2019.10.29 常清滝と石見銀山・龍源寺間歩

「やはり」というか「いつもどおり」道の駅 ふぉレスト君田を 予定していた午前8時よりも早く出発した
車中泊では朝寝は出来ない なので道の駅 ゆめランド布野に寄ってみる
ふぉレスト君田からゆめランド布野まで車で12.3km 三次からは出雲街道(石見銀山街道)を通り
布野宿までは約三里の道程である 布野から作木(さくぎ)の常清滝(じょうせいだき)に向かう
広島県三次市作木町下作木 常清滝
広島県内唯一の「日本の滝百選」に選ばれている落差126mの名瀑である
江の川の支流・作木川のさらに支流・常清川にかかる滝で 県道65号庄原作木線の滝見橋からも遠望できる
滝の周辺は広島県自然環境保全地域に指定され ケヤキ・アベマキ・コナラなどの広葉樹で覆われている
中国山地の形成は 約1億年前の中生代後期の白亜紀に アジア大陸の東縁でマグマが上昇し
造山活動が激しくなって日本列島の陸地が隆起し同時に山地も形成された
その後 約8千万年前頃の中生代白亜紀中期には火山活動が激化した
滝は このとき噴出して中国山地を広く覆ったとされる流紋岩の断崖にかかっている
三段の滝で 上部を荒波の滝(36m)中部を白糸の滝(69m)下部は玉水の滝(21m)と命名されている
常清川の流域面積が狭く水量が少ないため 100m以上の落差がありながら滝壷は無いに等しい
しかし 一旦雨が降ると激しく増水し迫力が増すといわれる
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08:22 駐車場から徒歩で約600m 滝見台からの全景
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上段 荒波の滝
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中段 白糸の滝
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滝壺から全景
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下段 玉水の滝
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見上げる上段の「荒波の滝」
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08:40
常清滝から国道375号線を通り美郷町別府から石見銀山の標識に従い左折して県道に入り
島根県大田市大森町の石見銀山公園駐車場まで 48.2km・約1時間の道程である
石見銀山
鎌倉時代末期に発見され当初は露天掘りされていた 大内氏支配の戦国時代に博多商人の神谷寿禎が再開発し
大永6年(1526)銀峯山(仙ノ山)の中腹の間歩で銀を掘り出し その後天文年間に採掘が本格化し
戦国時代の後期から江戸時代の前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山であった
貿易が始まる中世から近世まで世界の通貨は銀であった 銀を大量に産出できることで体外貿易にも寄与した
最盛期には全世界の約1/3の銀を日本が産出していたと推定されており 世界で流通する銀の大半を
南米のポトシ銀山と日本の銀山だけでまかなっていたとされる
そのうえ日本で産出される銀のうち 石見銀山が産出量のかなりを占めていたと考えられている
江戸時代初期は佐摩銀山と呼ばれ 後に大森銀山とも呼ばれ活況を呈したが 江戸時代末期には
銀鉱石が枯渇し採算が取れなくなった 明治以降は枯渇した銀に代わり銅などが採鉱されたが
昭和18年(1943)坑道の水没により完全閉山となった 昭和42年(1967)「大森銀山遺跡」として
島根県指定史跡に指定され 昭和44年(1969)には「石見銀山遺跡」として国の史跡に指定され
また 大森の町並みは昭和62年(1987)に 重要伝統的建造物群保存地区に選定された
閉山以降も採掘権はDOWAホールディングスが所有していたが ボーリング調査などの結果
採算に見合う鉱脈は無いと判断され 平成18年(2006)すべての権利が島根県に譲与され
石見銀山の保存が町並みから間歩(坑道)を含む広域に拡大され本格化た
世界遺産への登録は 平成13年(2001)に世界遺産登録の「暫定リスト」に掲載したことから始まる
平成18年(2006)にユネスコ世界遺産委員会に推薦書を提出したが 2007年5月にユネスコの諮問機関である
国際記念物遺跡会議(ICOMOS)から 顕著な普遍的価値の証明が不十分であるとして
登録延期が妥当の勧告を受け 政府や地元は 世界遺産への登録は極めて厳しいとの判断を下したが
ユネスコの日本代表部は 勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送り 委員会構成国の
大使や専門家に対するロビー活動を強めた 石見銀山の特徴といわれる「山を崩さず森を伐採せず
鉱脈に沿って狭く細い坑道を掘り進めていくという 環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介した結果
「21世紀が必要としている環境への配慮」が数世紀も前にこの場所で行われていたことが反響を呼び
平成19年(2007)6月28日 世界遺産委員会において満場一致で登録が決定された
日本の世界遺産登録としては14件目であるが 産業遺産としては国内及びアジアで初めての登録となった
しかし世界遺産への登録に対し 海外ではその価値が疑問視され 日本が登録を勝ち取るため
外交官をも巻き込む金銭を惜しまない凄まじいロビー活動を展開したことなどを伝える報道が相次いだ 
