2019.10.29 石見銀山・大森の町並と銀の積出湊・鞆ヶ浦

銀山師や人夫などが暮らす寒村であった大森が発展するのは 江戸時代に入ってからのことである
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は 時を移さずその年の慶長5年(1600)10月には石見銀山の接収のため
石見銀山検分役として大久保長安と彦坂元正を下向させた 家康は江の川以東の邇摩・安濃・邑智・那賀郡の
4郡146か村および美濃・鹿足郡に設けた6か村の飛地を幕府直轄の石見銀山領(4万8千石)とし
翌慶長6年8月に大久保長安を銀山奉行として任命した 大久保長安は山吹城の下屋敷があった吉迫口に
陣屋を置き支配を行ったが 慶長18年(1613)に長安が死没し竹村源兵衛が二代目銀山奉行に任命された
奉行となった竹村丹後守源兵衛は かねてより長安が構想していた邇摩郡大森村を銀山支配の拠点とし
城神神社西隣りの銀山川に臨む場所に大森陣屋を建て 隣接する勝源寺に東照宮を勧進した
大森の陣屋町は 約3kmの細長い道の両側に整備され寛永年間(1624〜1644)に最盛期を迎え発展するが
その後銀産出量は次第に減少し 延宝3年(1675)に銀山奉行は廃され代官職に格下げされた
寛政12年(1800)大火によって大半を焼失したが 再建に際し防火のため代官所から茅葺禁止の達しが出され
 建物のほとんどが その当時から普及し始めた耐寒耐久性にすぐれた石州瓦葺きで再建された
今日まで残された大森の古い町並みの殆どは 寛政大火から数年間に建設されたものと考えられる
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大森の町並み
北側に代官所と上級武士などの役宅 南側に町家を配し そのまた南側に銀山地役人の役宅が並ぶ
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羅漢寺への三叉路から龍源寺間歩の方向
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代官所跡まで僅かな下り道となっている
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株式会社 石見銀山生活文化研究所 群言堂本店のオブジェ
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電気メーターの木製ボックス
濡れ縁の花
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曹洞宗 雪厳山 栄泉寺
開山開基は慶長元年(1596)当初は禅道場であった 現在の本堂は文化4年(1807)に再建されたもの
竜宮門と呼ばれる山門は 嘉永6年(1853)に画僧の仏乗禅師が再建したもので
日光にある徳川家光の廟所・大獣院の皇嘉門に姿が似ているため 代官から取り壊し命令が出たが
仏乗禅師が本山の永平寺を尋ねて留守中であったため 山門に筵をかけ板囲いをして通行止めとした
このような状態のまま幕末を迎え徳川の治世が崩壊し取り壊しの災難を免れたと伝わる
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真言宗 石城山 観世音寺の岩山から見る南側の蛇行する町屋の並び
観世音寺は大森代官所の銀山隆盛祈願寺であった 寛政の大火で焼失したが万延元年(1860)に再建され
現在は本堂・山門・鐘楼が残されている
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2010.5.31 撮影
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北側の代官所や上級武士などの役宅が並ぶ直線的な地割りの町並み
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2010.5.31 撮影
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理容館 アラタ
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直線的な地割りと平坦な役所武家町筋
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町家方向は上り道
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国の重要文化財 熊谷家住宅
鉱山経営で財を成し 酒造業や御用商人も努めた 部屋数30・5棟の蔵を持つ大森最大の豪商
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14:00 潮が引くように観光客の姿は消える
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羅漢町橋 2010.5.31 撮影
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幕末から明治の頃に架けられた石アーチ橋
