2024.11.12 福岡県大野城市下大利/ 太宰府市水城一丁目 水城と国分寺跡
水城とは 「……。又於 筑紫、築 大堤 貯水、名曰 水城。」と『日本書紀』の天智天皇3年(664)12月の条に
記載される古代城塞のことである 天智2年8月(663.10)朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた
唐・新羅軍との百済国復興を目指す戦いで 中大兄皇子が率いる倭国・百済遺民軍は大敗を期し 倭国本土への
退却を余儀なくされた 翌年の天智天皇3年(664)に戦勝国の唐使が自ずと来朝したことによって
倭国は大国唐の強烈な重圧と脅威にさらされる結果となり 特に北部九州の防衛体制の整備が急務となった
まず対馬・壱岐・糸島・福岡を経て太宰府の四王寺山に至る信号路・烽(とぶひ=のろし台)を配置
筑紫野に太宰府の防衛施設として水城を築き東と南に各々大野城と基肄城を構えた 同時に長門国にも城を築き
以降の築城も含め史書に記される朝鮮式山城は 高安(奈良)・茨城・常城・屋嶋(香川)・鞠智城(菊池)
金田城(対馬)・三野城・稲積城の11ヶ所となった その他 神籠石系山城とされる出城や砦を含む数多くの要塞に
防人を配した 天智天皇6年(667)に都を飛鳥から近江大津に遷都し防衛体制は完了した
翌年正月に 中大兄皇子は天智天皇となった
675年には 朝鮮半島から唐軍が引き上げられ新羅によって半島統一が成された 戦後の大和朝廷は 唐との講和も
模索したが 重点は内政に置き百済難民を無条件で受け入れ朝廷に仕えさせると共に 国家体制の整備改革を急いだ
大宝元年(701)持統天皇によって大宝律令を発布 国号を「日本」とし 中央集権国家の確率が急速に進められた
天武から持統天皇の代には遣唐使は一切派遣されなかったが 天武天皇は遣唐使に代えて遣新羅使を頻繁に派遣した
大宝2年(702)より 文武天皇によって漸く遣唐使が再開され粟田真人を派遣して唐との国交を回復した
水城の規模は太宰府市国分の大野城のある四大寺山麓から基肄城の山麓である大野城市牛頸(うしくび)台地間の
狭窄部を塞ぐ形で 基部の幅約80m・高さ9m・全長約1.2kmの堤が築かれ外堀と内堀が設けられた
東西の端部には 博多湾の那ノ津および筑紫館(後の鴻臚館)に通じる官道が通り 東門・西門が設置された
1.水城ゆめ広場無料駐車場 2.太宰府筑紫館往還路の水城西門跡 3.水城駅 4.JR鹿児島本線と市道
5.西鉄天神大牟田線・国道3号線・高速九州縦貫道 6.水城の内濠・外濠に水を供給した御笠川
7.水城跡第2広場駐車場 8.太宰府那ノ津往還路の東門跡・旧日田街道(宰府道) 9.水城跡展望台
7.筑前國一之宮 住吉神社(社伝:最古の住吉宮) 8.板付弥生遺跡(唐津市菜畑遺跡と並ぶ最古の水稲耕作跡)
A.西門から筑紫館への官道 B.東門から那ノ津への官道
水城は、古代につくられた土塁と濠からなる防衛施設です。 『日本書紀』には天智天皇3(664)年、
「筑紫に大堤を築きて水を貯へしむ、名づけて水城といふ。」と記されています。
土塁は、東西の長さ約1.2km、高さ約10m、最大幅約80mの大規模なもので、福岡平野最奥のもっとも
狭くなった部分をふさぐように築かれました。 博多湾側には、約60m、深さ約4mの外濠があり、
太宰府側から土塁下を通って外濠へ給水する木樋も見つかっています。
水城の西側には、大野城市上大利・春日市土居・天神山など、水城と同じ目的で造られた小規模な土塁があり、
小水城と呼ばれています。
西門エリア(ゆめ広場-JR) 中央エリア(JR-御笠川欠損部) 東門エリア(欠損部-東門跡)
