2013.10.15 宇部市則貞 常盤公園 宇部市船木散歩 下関市内散歩

10月14日-15日 山口県西部 車中泊旅 青海島-仙崎-千畳敷-油谷-角島-常盤公園-船木-下関
2日目 道の駅 蛍街道西ノ市-宇部市 常盤公園-西国街道 船木宿-下関市内-九州へ帰る

前夜は道の駅 蛍街道西ノ市で車中泊 今朝は船木宿を訪ねる予定だったが 思いのほか早く到着しそうなので
常磐公園へ先に行くことにした 船木から約30分・20km足らずの道程である

宇部市則貞 常盤公園

常磐公園の中心を成す常盤池は 長州藩が元禄8年(1695)から3年の歳月をかけ完成した灌漑用の池である
大正13年(1924)から渡辺祐策らが常盤池周辺の土地購入活動を始め 翌年購入した土地を宇部市に寄贈し
市によって常盤公園が開設された 現在189.4haの土地に 動物園・植物園・文化ホール・遊園地・レストハウス
石炭記念館などがある 石炭記念館の展望台からはときわ公園が一望出来るが 残念ながら休館日であった

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国土地理院 空中写真
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6:56 常盤池
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白鳥大橋
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常磐神社
祭神 罔象女神 速秋津彦神 速秋津姫神 大歳神 龍田大明神 丹生大明神
元禄8年常盤湖築堤に当り 領主福原氏家老椋梨俊平が 土工成就祈願のため本土手の上に 罔象女神を勧請し
末留大明神と呼んだのが始まり 築堤工事が完成した後 守護神として宝永元年九月 堤の辺に社殿を建立して
移し祀り末富神社と称し崇敬した その後 末富神社が草江に移され 新たに常盤湖の守護神として
龍田大明神・丹生大明神が勧請され新宮と呼んだ 江戸時代に梶返の新堤に移され さらに常盤湖の小島に
祀られ新宮社と称されたた 昭和43年に 草江の大歳神社を常盤湖の北の旧社地に遷座し
新宮社も社殿を改築し 大歳神社も合わせて常盤神社と総称する
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UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)

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昭和36年から ときわ公園を舞台に 2年に一度開催される日本最大級の現代彫刻展
ときわ公園をはじめとする市内各所に これまでの入賞作品約100点が常設展示されている
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Sin  外礒 秀紹
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深夜バス  中出 武彦
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石の華  藤本 イサム
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Collection  鎌田 祥平
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Our Love  冨長 敦也
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月に向かって進め  井田 勝己
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REDEFINED SPACE  Phyllis Baker Hammond
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Ephemeral depth  御幸朋寿・永田康祐・砂山太一
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7:18 雲行きが怪しく雨が降り出した まだ早いが船木宿に移動する

宇部市大字船木 西国海道(旧山陽道)船木宿

近世山陽道は徳川幕府により 京都羅城門から赤間関(下関)に至る街道として 律令時代からの山陽道を
再整備したものである 一般的には京都から大阪に至る京街道を除き 大阪高麗橋元標を起点として
別名 西国街道とよばれていた 一宿目の西宮から赤間関宿(下関)まで 45宿を数える道程であった

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船木宿は 小郡宿・山中宿を経て西宮より数えて41番目の本宿である

長州藩では郷村支配域の単位として宰判制を用いた 周防国には10地域 長門国には8区域設定された
船木宿には船木宰判勘場が立てられ代官が赴任して政経の統治を行った

宿場内は本道の他に南北に道筋を持ち 他の宿場のように枡形道が存在しない 江戸時代から近代まで
船木は交通の要衝であり 厚狭郡(南北朝時代から寛文4年(1664)まで厚東郡・厚西郡に分かれていた)の
政治経済の中心地であった 明治中頃が船木の全盛期で 明治22年(1889) 江戸期以来の船木村単独で
村制を敷いたが 山陽鉄道(明治21年創立・明治39年国有化)の敷設に反対した為 線路は南へ大きく迂回し
明治33年(1900)12月に三田尻-厚狭間が開通したことで 郡の中心は西隣の厚狭に取って代わられ
町勢は徐々に衰退していくことになった 大正6年(1917)町制施行して船木町となった
昭和30年(1955)船木・吉部・万倉の各村が合併して楠町となり 平成16年(2004)宇部市に編入された