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羅漢寺(手前側)に至る道
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五百羅漢の石橋 2010.5.31 撮影
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三ヶ所ある五百羅漢洞窟
五百羅漢は 元文年間(1736〜1740)から始まったされる
ある日 大森代官所同心の中場五郎左衛門定政が観世音寺に参詣し 石造十六羅漢を拝み 当時住職だった
月海上人に「羅漢像を五百体並べれば壮観であろうと」と話したことがきっかけとなったと伝わる
代官や代官所役人等の寄進によって始まったが 銀山で命を落とした堀子達の供養と冥福及び済世治民を祈り
石見銀山領内を始め他藩から果ては中国一円を巡って浄財を募ったが思うように資金は集まらなかった
宝暦5年(1755)9月に五百羅漢造立の幹事を預る月海上人の弟が病没し
翌年には発起人の中場五郎左衛門定政も死亡した その後は大森の町役人であった河北甚右衛門や
銀山付役人の中山荘兵衛門によって再開された 荘兵衛門が 羅漢像の安置場所と羅漢寺の建設地として
所有地を寄進し 寺の建立費用も寄進した 宝暦12年(1762)川崎平衛門定孝が代官として着任すると
五百羅漢造立に熱意を示し 自らも三体の像を寄進したうえ江戸湯島の霊雲寺の光海上人に援助を請い
田安家や江戸城本丸・大奥など江戸城下から204体分の寄進を受けた 一方地元では 五百羅漢を拝観すれば
死んだ父母や近親者に会えるという噂が広まり 善男善女が近郷近在から集まり賑わい
豪農や各村が羅漢像を寄進したといわれ 漸く明和3年(1766)の3月に完成された
発起から30年近い月日が流れ 月海上人は五百羅漢の完成を待たず 宝暦9年(1759)10月2日
自ら住職となった羅漢寺で没した 羅漢像のすべては 温泉津の石工・坪内平七一門の手により彫られた
島根県大田市仁摩町馬路 鞆の浦
鎌倉時代末期に発見され忘れ去られていた石見銀山を 大内氏支配の戦国時代に再開発したのは
博多商人の神谷寿禎であった 当時掘り出された銀は 日本海を博多まで船で運ばれ
博多から海外貿易によって世界へと輸出された
そのため 大内氏支配下にあった邇摩郡馬路村の鞆ヶ浦が 天然の良港として積出港に選ばれた
後に大内氏の支配から離れ銀山は毛利氏の支配へと移り 政情が安定するとともに銀の採掘生産が活発化し
湾の入り口が狭く浜も狭い鞆ヶ浦は不便となり 南側の温泉津・沖泊が積出港として使われるようになった
銀の積出港としての役目を終えた鞆ヶ浦は 半農半漁や製塩を営む漁村となった
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口屋峠から鞆の浦までの銀山街道
1.口屋峠 2.新馬路トンネル 3.国道9号線 4.山陰本線踏切 5.鞆ヶ浦 6.琴ヶ浜駐車場
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背後の集落から見る鞆の浦
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石見銀山世界遺産センターサテライト私設 鞆館(ともかん)
江戸時代末期の建築物で 明治・大正期の特徴的な民家を再現し 鞆ヶ浦の成り立ちや産業について解説
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鵜の島に渡る橋は工事中で通行止め
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鵜の島
神谷寿禎が天文4年(1535)に弁財天を勧請した鵜島厳島神社がある
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戸数25棟ほどの魚村
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船の艫綱を結びつけた鼻ぐり岩
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琴ヶ浜と松ヶ鼻
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琴ヶ浜
延長1.6km 鳴き砂で有名 日本の音風景100選と日本の渚百選に選ばれる
壇ノ浦の戦に敗れこの地に流れ着いた平家の姫が 村人に助けられたお礼に毎日琴を奏でていた
その姫が亡くなると村人たちは大いに悲しんだという それから砂浜が琴の音のように鳴くようになった
村人たちは姫の魂がこの浜にとどまって 自分達を慰め励ましてくれているのではと思い
この浜を「琴ヶ浜」 姫を「琴姫」と呼ぶようになったと伝わる
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山陰の海は綺麗だ
時刻は午後3時 帰路につく 今日は萩市の「道の駅 ゆとりパークたまがわ」で車中泊
距離は101km 時間にして約2時間の距離である 明日は九州へ帰る
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