌間拡張と電化工事が完工した 翌4月1日より畝傍線の
郡山・平端駅間開業と同時に運行をはじめ 待望の上本町・天理駅間の直通電車が走ることとなり
20分間隔平均速度44kmという 時速17kmの軽便時代と全く異なる近代的な鉄道として生まれ変わった
この鉄道は天理教本部を「ぢばがえり」と称し参拝する人々を 官営鉄道関西本線「法隆寺駅」から
奈良駅を経由せずに直接天理に運ぶために計画された参詣鉄道である
丹波市町に開業した駅名は「天理駅」と称し駅名は現在もそのまま引き継がれ残る
大正4年(1915)1月13日に 全線5哩(マイル)48鎖(チェーン)<換算値約9.0km>
軌間762mmの単線が完成 資本金25万円で開業し 独国コッペル社製蒸気機関車3両と客車10両を有し
客車を2〜3両を牽引して通常は13往復 天理教大祭など繁忙期は15往復した
速度は時速17kmと極めて遅く全線を34分で走行した
開業時の停留所は 新法隆寺・額田部(ぬかたべ)・二階堂・前栽(せんざい)・天理の5駅であったが
その後「安堵(あんど)駅」を開業し6駅となった 新法隆寺の始発が朝遅く07時03分
天理の最終到着が深夜に近い23時47分と天理教信者の利便性を考慮したダイヤとなっている
しかし当初から利用旅客数が計画値より低く また法隆寺を観光して天理へと向かう客が
復路は天理から観光のため奈良まで桜井線を利用し 奈良から関西線を利用して帰る片道利用の客が
多くを占め経営が困難であった 一方 大正3年(1914)には大阪上本町から奈良間を
大阪電気軌道株式会社(近畿日本鉄道前身)が開業し その後同社が大正6年(1917)に
西大寺橿原神宮前間の畝傍線建設許可を出願した事により 零細軽便鉄道の運命は暗転することとなる
畝傍線建設許可自体が この路線が完成する事で天理軽便鉄道の経営が行き詰まるであろうと言う
前提に立案され 大阪電気軌道が天理軽便鉄道を買収する条件で許可された政府認可であった
大正9(1920)12月 大阪電気軌道に全線譲渡し 5年10カ月の短い歴史にピリオドを打った
大軌天理線
大阪電気軌道は軽便線を買収することにより 大阪上本町から天理まで直通電車を運行する事を考えた
そのため畝傍線と天理軽便線が交差する平端駅で天理軽便線分割し 平端・天理駅間の軌間を
1435mmの広軌道に拡げると同時に電化して天理線とし 平端以西を軌間762mmのまま
新たに法隆寺線として分離した 平端・天理駅間の改軌工事は軽便軌間の列車を運行しながら施工され
大正11年(1922)3月31日に軌間拡張と電化工事が完工した 翌4月1日より畝傍線の
郡山・平端駅間開業と同時に運行をはじめ 待望の上本町・天理駅間の直通電車が走ることとなり
20分間隔平均速度44kmという 時速17kmの軽便時代と全く異なる近代的な鉄道として生まれ変わった
大正11年測図 大正14年発行 大日本帝國陸地測量部地図
天理軽便鉄道分離後の地図 法隆寺・平端間は天理機關鐵道と記入
天理軽便鉄道分離後の地図 法隆寺・平端間は天理機關鐵道と記入
平端・天理間は天理電氣軌道と記入されている
残された軽便鉄道
分離された軽便鉄道は新に乗換えのために平端駅を新設し 平端・法隆寺間を大軌法隆寺線として
762mm軌間のまま運行を続けたが 天理線電化後急激に旅客数が減少した
合理化をはかるため蒸気機関車と客車の連結による列車編成をやめガソリンカーを導入した
法隆寺駅にあった機関庫などの設備が不要になり 駅を移設し線路を短縮して駅名を大軌法隆寺とした
買収直後は平端・法隆寺間の13往復を蒸気機関列車で1両または2両で運転していたが
