2026.03.05 奈良県橿原市今井町(いまいちょう)散歩
地名としての今井が歴史に現れるのは 南北朝時代の至徳(元中)3年(1386)の興福寺一乗院の文書である
平安京遷都後の大和国は 長らく興福寺が治めており鎌倉幕府も敢て大和には守護を置かず 古代豪族の末裔とされた
大和四家と呼ばれる国人衆徒である筒井・越智・十市・箸尾の四氏が各地の荘園を管理していた
今井庄は 興福寺一乗院の荘園であり 同じ興福寺一乗院文書には 高取城主越智家栄が市を開こうとした記録が残る
畿内の浄土真宗門徒による一向一揆が治まった天文2年(1533)今井に真宗本願寺の道場が幾度となく建てられたが
興福寺一乗院の衆徒越智氏によってことごとく破却された 永禄2年(1559)になると 畿内を支配していた
三好長慶の家臣・松永久秀が大和に入国し 国人衆徒との戦いが繰り広げたことで 興福寺からの弾圧も免れた
機に乗じて本願寺・顕如上人により寺号を得 河瀬兵部丞(後改め今井兵部房)と河合清長(後改め今西正冬)が
門徒や在郷武士・牢人を結集させ稱念寺・道場を中心とする寺内町を建設した これが今井町の始まりである
門徒宗は 中世の今井庄環濠集落を母体として 周囲の環濠土居を強化し また道筋を屈折させるなど
城塞自治都市を構築した 永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁し上洛して以来 本願寺ともども信長への
反旗を翻し抵抗した 天正3年(1575)信長に反発する在郷武士団と今井門徒が呼応し 半年に渡り戦い続けたが
本願寺の顕如上人が信長に対し和睦を申し入れたため 今井門徒も降伏を余儀なくされた
明智光秀や筒井順慶と親密な堺の豪商・津田宗及の仲介により 信長から今井郷に対して今井郷惣中宛赦免状が
与えられ安堵を得た 同年冬には 今西家南側に本陣が置かれ 武装解除を条件に大坂と同じ自治権を与えた
その後は 同じ自治町である大阪や堺などと交易が盛んとなり宗教都市から商業都市へ変貌をとげた
江戸時代には 南大和最大の町となって栄え また堺とならび自治的特権が認められ 惣年寄・町年寄を置き
町政にあたった 延宝7年(1679)に 四代将軍徳川家綱によって天領に編入され呼称も町となった
104年間続いた自治制度が終焉し 環濠外に同心屋敷と呼ばれる代官所が設けられた 完全自治制度に代えて
今西・尾崎・上田の三家に対し惣年寄・町年寄・町代を任じ 死罪を除く警察・司法・行政の権限を与えた
元文元年(1736)からは芝村藩預りに 後に高取藩領になり 徐々に衰退しながら明治を迎えた
明治4年(1872)奈良県が発足 明治13年(1880)行政区画の高市郡が発足 明治22年(1889)小綱村編入
昭和31年(1956)高市郡の今井・畝傍・八木の3町と鴨公・真菅の2村及び磯城郡耳成村と合併し橿原市が発足
観光用のパーキングは 今井西環濠広場の市営有料駐車場を利用 300円/1.5h 410円/2h 最大520円

今井の環濠
今井町の周囲には、防衛と水利機能を兼ね備えた濠(環濠)や土居(土を盛った堤)が巡らされていました。
昭和50年(1975)以降調査が重ねられた結果、この環濠には、新・旧2時期のものが存在することが判明しています。
町の南西部にあたるこの場所は、南の畝傍山、西の二上山と直交する場所にあり、環濠の調査が最も進んでいます。
新環濠は、内・外2重の構造になっており、江戸時代から昭和初期にかけて利用されていました。
また、旧環濠は戦国時代にさかのぼる可能性があり、規模はさらに大きい構造を有していたようです。
旧環濠から新環濠への変遷は、今井町が寺内町から自治都市・商業都市へと変貌し、更なる発展を遂げる過渡期と
重なります。 平成30年(2018)4月、広場整備の一環として、これまでの歴史の延長線上に、環濠のまち・今井町を
象徴する新たな濠が生まれました。 新環濠の外濠に幅をあわせ、特に橋から臨む手前の部分は、
土で固められており当時のイメージを再現しています。
かつては「西の木屋」と呼ばれた旧牧村家住宅 幕末には大名貸しを行い藩の蔵元等を務めた豪商
寛文2年(1662)の建築 非公開
竈(かまど)
関西では「へっつい」や「くど」と呼ぶ 奈良・京都では親しみと竈神(荒神様)に対する畏怖を込めて
「おくどさん」と呼ぶ 「へっつい」の語源は 竈神の「竈(へ)つ霊(ひ)」という言葉が転訛したもの
「くど」は 元々竈の煙出口のことで 漢字では「竈突」と書く これが竈本体を表す言葉になったとされる
因みに 関西では火を燃やすことを「焚(く)べる」とも言う
その他「九度米を炊く」「火処(ほど)が転訛した」など色々な説がある 江戸でも「へっつい」と言われたが
上方落語の演目「へっつい幽霊」や「へっつい盗人(ぬすっと)」が 江戸に伝わったことが原因かもしれない
江戸では「へっつい盗人(ぬすっと)」は「へっつい泥棒」になった
江戸時代初期 上品寺村から移住し「上品寺屋」の屋号で酒造業を営む 18世紀中頃に建てられた二階建て町家
二階に座敷などが設けられ 豪商の片鱗が伺えられる
次の目的地 富田林市寺内町へ 国道165号線で竹内峠を越えて 距離19.8km・約1時間の距離
平成17年(2005)5月撮影の今井町 モノクロフィルム







