2017.06.08 山口県長門市油谷後畑 東後畑の棚田

長門市向津具半島にある棚田百選の一つ  眼下に日本海をのぞみ 棚田とイカ漁の漁火によるコラボが有名
全ての棚田をあわせた面積は広いが 小規模の群に分かれており 撮影ポイントが少なく狭いため混雑する
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国土地理院空中写真
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午後7時の撮影ポイントの様子 右側の2/3程度は満足出来るような写真は撮れそうにないのだが
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上記のポイントから混雑前に撮った写真 PM6:09
以下 撮影した写真を時系列に並べる
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PM18:10 池の水面に映る棚田の風景
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PM18:18 展望所に移動 水の入っていない田が目立ち撮影ポイントとしては「イマイチ」
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PM18:23
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PM18:25
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PM18:44
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PM19:00
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PM19:15
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PM19:18
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PM19:37
地元カメラマンの漏れ聞くところでは 漁火の点灯は午後8時過ぎらしい 今日の宿泊地は「道の駅阿武町」
ここから56.6kmあり 時間も迫ってきたので漁火のコラボ写真は次の機会にして現地を離れる

2017.06.09 山口県阿武郡阿武町大字奈古 道の駅・阿武町

阿武町が道の駅発祥の地とするわけ
平成2年(1990)1月に広島市で開催された「中国地域づくり交流会」のシンポジウムにおいて
山口市阿東町・船方農場グループ代表の坂本多旦氏により提案された
「鉄道に駅があるように、道路にも駅があってもいいのでは」という発言がもとになって
平成3年(1991)10月から翌年の7月にかけて 山口県2ヶ所・岐阜県7ヶ所・栃木県3ヶ所の 3地域12ヶ所で
仮設の休憩施設を利用して「道の駅」の実験がおこなわれた この実験施設の内現在も存続するのは
岐阜県の道の駅花街道付知と山口県の道の駅阿武町のみである
その他 昭和63年(1988)に建設省によって設立された新潟市の豊栄道路情報ターミナル(道の駅豊栄)が
発祥とする説 また 平成2年(1990)に「ふるさと創生事業」により設立された島根県掛合町にある
ドライブイン掛合の里(道の駅掛合の里)に 先述の「中国地域づくり交流会」が見学会を実施し
現在の「道の駅」の模範としたためこれが発祥であるという説がある
現在 ひらがなやカタカナで表記する道の駅が多い中で 道の駅・阿武町は町名のみによる名称を維持している
これは 道の駅発祥の地であることについての 阿武町の持つ自負の表れと解釈されている
平成26年(2014)4月 RVパーク道の駅阿武町としてリニューアルオープンし
駅内には 日本海温泉「鹿島の湯」があり レストランも午後9時まで営業しているので車中泊は快適である
前日遅く到着したので鹿島の湯に入れず 午前10時まで時間をつぶし朝風呂とした
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土崎
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女鹿島と男鹿島 正面は大島
国指定史跡 山口県萩市大字紫福大板 大板山たたら
大板山たたら製鉄遺跡は 江戸時代中期から幕末にかけて断続的に操業していた製鉄所跡である
大井川の支流である山の口川の上流部に位置し 日本古来の「たたら吹き」で製鉄していた
たたら吹きとは 炉に砂鉄と木炭を交互に入れ鞴(ふいご)で送風して高温にして砂鉄を溶かし鋼を得る方法で
この溶鉱炉を「たたら」といい 送風することを「吹き」と呼んだんだことから名付けられた
中国山地は 原材料である良質な砂鉄と 炭の原料となる木材が豊富に産出されるため 古代より製鉄が盛んで
特に天秤ふいごが発明された江戸時代になると 中国地方での鉄の生産量は増加し一層盛んとなった
製鉄には大量の木炭を消費するため長期間の操業によって周囲の山を切り尽くしてしまうため
同じ所で長期的に操業することはコスト的に不可能であり 製鉄集団となる「たたら衆」は炭木を求めて移動し
数十年の間隔をあけて山林の回復を待って戻るというサイクルを繰り返す
そのため この長州藩最大と言われる「大板山たたら」では 以下に記す3回の断続的操業があったとされる
宝暦年間(1751〜1764)のうち8年間:大板山の阿川六郎兵衛による操業
文化・文政期の10年間(1812〜1822):津和野の原田勘四郎による操業
安政から慶応に至る幕末期の12年間(1855年〜1867年):石見国の竹原竹五郎による操業
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「大板山たたら」の原料となる砂鉄は 石見国浜田から北前船により海路で阿武郡奈古の港に陸揚げされ
「鉄の道」と呼ばれる陸路を馬による荷駄で大板山まで運搬された
「鉄の道」は製鉄所の北側に通じ 完成した「割鉄」は この道を逆に港まで運ばれた
ここで作られた鉄は 幕末に萩藩が建造した軍艦の「丙辰丸」にも使用され
幕末期の近代化事業として 日本独自の技術が西洋化に利用された過渡期の姿を良くあらわしている
昭和56年(1981)に県教育委員会の採鉱冶金関係生産遺跡分布調査により遺跡の状況が明らかとなったが
昭和59年(1984)に完成した山の口ダムにより遺跡域の南半分はダム湖底に水没した
ただ 北半分にあった高殿などの製鉄遺跡主要部分はそのまま残され 昭和63年(1988)県指定史跡となり
平成2年から8年(1990−1996)にかけて発掘調査及び保存整備事業が行われた
平成24年(2012)9月に国の史跡に指定され
平成27年(2015)には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として
ユネスコ世界遺産に正式登録された 現在 主要施設(元小屋・高殿・砂鉄掛取場・鉄池・鍛冶屋等)の
遺構がよく保存されており 建物跡などの遺構が露出した形で整備されている
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大板山たたら製鉄所後
道の駅から12km 大板山たたら館
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砂鉄洗場(砂鉄掛取場) 砂鉄が水に沈むことを用し 砂鉄の不純物を取り除き純度を高める
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高殿跡の中心部 たたら跡と天秤鞴(てんびんふいご)跡
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手前は鉄池(かないけ) 熱い鉄の塊を冷やすための池
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手前は「本ト小屋」奥に高殿跡がある
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炭焼き窯跡
鉄池横の「たたら場」への橋跡

山口県営「山ノ口ダム」 昭和59年(1984)3月竣工
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ダム堰堤から見る谷間 「たたら」は奥深い山間にある
榎谷洞道(えのきだにどうどう)
明治26年(1893)、県下で三番目のトンネル(榎谷洞道)を伴う仮定県道が萩・宗頭間を結んだ。
洞道は長さが113m、幅が3.6mで坑門の出入ロは一部煉瓦張りで他は秦掘りのままである。
三隅側坑門の手前には、聳え立つ岩盤が掘削の跡をくっきりと残し、工事の難しさを今日に伝えている。
その後、車社会の発達に伴い路線の改修が行われて、二車線の榎谷隊道が新設され洞道は、
地域の発展に貢献した七十年の歴史を閉じて、今は静かに眠っている。
長門市教育委員会
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明治時代では大変な難工事が想像できるトンネル前の岩盤掘削跡
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長門三隅側の坑門
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萩市 笠山展望所
天気が良いので 萩の笠山展望所に寄る
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左手前「九島」中央「鯖島」 奥に見えるのは 昨日訪れた青海島
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頭上には 初夏だけど「うろこ雲」が
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