ここは水城跡西側の自然丘陵にあたります。 水城は東側に四王寺山、西側に脊振山地からのびる丘陵がつながり、
土塁と濠そして自然の地形が一帯となって、唐・新羅軍の来襲に備えた防衛線を形成していました。
新池周辺は豊かな緑と水に包まれ、薪の採取など長い間地域の貴重な里山として親しまれ利用されてきました。
昭和の初めには「思水園」という庭園が開かれ、池のまわりはマツ、ヤマザクラ、ツツジなどで
彩られていたそうです。 現在でも、様々な植物や野鳥を見ることができ、私たちの目を楽しませてくれます。
2020年大野城市教育委員会発行 まぼろしの思水園より
思水園の初見は 昭和3年(1928)の福岡日日新聞による同社主催の鯉釣り大会の報道で「満山躑躅咲き匂う
閑寂の遊園 思水園」で開催されたと記されたのが初めてである 思水園の主は 現柳川市在住の由布惟重氏で
大正15年(1926)に大野村下大利に土地を購入し転居 徐々に庭園などの整備を進めたものと考えられている
居宅の他 ビアホールや休憩所の東屋・宴会場・売店食堂などの建物があり 鯉釣会・観月会・蛍見会・花火大会
園遊会などが四季を通じて開催されたとある ただ最後に確認できる新聞記事は 柳河新報の
昭和8年元旦号に掲載された祝賀広告であったが その後も惟重氏が居住した形跡が確認できるが 第二次大戦中に
福岡市内に転居したことで 思水園は終焉を迎えた その後 戦争末期の本土防衛のため満州駐留の帰還兵による
歩兵第117連隊が 思水園・新池周辺に陣地を構築し周辺に多くの戦闘用洞窟壕を構築し
構造支材に思水園に植えられていた松が使われたと伝わる 敗戦後は 直後・席田(板付)飛行場を中心に
米軍の接収・駐留が開始され 春日から大野城市上大利にかけて春日原ベースキャンプ地が設けられるなど
周辺には多くの米軍関係者が居住した 昭和21年12月には思水園跡に米軍向けのダンスホールが建設されたが
2年後には閉鎖となり その後は1・2軒の民家が残されていたが 昭和28年3月に水城跡が
国の特別史跡に指定され 隣接地への新たな建設が規制され現在の景観に至る
思水園のあった小高い丘は 旧小字名で矢倉(やぐら)と呼ばれており 古代から見晴らしの良い場所で
「やぐら」という地名からも 物見櫓のような監視施設があったのではないかと推定されている
特別史跡水城跡の調査成果
ここは特別史跡水城跡の西門の跡です。 水城は西暦664年に博多湾側から攻め入ることが予想された唐・新羅軍に
備えて造られた防衛施設ですが、東と西に二つの門がありました。 平成6年~8年に九州歴史資料館によって
西門の周囲が発掘調査され、当初建てられた西門が八世紀前半と八世紀中頃以降の二回
建てかえられたことがわかりました。 はじめは実戦に備えた簡易な門でしたが、三回目の門は敵の侵攻の恐れが
ほぼなくなり、見かけを重視した二階建て風のりっぱな門(楼門)になったようです。 また、門の両側にある
土塁の断面では版築と言って、粘質土と砂質土を交互に積んでよく締め固めた様子が観察されました。(写真)
さらに、この調査では、西門から鴻臚館までほぼ直線的に伸びる官道の跡も見つかりました。
しかし土塁前面にあるとされていた濠がこの官道より東側では見つかりましたが、西側では見つかりませんでした。
一方、土塁の西側付け根部分の高台では、望楼の可能性のある建物が見つかりました。
まだ謎の多い水城跡ですが、発掘調査によっていろいろなことがわかってきました。
平成19年3月 大野城市教育委員会 (撮影: 九州歴史資料館)
標高448mの牛頸山北麓の丘陵地は 花崗岩を基盤とし河川の開削作用によって多くの谷が形成され 防御に適した
