2013.10.14 青海島遊覧船 仙崎散歩 千畳敷 油谷楊貴妃の墓 角島夕景

10月14日−15日 山口県西部 車中泊旅 青海島−仙崎−千畳敷−油谷−角島−常盤公園−船木−下関
1日目 道の駅 蛍街道西ノ市−豊田湖−青海島−仙崎−千畳敷−油谷−角島−道の駅 蛍街道西ノ市

前日の13日に平尾台 貫山に登り 夕刻に下関市に移動する 菊川温泉で入浴 道の駅 蛍街道西ノ市で車中泊
翌朝 県道34号下関長門線を通り 豊田湖・長門湯本を経由して青海島に午前8時頃到着


下関市豊田町大字地吉/大字今出 山口県営 木屋川ダム 豊田湖
木屋川(こやがわ)の上流に建設されたダム 昭和15年(1940)に着工し戦時中も工事が続けられたが
戦後の混乱と財政難で中断され 昭和25年(1950)に再開し 昭和30年(1955)4月に竣工した
治水・工業用水・上水道・水力発電の多目的ダム ダム湖の面積は 161ha

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6:40 「朝もや」の豊田湖

山口県長門市 青海島

北長門海岸国定公園の中心に位置し 周囲は約40km・面積14平方kmの島 約9千万年前の巨大カルデラ火山の
爆発でマグマが噴出し岩石となり その後の地殻変動で隆起して青海島が誕生した 島の北岸は日本海の荒波を受け
断崖絶壁が連なる海食地形となった 洞門・石柱・奇岩・怪岩の絶景が続き 別名『海上アルプス』とも称される
島と本土との間は最狭部で約50mの近さ 昭和40年(1965)10月 仙崎砂洲先端部と青海島の王子山公園との間に
青海大橋が架橋された 仙崎漁港の南側から青海島観光汽船(株)の観光遊覧船が出航している

午前 8:40 発の定期遊覧船第1便に乗船する 天候も良く波も穏やかなので青海島一周コースとなっている

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8:35 遊覧船 ピンクシータス号
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花津浦 左突端に観音岩
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赤瀬
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コーモリ洞
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赤瀬と筍岩
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夫婦洞(黄金洞)
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夫婦洞(黄金洞)
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幕岩
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石英斑岩
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白旗と駒つなぎ
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男性観音と観音洞
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観音洞 反対側
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石門
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仁王の足跡
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鯨形ピンクシータス号の尾っぽ
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象の鼻
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仏岩
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屏風岩
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松島
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10:05 ピンクシータス号の潮吹きパフォーマンス

山口県長門市 仙崎散歩

青海島へ延びる仙崎の砂州は 尖角洲の典型例で東の白潟砂州と西の深川砂州が同期に成長し 青海島の手前で
合掌する形で発達したとされ 白潟砂州は三隈川の 深川砂州は深川川から供給された砂礫が堆積したと思われるが
一部は青海島の海食による基材が堆積したとも考えられる 岬の北部が仙崎の市街地となり 東側の湾岸部では
開発が進み 埋立地や防波堤・突堤などの港湾施設が設けられている 砂州の西側は 深川川の治水工事によって
砂礫の供給が止まり 海流による食作用を受け市街地付近では突堤が それ以南では多くの離岸堤が設置されている

古くは瀬戸崎と呼ばれ江戸時代に入ってより漁港として発展し その後は北前船の西回り航路の寄港地として
商業も盛んとなった 第二次世界大戦後は かつて関釜連絡船として就航していた興安丸の母港となり
釜山と仙崎及び博多港を往復したことから 海外邦人の日本本土への引き揚げ港として知られる
仙崎港での海外邦人引き揚げ者数は 約41万4千人で 博多・佐世保・舞鶴・浦賀の各港に次ぐ第5番目となる
また朝鮮や台湾などへ帰還する在日外国人の出国港として 博多港に次ぐ約34万人の人たちを祖国へと送り出した