昭和3年から日本車両製30人乗り半鋼製のガソリンカー2両を導入し 以降これが軽便線の主役となった
終焉
一日に25往復もして地域の利便性に根ざした鉄道も 昭和12年(1932)の日中戦争以降は
ガソリン統制が厳しくなり 運行ダイヤも半減以下の時代が続いた
太平洋戦争に突入した頃からは更に運転回数が減少し ついに昭和19年末には
定期便は朝と夜の3往復のみで昼間は不定期のような形になってしまった
ガソリンカーも木炭車となり 故障続きと燃料不足で何時動くか分からないといった状況になった
さらに太平洋戦争直前の昭和16年(1941)8月30日に 金属資源の不足を補う目的で公布された
勅令第835号・金属類回収令による鉄材供出のため 昭和20年(1945)不要不急線の指定を受け
大和鉄道の田原本・桜井間と共に平端・法隆寺間も 政府の命令により線路が撤去され
終戦半年前の同年2月11日ついに運転休止となった
戦後も二度と復活することはなく 昭和27年(1952)4月1日に営業認可を返上し正式に廃止となった
平端までの線路跡は 安堵町西安堵の木戸池と斑鳩町阿波に それぞれわずかに残されている
残された軽便鉄道
分離された軽便鉄道は新に乗換えのために平端駅を新設し 平端・法隆寺間を大軌法隆寺線として
762mm軌間のまま運行を続けたが 天理線電化後急激に旅客数が減少した
合理化をはかるため蒸気機関車と客車の連結による列車編成をやめガソリンカーを導入した
法隆寺駅にあった機関庫などの設備が不要になり 駅を移設し線路を短縮して駅名を大軌法隆寺とした
買収直後は平端・法隆寺間の13往復を蒸気機関列車で1両または2両で運転していたが
昭和3年から日本車両製30人乗り半鋼製のガソリンカー2両を導入し 以降これが軽便線の主役となった
終焉
一日に25往復もして地域の利便性に根ざした鉄道も 昭和12年(1932)の日中戦争以降は
ガソリン統制が厳しくなり 運行ダイヤも半減以下の時代が続いた
太平洋戦争に突入した頃からは更に運転回数が減少し ついに昭和19年末には
定期便は朝と夜の3往復のみで昼間は不定期のような形になってしまった
ガソリンカーも木炭車となり 故障続きと燃料不足で何時動くか分からないといった状況になった
さらに太平洋戦争直前の昭和16年(1941)8月30日に 金属資源の不足を補う目的で公布された
勅令第835号・金属類回収令による鉄材供出のため 昭和20年(1945)不要不急線の指定を受け
大和鉄道の田原本・桜井間と共に平端・法隆寺間も 政府の命令により線路が撤去され
終戦半年前の同年2月11日ついに運転休止となった
戦後も二度と復活することはなく 昭和27年(1952)4月1日に営業認可を返上し正式に廃止となった
平端までの線路跡は 安堵町西安堵の木戸池と斑鳩町阿波に それぞれわずかに残されている
昭和41年(1966)9月7日 国土地理院 天理駅移転統合一年後の航空写真
1.新しい天理駅 2.旧近鉄天理駅(天理軽便鉄道開業時と同じ) 3.旧国鉄丹波市駅(後の天理市駅)
昭和38年(1963)5月 国鉄丹波市駅が天理市駅に改称された
昭和39年(1964)10月 国鉄線高架化計画に伴い近鉄天理駅が移転
昭和40年(1965)9月 国鉄線路付け替え・駅移転完工 天理駅に改称し近鉄天理駅と統合した
1.新しい天理駅 2.旧近鉄天理駅(天理軽便鉄道開業時と同じ) 3.旧国鉄丹波市駅(後の天理市駅)
昭和38年(1963)5月 国鉄丹波市駅が天理市駅に改称された
昭和39年(1964)10月 国鉄線高架化計画に伴い近鉄天理駅が移転
昭和40年(1965)9月 国鉄線路付け替え・駅移転完工 天理駅に改称し近鉄天理駅と統合した