起伏の険しい地形となっている 牛頸丘陵には多くの須恵器窯跡があり 考古学上「牛頸須恵器窯跡」として
認知されている 須恵器の生産は6世紀中頃から始まったとされており 窯跡は丘陵の斜面に窖窯(あながま)を
掘ったもので その分布範囲は東西約4km・南北約4.8kmにまたがり総基数は500基以上と推定されている
四王寺山とは 最高点の大城山(410m)を中心に岩屋・水瓶・大原山の四山から構成される山地の総称である
四山とそれらに囲まれた盆地内に古代山城が 百済人の指導によって築かれたことから朝鮮式山城とも称される
特別史跡水城跡土塁断面ひろば
明治22年(1889)12月に九州初となる鉄道の九州鉄道により博多-千歳川仮駅(筑後川北岸)間が開業され
すでに水城の堤は開削されいたが 大正2年(1913)7月に複線化拡幅のため開削工事が行われた
折しも福岡を訪れていた東京帝国大学の黒板勝美教授によって調査が行われた
この調査後も水城跡の調査が数多く行われてきたが 土塁断面を大々的に調査をすることができたのは
後にも先にもこの時だけであり 100年前の調査がいかに重要であるかが分かる
100年前の調査規模よりも小さいながら 水城の土塁構造とその造成方法を探るため 平成25年(2013)12月から
改めて当地で発掘調査が行われ 結果として丁寧な設計と手法による緻密な構造物であり 版築の構造や
土塁に使われた土砂の材質および敷粗朶の種類に至るまで数々のことが判明した
発掘終了後には 埋め戻し保護され調査結果を掲示し版築層を再現して「土塁断面ひろば」として公開している
地面から1mほど掘り下げた所で枝葉を確認しました。 出土した時には、築造から1300年以上経過したにも
かかわらず緑色を残しており、空気に触れると黒く変色しました。 出土した葉の分析から、用いられた樹木は
アワブキやヤマビワなど、現在もこの周辺に生息している植物であること、
持ち込まれたのは初夏であることがわかりました。
板などで外側を囲み丸太棒で突き固める工法を「版築」といい 水城では主に上部に見られる
今年で水城が出来て1360年 今や新羅の子孫は空からやって来る
水城ゆめ広場に戻り 東門エリアの水城跡第2広場駐車場へ車で移動 水城から展望台・国分寺跡へ徒歩で周回する
大正4年(1915)大正天皇の御大典記念行事として 水城青年会が建立した石碑 台座石は宝満山から
碑石は博多から青年会自ら運搬し 揮毫は水城村在住の郷土史家・武谷水城によるもの
碑の背面には水城村出身の竹森善太郎技師による実測結果が記される(下記碑文訳)
天智天皇3年 筑紫に大堤を築き水を貯え名づけて水城と曰う。 今をへだてること1252年。
称徳天皇の天平神護元年3月、大宰少弐 従五位下 采女朝臣浄庭を修理水城専知官とす。 今をへだてること 1151年。
今、東堤長さ176間3尺(約320m)、西堤384間3尺(約700m)、総長561間(約1020m)、
最高所5間5尺(10.6m)、基盤の最広所19間1尺7寸(約35m)、 中央欠堤所96間(約175m)。
西堤は近年中断し、二堤となる。
この所はすなわち東方関門の跡で片側の礎石が遺存している。 その西方関門はすなわち吉松墜道の地なり。
御笠川の流れる欠堤部には 大正13年(1924)4月に開通した九州鉄道の御笠川橋梁が架かるのみであった
昭和17年(1942)に 九州電気軌道・福博電車・博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道と合併し西日本鉄道となった
当所は 文政4年(1821)に著した奥村玉蘭の筑前名所図会による挿絵でも すでに欠堤となっており