現在 仙崎漁港ではイカ・アジなどの近海の魚介類やウニ・アワビなど沿岸水産物を多く取り扱われ 県内では
下関漁港に次ぐ水揚げ高を誇り 主に関西・九州方面に出荷される 近年は同港に水揚げされるケンサキイカに
「仙崎イカ」のブランド名が名付けられ 江戸期発祥の「仙崎蒲鉾」と合わせ名産品となっている
全長260mの青海大橋が昭和40年(1965)10月に完成し青海島に車で渡れるようになった

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青海島の王子山公園から仙崎全貌

仙崎蒲鉾
関東地方は蒸して加熱する小田原蒲鉾が有名だが 関西では一度蒸した後に火で培る「焼き板」という製法が多く
その中でも仙崎の「焼きぬき蒲鉾」は 杉の蒲鉾板にすり身を盛り 蒸さずに炭火で焼きとおすという製法から
「焼きぬき」の名がつく 焼きぬきは焼成温度が低く内部温度の上昇が緩慢なために 淡泊で魚の味覚を生かした
なおかつ弾力があり肌が艶やかなきれいな蒲鉾となる しかし焼成温度が低いため鮮度の高い原料を必要とし
賞味期限も短いため 元来 この浜焼きの蒲鉾を食すことが出来たのは近畿を東端とした関西圏のみであった

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10:22 仙崎駅
昭和5年(1930)開業 山陰本線長門市駅から支線(通称・仙崎線)1区間でつながる
第二次世界大戦後の一時期 全国各地へ海外から仙崎港への引き揚げ者を運ぶ直通列車が運行された
現在は 仙崎〜長門市駅間で列車が往復運転し 仙崎から美祢線経由で山陽本線厚狭駅へ
山陰本線経由で下関駅にも直通列車が運行されている
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終点の駅 仙崎
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メインストリート みすゞ通り
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イタリア製 Vespa car P50
ベスパの50cc三輪自動車(1970-80年代)  この車 度々Netで紹介されている現役車
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八坂神社(祇園社)
天平5年(733) 吉備真備によって青海島の王子山に祇園社として創立
建保4年(1216)の旧8月 台風と思われる暴風のため崩壊し 仙崎の「州崎社(洲崎神社)」へ遷座された
その後も大火により被災し 延宝6年(1678)年12月に長州藩2代目藩主・毛利綱広により現在の地に再建された
明治政府の神仏分離令により 八坂神社へと改称されたが 金子みすゞの詩でも 「祇園社」の名で登場し
今でも地元では「祇園さま」が通り名である 拝殿の唐破風に毛利氏の「一文字に三つ星」の紋が掲げてある
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10:45 八坂神社参道

蒲鉾板によるモザイク画のある街角
地元の若者が中心に平成16年(2004)から取り組む「プロジェクトM」 仙崎名産である蒲鉾の板を組み合わせ
仙崎出身の童謡詩人金子みすゞをモチーフにしたモザイク画を制作している
蒲鉾の板一枚一枚に 長門市を訪れた人や市民によるメッセージが記入され 平成16年から毎年制作されている

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鯨捕り
むかし、むかしの鯨捕り、ここのこの海、紫津が浦(しづがうら)。
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星とたんぽぽ
青いお空の底ふかく 海の小石のそのように 夜がくるまで沈んでいる、
昼のお星は眼にみえぬ 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
散ってすがれたたんぽぽの 瓦のすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ。
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かまぼこの板一枚一枚に書かれたメッセージ
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10:52 金子みすゞ記念館 生家・金子文英堂跡
大正の天才詩人・金子みすゞ(本名:金子テル 1903−1930)は仙崎で生まれ 郡立大津高等女学校
(現在の山口県立大津緑洋高等学校)を卒業するまでの間この仙崎で過ごした
20歳の頃から書き始めた512編にも及ぶ作品の大半は その後移り住んだ下関市で詩作されものだが
そのモチーフには故郷仙崎の情景が多く描かれている 漁港に水揚げされた大量の鰯を描いた「大漁」は
代表作の一つである その他に王子山・弁天島・祇園社など 仙崎の風景を読んだ詩も数多く残されている

しかし その生涯は決して明るいものではなかった 23歳で義父の経営する上山文英堂に勤務する男性と結婚
娘を1人もうける しかし夫が次第に義父に冷遇され 女性問題を契機に上山文英堂を追われる
みすゞは夫に従ったが夫の放蕩生活は収まらず みすゞに詩の投稿および詩人仲間との文通を禁じた