大森地区は1970年頃まで廃屋が建ち並ぶ寒村であったが 地元企業家によって観光化を目的に再生された
街並景観であることや 銀山奉行が馬に乗ったまま巡視が出来た大規模な大久保間歩が存在するなど
日本の主張に見合わない矛盾などがあるのも事実である
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龍源寺間歩
石見銀山では 私設の自分山も含め現在900ヶ所以上の間歩が発見されている 龍源寺間歩は代官所直営の
御直山(おじきやま)で 全長は約600mあり そのうち栃細谷(とちばたけ)新抗を含む約270mが
常時公開されている コースは途中から栃細谷新抗を通り出口に向かう一方通行の通り抜けとなっている
山ひとつ隔てた東側にある大久保間歩も 3月から11月の金・土・日・祝日に限定ツアーで入坑可能だが
参加費 3700円で 用意されたヘッドランプ・ヘルメット・長靴の着用が必須となっている
なお 駐車場から龍源寺間歩まで 2.3kmあるが 観光公害を防ぐ意味で車の乗り入れは禁止されている
貸自転車もあるが復路は遊歩道を通りたいので歩くことにする 坑道内と往復の道程を合わせると約6km
大森の集落内散策を含めると 8km以上の徒歩となる 観光地としての魅力が乏しいことと
この歩行距離がネックとなってリピーターも少なく観光客は激減しつつある
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龍源寺間歩への道は狭くバスの通行は無理 よって団体客はあまり間歩まで足を伸ばさない
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浄土宗 極楽寺
参道の十王堂
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極楽寺は永禄3年(1560)に創立された古刹
昭和14年(1939)の大火で全焼 本堂にあった螺鈿の豪華な天井も消失した
天井の広さは16畳 黒漆の網代天井に枝垂桜・枝垂れ柳・桐・鶴亀・菊花などが螺鈿で描かれていたと伝わる
火災の後は 安立寺に併合され今日に至る
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山吹城址・鞆ヶ浦道登山口
山吹城は 天文年間に大内義隆が銀山守護の拠点として標高414mの要害山上に設けた城で
銀山開発初期の頃 日本海にある鞆ヶ浦が積み出し湊として利用され 鞆ヶ浦へ至る道の警護も兼ねていた
大森より鞆ヶ浦までは7.5kmあり 山吹城へ向かう吉迫口に番所を設け街道の起点とした
大森より要害山北側の峠を越え柑子谷に下り 川沿いを北上して仁摩・大国の三叉路を西へ取る
再び細道を登り山を越えて上野集落へ出て 高山の北を通り標高293mの口屋峠を越えると西谷集落に至る
原井戸から城上山の北麓を通り 山陰高速道の新馬路トンネルの上を越えて国道9号に出て
町道に入って踏切を渡り鞆ヶ浦に出るが 線路と国道の工事によってこの辺りの古道は破壊されている
全行程に道路標識も整備されているが 草が繁茂する夏場の歩行は 道も分かりにくく困難であるが
グーグル・マップのストリートビューで辿ることも可能であった
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龍源寺間歩を経て温泉津の沖泊湊に至る銀山街道
当初 産出した灰吹銀は鞆ヶ浦から積み出していたが 後に温泉津の沖泊湊に移された
しかし冬の日本海は季節風が強く搬送に支障をきたすことが多かった 初代銀山奉行となった大久保長安は
大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内の尾道へ至る「銀山街道」を整備し 途中に粕淵・九日市・三次
甲山・御調の宿駅を設け 尾道湊から京都伏見の銀座へ輸送するようにした
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国指定史跡 石見銀山御料銀山町年寄山組頭遺宅 高橋家
文献によれば天保10年(1839)ごろ、当家の高橋富三郎が町年寄山組頭を勤めたことが分かっている。
山組頭は代官所と鉱山経営者である銀山師たちとの取次などを勤める役職で銀山師の中から選ばれた。
また、町年寄は周囲に拡がっていた銀山経営に携わる人たちが住む町の運営に係る役職であった。
建物は通りに面して主屋があり、北側に茶室、南側に離れ座敷を設けている。
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龍源寺間歩を抜けて出口から歩道を下ると右の橋に出てくる
龍源寺間歩
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竪坑(排水坑)
狭い枝坑道
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鍾乳石のようになった柱
出口の掲示板
今皆さんが歩いてきた坑道の白色~灰色の岩石は、石英安山岩と呼ばれるものです。
この岩石の表面には、割れ目(断裂・クラック)が同じ方向に何本もあります。
その幅は、数mmから数mとさまざまです。今から百数十万年前、この割れ目に沿って熱水が通過することで、
銀、金や銅といった金属が蓄積されました。このように岩石の割れ目に沿って金属が蓄積された鉱床を
「鉱脈鉱床」と呼んでいます。
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かおり本舗 中村屋
河童を見かけても餌やりは禁止
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修理中の佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)