水城がその役割を終えた後の中世以降に大々的に取り除かれたものとされ 河川氾濫などによる土塁崩壊や
河川の自然浸食など自然にまつわる崩壊説が大半であった 高速道やバイパス工事に伴う発見や発掘においても
土塁際で13世紀以降に流水があったことが判明した しかし土塁延長線上の橋脚工事現場で人頭大の石敷が
発見され 現在では御笠川の治水用水工事による「洗堰」の設置が想定されている 石敷き上層の砂礫からは
古いものでは8世紀代の須恵器や瓦などが出土しており より早い時代に欠堤となった可能性も出てきた
欠堤部には 昭和48年(1973)12月に国道3号バイパスが 昭和50年(1975)3月には高速九州道が開通した
水城東門を通る太宰府から那ノ津に至る古代官道 中世から近世では博多から太宰府天満宮への参詣道である
宰府道や日田往還となった また水城は大宰府との境でもあり 来訪者を出迎え 帰京者を見送る場でもあった
万葉集には 京より赴任していた大伴旅人が京へ帰る際に 太宰府での伴侶であった児島の見送りをうけ
児島が詠んだ惜別の二首の歌に『 ますらをと 思へる我れや 水茎の 水城の上に 涙拭はむ』と詠み返した
意は「ますらおと思う私が この水城の上で涙をぬぐうことです」である
同じように筑紫館(鴻臚館)から来訪する使者を 上級者が西門まで出迎え見送ることも通例であった
水城東門跡
水城の東西端には門が設けられました。 ここはその東門跡で、都から大宰府への玄関口でした。
大宰府に赴任する官人たちは、水城の門で出迎えを受け、また送り出されました。
実際、寛弘2年(1005)に大宰大弐として赴任した藤原高遠は、水城で大宰府の印と鍵を受けとり、
また、天平2年(730)に大宰帥大伴旅人が帰京した時は、水城で役人たちに見送られています。 東門は、
藤原高遠の和歌に「岩垣の水城の関」と詠われていることから、門の両側には石垣が築かれていたと考えられます。
その後、寿永2年(1183)までは、門が存在したようですが、元寇のことを記した『八幡愚童訓』には、
礎石があるのみと記され、13世紀後半には、門は無くなっていたことがわかります。 その後も
ここは交通の要衝であったことから、大きく改変され、江戸時代には街道脇に礎石が1個残るのみとなっていました。
平成26年(2014)に一部発掘調査を行いましたが、撹乱されており、門の遺構は残っていませんでした。
しかし、門外の脇に造られたと推測されるL字形に曲がる溝が確認されたことや土塁との位置関係などから、
門は礎石があるこの付近にあったと推測されます。
右奥から1.発掘調査で見つかったL字形の溝の位置 2.鬼の硯石と呼ばれ江戸時代から知られていた礎石
3.大正11年(1922)8月建之の史蹟水城阯の石碑 4.昭和43年(1968)に水道工事で市道位置から
発見された円形の柱座のある礎石 5.平成26年(2014)の調査で複数見つかった石で石垣に使われた可能性もある
発掘調査では 礎石が江戸時代末期の地層上にあり また官道方向に対して礎石の向きが異なることから
古代の位置から移動されたこととされ 平成28年の整備では礎石の向きを本来の方向にに据え直した
江戸時代から『筑前国続風土記』などの地誌にこの礎石のことが記され 『筑前名所図会』には挿絵と共に
「東の方大路の傍に、門の礎一つ残れり、是を俗に鬼の硯石といふ」と記されている
水城のライン上 直線距離15.86kmに脊振山頂があり 航空自衛隊レーダーと航空自衛隊脊振山分屯基地がある
14:40 国分尼寺跡
天平3年(741)聖武天皇は鎮護国家・五穀豊穣を祈るため 諸国に国分寺・国分尼寺建立を命じた
