2018.11.29 滋賀県彦根市金亀町 玄宮楽々園

国の名勝「玄宮楽々園」は 国の特別史跡「彦根城跡」にある旧大名庭園の「玄宮園」と
隣接する井伊家の下屋敷であった「楽々園」を統合した名勝地である
元々は重臣・川手主水の屋敷であったが 大坂夏の陣で主水が死亡し空家となった跡地を整備して
寛永元年(1624)頃に下屋敷を建設したと伝わる
続く延宝6年(1678)に4代藩主の井伊直興が 下屋敷を整備し庭園を築造したといわれ その後
江戸後期の文化10年(1813)第11代藩主・井伊直中の隠居屋敷として改築され ほぼ現在の姿となった
庭園は 天守を借景として池に4つの島と9つの橋が架けられ
池畔には臨池閣・鳳翔台・八景亭などの建物が配置された
今は堀で囲まれる形となっているが かつて北側は内堀と点在する島を隔て松原内湖と
琵琶湖の入江に続いており 庭園北側の水門から舟で琵琶湖まで出られるようになっていた
江戸時代の下屋敷は 槻御殿や黒門外御屋敷と呼ばれ
御書院・地震の間・楽々の間・雷の間・新東西の間や鳰の間などの江戸後期の数奇屋建築が現存する
明治以降「楽々の間」から「楽々園」と呼ばれるようになり
第二次大戦前まで庭園と御書院の間に池が広がっていたが 埋め立てられ枯山水の庭となって景色が分離された
その後 下屋敷側を「楽々園」に 池を中心とする庭園部分を「玄宮園」と名付けたと思われる
玄宮園の由来は 築造に際し参考とした庭園が 中国の洞庭湖にある玄宗皇帝の離宮庭園とされることに因む
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明治26年測図大正9年修正測図「彦根西部」他合成 北側の松原内湖と入江に続く様子が解る
1.彦根城 2.玄宮楽々園 3.佐和山城
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井伊家伝来 玄宮園図
第11代藩主・井伊直中が隠居した後 文化10年に整備された最盛期の様子が描かれている
彦根城博物館所蔵 http://hikone-castle-museum.jp/collection/1683.html
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龍臥橋
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琴橋
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高橋
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茶席「鳳翔台」前の紅葉
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臨池閣
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中堀と水門跡
かつては松原内湖と琵琶湖の入江に続いており 船で琵琶湖に出ることが出来た
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中堀
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魚躍沼(ぎょやくしょう)と鳳翔台・臨池閣・楽々園書院
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高橋
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彦根城天守
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槻御殿(けやきごてん)
第4代藩主・井伊直興が延宝5年(1677)に着手し、同7年に完成したもので、下屋敷として築造され、
木材は規(ケヤキ)でその華麗さは各大名も驚嘆したものである。
大老・井伊直弼は、文化12年(1815)10月29日ここで生まれた。これらの建物は数棟の東屋よりなり、
今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、往時のおもかげをとど めている。
第12代藩主井伊直亮が文化年間(1804〜1817)に楽々之間を増築して以来、槻御殿という正式の名よりは
むしろ楽々園の名のほうが有名になった。
楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」の意からとったといわれ、
民の楽を楽しむという仁政の意をもっているともいわれている。
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御書院
手前の芝生は 元は蓮池であったが第二次世界大戦頃に埋め立てられた
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七間橋
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棟瓦・檜皮葺の屋根
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茶室・地震の間
文化11年(1814)頃の建築と推定され建物の構造に特徴がある
軽量化を図るため屋根には薄い柿の板材を使用した板葺きとなっており
また建築規模に比べ柱の足元には強固な足固めが回されている
これらの造作により建物の重心が低くなり なおかつ小屋裏には筋違いがある
文政2年6月12日(1819年8月2日)に M7.3程度の大地震がありその経験から耐震化が図られたと見られる
完成後の文政13年には 京都で二条城などが損壊する地震があった
これらの耐震構造に因み 後に「地震の間」と呼ばれるようになったと思われる
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御書院 入母屋の妻
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楽々園から彦根城に向かう
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