2018.11.29 滋賀県彦根市金亀町 彦根城

徳川家譜代大名のうち 本多忠勝・榊原康政とともに徳川三傑と呼ばれた井伊直政が
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのあと 上野高崎12万石から18万石に加増され近江へ移封となった
直政は石田三成の居城であった佐和山城に入り佐和山藩が立藩されたが 三成の居城であったことなどを嫌い
米原にある標高160mの磯山に新城を計画したが 関ヶ原の戦傷がもとで慶長7年(1602)に没した
嫡男直継が家督を継いだが幼少であったため 井伊家の家老・木俣守勝が家康と談判して直政の遺志を継ぎ
磯山の南2.8kmにある彦根・金亀山(こんきやま)に築城することを決め 慶長8年(1603)に普請を始めた
築城は天下普請となって公儀奉行3名が付けられ 幕府は尾張藩や越前藩など12大名に手伝い普請を命じた
慶長11年(1606)に第二期までの工事が完了し 天守完成を待って直継が入城した
元和2年(1616)からは彦根藩独自の普請が始められ 元和8年(1622)に御殿を含む彦根城が完成した
彦根の名は 天照大神の子・活津彦根命(イクツヒコネノミコト)が金亀山に祀られていたことに由来し
新しい城は「彦根城」と名付けられ 藩名も佐和山藩から「彦根藩」に改名して三成の縁を消し去った

直継が暗愚であったため人事などには家康の介入を必要とした
また藩の政務は家老が執り行ったが家内の対立が深刻になった
慶長19年(1614)の大坂の陣では 家康が病弱で暗愚な直継に代えて次男の直孝を井伊家の大将に指名し
大坂の陣後 功績を上げた直孝に井伊家の家督を正式に継がせた
直継には 上野国の安中(群馬県安中市)3万石を分知し安中藩を立藩させた
このことで 直継は彦根藩(佐和山藩)二代目ではなく初代上野安中藩主となり 直孝を彦根藩二代目とした
幕閣の中枢となった直孝に対し 元和元年・元和3年・寛永10年の3度にわたり
それぞれ5万石の加増がなされ30万石の大大名となった
更に天領の米預かりとして5万俵(5万石)を付与され35万石の格式を得るに至る