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船木峠から西へ750m 国道2号線の船木入口
宇部興産専用道ガードと宿場口の六地蔵
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街道の一里塚跡
嘗ての塚木には「赤間関より9里 安芸境小瀬川より二十七里」と書いたあった 明治10年(1877)頃撤去された
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船木宰判御高札場跡 左岡崎八幡宮南参道
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高札場向いに岡崎八幡宮の南参道から街道筋側撮影
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懸社 岡崎八幡宮 西参道 参道を下れば萩に至る往還に出る
船木村の総鎮守 社伝によれば奈良時代の宝亀元年(770)に和気清麻呂が勧請したと伝わる
室町時代の応永3年(1396)守護大名大内義弘が神田を寄進し再興した
その後16世紀半ばの大内氏内乱によって歴代神宝と共に神殿も消失した 安土桃山時代の天正4年(1576)に
毛利氏家臣の杉重良が再建し 以降毛利家の庇護を受け現在に至る 社前の樟古樹は推定樹齢700年とされる
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宇部市大字船木岡の坂 浄土真宗本願寺派 松台山 願生寺
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願生寺からの下り坂
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南側の裏町通り 峠山を水源とするうら丁用水路
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裏町通り 浄土真宗本願寺派 思惟山 正圓寺 船木幼稚園並立
元禄2年(1689)の船木宰判勘場建設による宿場整理により現在地へ移転 公儀役人の宿泊所ともなった
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街道の正圓寺入口
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船木簡易裁判所の敷地 宿場の中心部 舟木御茶屋(本陣)跡 北隣に船木宰判勘場(代官所)があった

掲示板 「石炭と舟木」
船木地区では江戸時代の初期から石炭が採掘されていて、家庭用の明かりや調理の燃料として使用されていました。
正保2年(1645)に書かれた「毛吹草」には長門国の名物として「舟木石炭(いしずみ)」が紹介されており、
絵師・蘭学者の司馬江漢は天明8年(1788)に書いた旅日記「西遊日記」の中で、
船木では石炭を焚くと記述しています。 これらの記録や書物などから、石炭の採炭の様子や船木の人々の
石炭を活用した暮らしぶりを垣間見ることができます。 江戸時代の後期になると、石炭は塩業用の燃料や
蒸気船等の船舶の燃料としても重要視され、採炭地も山陽小野田地区や宇部地区にも広がっていきました。
明治元年(1868)に長州藩は宇部・山陽小野田地区の採炭を管理する石炭局を船木宰判に設置しましたが、
政府の政策転換により数年で廃止され、その後石炭は民間に開放されていきました。
明治時代以降は、船木地区で中小の炭鉱が数多く出現し、沖田炭鉱・船木炭鉱・上沖炭鉱などが出炭量を増加させて
昭和初期にはそのピークを迎えました。 船木地区で採炭された石炭は、有帆川の水運や宇部に繋がる
船木鉄道などにより運び出し、三田尻塩田の燃料などに使用されていましたが、昭和20年代になるに従って
採掘量が減少して、昭和39年(1964)にはすべての炭鉱が船木周辺から姿を消すことになりました。
船木で始まった石炭の採炭は、宇部地区の産業の中心として引き継がれて行き、
宇部市の近代工業の基盤となっていきました。

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舟木宰判 代官所跡の碑
船木簡易裁判所裏の土蔵
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右 船木鉄道船木町駅跡の駅舎(バス待合室)