主祭神は金山彦命(日本書紀:金山彦神)
さひめ山は三瓶山のことで 元の古名とされるが 古代出雲や物部氏の信仰に関係が深いため
神亀3年(726)に朝廷によって三瓶山に改名させられた経緯がある
佐毘売山神社は別名山神社といい 銀山の鉱夫や里人からは「山神(さんじん)さん」と呼ばれていた
元々は 金山姫・埴山姫・木花咲耶姫の三女神を祭った姫山神社であったとされる
室町時代の永享6年(1434)将軍足利義教の命により 大内氏が益田から金山彦命を勧請し大山祇命も合祀し
五社大権現と称したという説 また 大内氏によって戦国時代の大永年間に建立されたとの二説がある
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自分山の福神山間歩
新切間歩

福神山間歩は 山師個人が経営する自分山であったが 江戸中期の一時期に代官所直営の御直山になった
自分山は 享保14年(1730)に55ヶ所もあったが 天保15年(1844)には9ヶ所となり
御直山の数は 同年には23か所まで増えている この数字から銀の産出量が減少するとともに
幕府が自分山の経営権を没収し直営化を進めていたことがわかる
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遊歩道(旧道)を歩いて帰る
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石見霊場第七番 真言宗 銀峯山(ぎんぷせん)清水寺(せいすいじ)
推古天皇の時代 仙ノ山(銀峯山)の山頂に創建された古刹で天池寺と称した
延暦17年(798)に清水谷に移転し清水寺と改名 江戸時代末期に仙ノ山中腹に再度移転
明治22年(1878)に現在地に移転し今に至る
戦国時代の大永6年(1526)3月 闇夜に沖合を船で通りかかった博多商人の神谷寿貞(かみやじゅてい)が
はるか陸地に輝く霊光を見る 船頭に聞くと「あの山は銀峯山といい 観音霊像を祀る清水寺という寺がある
時々こうした霊光が拝めるが 今夜はいつもより10倍も輝いているのは多分あなたが信心深いからだろう」と
答えた そこで寿貞は近くの温泉津に船をつけさせて清水寺に参拝し帰りに道で白く輝く石を拾った
これが銀鉱だったので坑夫を呼び寄せてそのあたりを掘ったところ 大量の生銀が出て来たとの伝説がある
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清水谷精錬所跡
明治になって江戸幕府による銀山支配が終わり 銀鉱石が枯渇した石見銀山ではごく一部の既存の坑道を利用し
地元民による小規模な経営が行われるようになったが 明治19年(1886)に長州萩出身の藤田伝三郎が起業した
藤田組(現在のDOWAホールディングス株式会社)が採掘権を取得し 大規模な再開発を目指した
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選鉱場跡やシュート跡まで見学道が描かれているが誰も歩いてまで見学に行かない
藤田組は 仙ノ山の南・本谷地区の福石鉱床(大久保間歩の福石場に代表される)の金銀含有率と量に着目し
明治27年(1894)に近代的な製錬所の建設を 20万円の巨費を投じて開始し翌年に竣工した
4月から操業を開始 福石鉱床で採掘された鉱石は 既存の金生坑や蔵之丞坑を拡張した約800mの
トンネルを貫通させ 本谷から清水谷まで運び 選鉱場を経由してトロッコ道で製錬所の最上段まで運搬した
しかし鉱石の品質が予想より悪く また設備の製錬能力も充分でなかったことから不採算となり
明治29年(1896)10月 開始からわずか1年半で操業を停止した
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当時の清水谷精錬所
清水谷精錬所 遠景
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集落の奥には廃屋も多い
銀山大祈願道場碑

銀山大盛祈願道場碑
銀山では鉱山の発展を祈願する場所として 山神社と共に龍昌寺と観世音寺が指定された
石碑の左側面に嘉永二年(1849)の銘があり 大盛祈願の大修法がこの年に行われたことを表す
幕末期には銀鉱石の枯渇が表面化し 銀山の盛況を神頼み仏頼りをしたことがうかがえる
祈祷は毎年正月20日の大般若経転読をもって行われていたと伝わる
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石見銀山代官所地役人遺宅 渡辺家
この建物は代官所の銀山方役所に勤務する銀山附地役人坂本氏の居宅であった。初代清左衛門は石見国出身で、
慶長9年(1604)初代奉行大久保石見守により銀山附地役人として召抱えられ、
子孫は代々銀山の支配に携わった。
通りに面して土塀を廻らせ前庭を設け、奥に主屋を配置する武家屋敷の特徴をよく伝えている。
また大きな改造を受けておらず、大戸口の右手には式台が残されている。座敷は六間取りに裏座敷(小座敷)、
廊下続きに土蔵がある。「旧銀山町(銀山柵内)に残る唯一の地役人の居宅である。
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食事・喫茶「まぶのや」を営むが店休日のようだ
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右奥に見える山は 標高414m・山吹城址のある要害山
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