譜代大名であっても転封を繰り返す江戸時代であったが 井伊家は以降転封もなく石高も譜代中最高を誇った
明治に入り各地の城は廃城令で破壊売却され 彦根城天守も明治元年に700円で落札され解体寸前であった
しかし 明治11年10月に明治天皇が巡幸で彦根を訪れた際 城の保存を命じたため破却を逃れたといわれる
天皇に保存を奏上したのが ともに随行していた大隈重信という説と
天皇の従妹・かね子様という二つの説がある
天皇の勅語により廃城令に伴う破却を免れ 姫路城をはじめ天守が現存する国宝五城の一つに数えられている
天守と附櫓及び多聞櫓の2棟が国宝に指定されるほか 安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し
中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少で これらすべてが国の重要文化財に指定されている
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彦根城観光マップ
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昭21年(1946)米軍撮影空中写真
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佐和口の表門橋
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表御殿の堀石垣
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二季咲き桜 昭和47年に友好都市の水戸市から寄贈 冬と春に咲く
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玄宮園の塀
黒門橋から内堀
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西の丸 黒門口
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西の丸から伊吹山遠望
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西の丸 山崎口
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西の丸三重櫓
かつて城内には天守のほかにも2棟の3階建物があり そのうちの1棟が現存する西の丸三重櫓で
もう1棟は城の北端にあった山崎曲輪の三重櫓であったが 明治初年に取り壊されてしまった
西の丸三重櫓は 本丸に隣接する西の丸の西北隅にあり
さらに西に張り出した出曲輪との間に設けられた大堀切(空堀)に面し築かれている
大堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立ち
櫓の一層目は 西と北側にL字型に張り出す続き櫓になっており 西の搦手方面からの敵に備えた要であった
この櫓は浅井長政の居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えがあるが
昭和32年の解体修理では 柱や梁などの八割近くが 嘉永6年(1853)に行われた大修理によって
取り替えられたものと判明したが 階段の床板や側柱などに移築転用を思わせるほぞ穴痕が残っていた
しかし小谷城の材であったかは不明のままである
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西の丸三重櫓から西・琵琶湖遠望
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南・天守側の展望
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西の丸 今の時期は紅葉が綺麗 春は桜の名所でもある
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漆喰壁の剥落は台風被害のよう
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本丸広場 「ひこにゃん」登場
彦根城天守
かつて本丸には 藩主御殿の御広間・宝蔵・着見櫓などが建っていたが 今に残されたのは天守のみである
3重で規模は小さいが 切妻破風・入母屋破風・唐破風の多様な屋根を重ね 2・3階には花頭窓を設けている
なおかつ最上階には高欄付廻縁を巡らせるなど外観を重視した美しい姿となっている
構造は通し柱を用いず各階ごとに積み上げていく建築方式をとり
基本的には 下層を成す櫓の上に高欄付の望楼を乗せる古い建築様式を踏襲している
昭和32年から行われた解体修理によって 慶長11年(1606)の墨書のある建築材が発見されたことや
その他の史料から総合的に判断すると 建物の完成が慶長12年(1607)頃であろうと推定される
また建築材を詳細に調べた結果 もとは4重5階建ての建築物を移築したものであることも判明した
井伊家の歴史書である『井伊年譜』に「天守は京極家の大津城の天守也」という記載があり
安土桃山時代の天正14年(1586)に完成した大津城の天守を移築したとも考えられている
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西・琵琶湖展望
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北東の展望
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南東の展望
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太鼓門櫓(城門建築物を移築・元の城は不明)
時報鐘 弘化元年(1844)鋳造
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天秤櫓
この櫓は 京橋口の大手門と佐和口の表門からの道が合流する位置に築かれた櫓で 防御の要衝であるため
大手門山道と表門山道を睨む形で 門の左右隅に2階建ての櫓を設け「コの字形」に建てられている
正面から見ると荷物を下げた天秤のように見えることから 江戸時代から天秤櫓と呼ばれていた
櫓下の道は 鐘の丸から天守へと伸びる細長い尾根を掘り下げた切り通しの「大堀切」とばれる空堀で
橋が架けられている この橋を落とせば本丸への防御は固く 戦闘時にこの櫓が果たす役割は重要であった
櫓が築かれたのは築城開始の数年後とされ 『井伊年譜』には長浜城の大手門を移築したと記されている
昭和32年の解体修理で移築されたものであることは確認されたが 元長浜城大手門とは断定出来なかった
約400余年にも及ぶ永い間に幾度か修理を重ねてきたが
特に幕末の動乱期を迎えた嘉永7年(1854)の修理は大規模で 建物のみならず石垣まで積み替えているのは
安政5年(1858)に藩主直弼が大老に就き 開国を推し進め 反対派を弾圧し
それによって 安政7年3月3日に江戸城桜田門外で暗殺された当時の世情を反映したものと思われる
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天秤櫓から見る彦根城「鐘の丸」
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天秤櫓 一階内部
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釿(ちょうな)痕が美しい櫓の小屋組と柱
現代のカンナを代表する台鉋は明治以降に西洋から導入されたもので 江戸時代まで「ちょうな」が使われていた
釿(ちょうな)は石器時代から存在し ノコギリが発明される以前は製材にも使われていた
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大堀切から見上げる天秤櫓
橋から右側の高石垣が築城当初の「打ち込みハギ積み」左手が幕末に積み替えた切石の「落し積み」
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カモのお散歩
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観光客があまり来ない大手橋付近
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上溝桜(ウワミズザクラ)の紅葉
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大手門橋
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家老 西郷屋敷跡長屋門
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京口門跡
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彦根城下町 夢京橋キャッスルロード
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12:00 彦根城を出発して五個荘金堂の町並みへ
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