尼寺は正式名称を「法華滅罪之寺」といい 尼僧10人と規定された ここは筑前国の国分尼寺があったと
伝えられるが 今はわずかに田圃の中に礎石が一個残るのみであった
現在 礎石は国分共同利用施設(福岡県太宰府市国分3丁目17-6)に移設されている
福岡県太宰府市国分4丁目13 筑前国分寺跡
天平13年(741)聖武天皇は天然痘の流行や飢饉・内乱など度重なる災いを憂い 国家鎮護のため
全国に国分寺と国分尼寺を建立し七重塔に経典を納める詔を出した 筑前国分寺の正確な創建年代は不明だが
文献史料から九州内の他の国分寺よりも先行して建立されたと考えられている
発掘調査によって 現・国分寺の場所に金堂があり 金堂と中門をつなぐ回廊の内側に七重塔 金堂の背後に講堂が
それぞれ配置され、その外側に約192m四方の範囲で塀がめぐっていたことが明らかになっている
四王寺山麓に建立された国分寺は遠くからも望むことができた なかでも際立つ高さの七重塔は
「国の華」である国分寺の象徴的存在といえる 当地から東へ徒歩3分の太宰府市文化ふれあい館の屋外には
かつて筑前国分寺に建っていた七重塔を精巧に復元した縮尺1/10の模型がある
昭和52年度(1977)の発掘調査の結果から、建物遺構は2期にわけられる。
第1期遺構
基壇上部が大きく削平され、しかも基壇の西側部分がカットされているため基壇規模を直接知り得ないが、
基壇南辺中央階段および北辺階段の中心を結んだ線を折り返すと約34mになり、また階段の幅及び礎石根石下に
配された環状配石から推定すると7間×4間の四面庇建物になる。
整備はこの一期遺構を平面復原したものである。 礎石は大部分紛失しているため一応3個だけ配した。
第2期遺構
第1期講堂壇を南に約18mずらしている。 その他の平面規模等についてはわからない。
この社は、3本のムクノキの巨木で形成されており 1号木は樹高18.3m・幹周4.8mの市内最大のムクノキで
福岡地方でも最大級の大きさを誇る 2号木は樹高18.7m・幹周3.7m 3号木は樹高15.1m・幹周2.45mで
道に覆い被さるように傾き繁茂している ムクノキの根元周囲には ヤブツバキ・ネズミモチ・クスノキ
シロダモ・サカキ・シュロ・ツツジ・シャリンバイなどが生育している
それらも含めてこの杜全体が天然記念物として保護されている
この杜については 明治初期の『福岡縣地理全誌』に 「若宮神社 村ノ東一町許林中ニアリ。石祠。 三尺四面。
樹ノ枝ヲ取レハ。 祟アリリトテ。 里民恐ル。」と記され、近くの国分天満宮の祭りなどに枝を用いる以外は、
人の手がほとんど加えられることのない森であったと考えられている
若宮神社の石祠
ムクノキの根元にある小さな祠は 若宮神社と呼ばれ その石扉には享和4年(1804)建築の陰刻があり
寛政10年(1798)の『筑前国続風土記附録』や文化3年(1806)の 『太宰府旧蹟全図北図』にも若宮神社の名が
見られる 市内には石祠を本殿とする神社が多くあるが その中で年号が記された石祠では市内最古のものである
また 石祠の前にある礎石は 筑前国分寺跡のものが移されたと考えられている
聖武天皇の詔により建立された国分寺と国分尼寺は 北は出羽国から南は薩摩国に至る68ヵ国に建てられたが
律令体制の衰退と共に全ての国分寺・国分尼寺が廃寺となった 現在も残る50寺余りの寺院は
後に再興されたもので 多くの寺院は当初の法華宗ではない宗派となっている
八角燈籠は近年の作で 総国分寺の奈良東大寺金堂前の銅製八角燈籠をモデルに八女燈籠の技法により制作
水城跡第2広場駐車場 15:30 到着 全行程所要時間:3時間50分 歩行距離:8.6km