船木鉄道
山陽鉄道が明治33年(1900)12月に三田尻-厚狭間が開通した後 漸く鉄道の重要性に気づいた船木の有力者達は
明治44年(1911)鉄道設立発起人会を結成 大正2年(1913)に船木軽便鉄道を設立した
大正5年(1916)宇部駅-舟木町間に軌間762mmの軽便鉄道を敷設開業した 大正8年に社名を船木鉄道へ改称
大正12年(1923)に船木町-万倉駅間の延長と1067mmへの全線改軌がなされ
昭和元年(1926)には万倉-吉部駅間を延長し 全線の距離程が17.7kmとなった しかし戦時中の金属供出により
昭和19年(1944)に万倉-吉部駅間を休止 戦後は荷主である石炭産業の斜陽化やバスへの転換が進み
昭和36年(1961)10月全線廃止となった 船木鉄道株式会社はバス事業者として今も現存し稼働中である

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うら丁用水路
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街道筋東向き 標高180mの峠山
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田町の地蔵 享保8年(1723)の造立 元は岡崎八幡宮境内にあったが明治初年に遷座
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田町を流れる屋敷内水路 岡崎八幡宮から宰判勘場と御茶屋に分流 再び田町で合流して有帆川に流出する
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大木森住吉宮
嘉永4年(1852)の1650年祭を記念して玉垣・石造太鼓橋・高灯籠が建立された
伝承では 神功皇后が三韓征伐の折り 住吉宮に聳える楠の大樹を切り48艘の軍船を造られたのが
「船木」および その後の「楠町」村名・町名の由来になったとされている
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街道西向き
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旅人荷付場跡
一般に問屋場と呼ばれる馬の手配や荷役を扱う役所 目付け役人が詰め 駅馬15頭が常時準備されていた
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船寄宿の西口となる茶屋交差点 街道は有帆川を渡り対岸へ
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宇部市大字船木字逢坂 千林尼の石畳路
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明治新道と国道2号線
逢坂乳観音への道標
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千林尼の石畳路
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逢坂観音堂
旧西国街道(山陽街道)入口
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県道225号線(旧国道)側
県道225号線 西見峠切り通し
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旧西国街道は厚狭宿へ
新しい山陽道の道標

山口県下関市 下関市内散歩

県庁所在地の山口市を凌ぐ人口を抱え 中国地方でも広島市・岡山市・倉敷市・福山市に次ぐ5番目の規模である
対岸の北九州市門司区とは4本のトンネルや橋で繋がり同一経済圏を形成する 古くは赤間関と呼ばれ
赤馬関とも表記されたことから馬関(ばかん)とも称された 戦前は山陽本線の終着ターミナル駅でもあり
関釜連絡船の母港でもあったことから 朝鮮半島や中国大陸へ渡る主要なルートに組み入れられ繁栄した

船木宿からなるべく旧山陽道を辿り 小月を経て下関到着が PM15:45 で予定より遅くなった
旧英国領事館は保存工事のため休館中 夕刻には雨も降り出し あと一泊の予定を繰り上げ帰宅する

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明治33年(1900)建築の下関南部町郵便局と大正4年(1915)建築の旧秋田商会ビル

下関市南部町 下関観光情報センター 旧秋田商会ビル
西日本初の鉄筋コンクリート造の建築 1階に事務所 2・3階は木造書院造りの居室
屋上に日本庭園と瓦葺きの家屋がある和洋折衷の特徴有る建築物

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1階窓から南部郵便局
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1階事務室
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1階玄関風除け室
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3階居室
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3階窓から南部郵便局

下関市南部町 南部郵便局 登録有形文化財
現存する下関の洋風建築では最も古く 国内最古の現役郵便局舎でもある

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下関市観音崎町 山口銀行旧本店(やまぎん史料館)

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大正9年(1920)に三井銀行下関支店として建設された

近世・馬関の残滓を求めて散策

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中央部は街道へ通じる道の跡
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時代が違う石垣積
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馬関越荷方役所(下ノ関)跡
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一里塚跡
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永福寺下の西国道終点
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明治の初期まで ここから門司の大里(だいり)宿まで舟で渡っていた
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