昭和5年(1930)2月に離婚したが 娘の養育権で夫と対立 親権を強硬に要求される中
みすゞは「娘を自分の母に託すことを懇願する遺書」を残し自殺 26年の短い生涯を閉じた

残された作品は散逸して いつしか幻の詩人と言われるようになった その後 長周新聞によれば
昭和12年(1937)長周新聞の主幹であった福田正義が 雑誌「話の関門」の中で「金子みすゞの生涯と作品」を
紹介したとしている ただ軍国主義を強める時世下であり 尚且つ地元のローカル誌で掲載されたもので
広く世間に知らしめるには至らなかったと思われる

みすゞの没後54年を経た昭和59年(1984) 岩波文庫の「日本童謡集」に収録された「大漁」を読み感動した
詩人・矢崎節夫の努力により遺稿集が発掘され 同年2月「金子みすゞ全集」が JULA(ジュラ)出版局から
千冊限定で出版 同年8月には千冊増刷 また「第1選集・わたしと小鳥と鈴と」が矢崎節夫編集により出版され
瞬く間に有名になった 翌年の東大の入試問題に「積もった雪」「大漁」が採用され
現在では小学校の国語教科書に採用されることも多い 故郷・長門でも再評価がが進み 生誕100年目にあたる
平成15年(2003)に 生家跡が金子みすゞ記念館となった なお みすゞの墓所は仙崎の遍照寺にある

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廃業の蒲鉾店 後継者がいないのでしょう
日本を取り戻す 秘策はあるのか???
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疑似洋館の銭湯 旧仙崎湯
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懐かしい「ナショナル坊や」 関西人は「ナショ」って言ってた 「パナソニック」では舌を噛む
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11:16 八百屋のお鳩
おや鳩子ばと お鳩が三羽 八百屋の軒で クックと啼いた。
茄子はむらさき キャベツはみどり いちごの赤も つやつやぬれて。
なあにを買おうぞ しィろいお鳩 八百屋の軒で クックと啼いた。
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廣田珈琲店
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蒲鉾板20000枚のモザイク画 M20000 金子みすゞ「大漁」
朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の 大漁だ。
浜は祭の ようだけど 海のなかでは 何万の 鰮のとむらい するだろう。
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作道商店
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元醤油醸造業の五嶋家
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醤油蔵
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貴重な真水の共同井戸
大きな旧家が並ぶ路地
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18世紀の建築 元造り酒屋の持山家
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12:00 仙崎公民館のモザイク画
仙崎散歩はここまで 漁港前で昼食に仙崎名物のイカ丼を食べる 駐車場を出て波の橋立に行く

長門市仙崎 青海島 波の橋立
砂州を構成する物質は砂では無く,直径50mmの「円礫」とのことです。 正しくは「礫洲」と呼ぶべきでしょう 現在の砂州(礫洲)には,無数の「突堤」が建設されています。 礫の供給がほぼ途絶えている,ことを示しています 波の橋立は 日本海の潮流によって運ばれた砂礫が 長い年月をかけて堆積し長さ約1300mの砂洲である
「金子みすゞ」が 故郷仙崎の風景を綴った「仙崎八景」のひとつ 「波の橋立よいところ、右はみずうみ、
もぐっちょがもぐる、左や外海、白帆が通る、なかの松原、小松原、さらりさらりと風が吹く」と詠んでいる
県内最大の潟湖である青海湖は 完全な淡水湖である

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全景
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「波の橋立」の遊歩道 左が海 右が淡水の青海湖
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13:35 青海湖・波の橋立と深川湾 対岸は長門市日置上 黄波戸漁港

長門市日置上 仁位ノ浜
伝説では源平合戦・壇ノ浦の戦いで敗れ 幼い安徳天皇を抱いて海中へと没した二位の局の亡骸が
この浜に漂着したと伝えられることから 「二位ノ浜」と呼ばれる
ハマユウの日本海岸自生北限地でもあり 県の天然記念物に指定されている

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長門市日置中 千畳敷
日本海に面した向津具(むかつく)半島の付け根部 標高333mの頂上に広がる 広さ約2.64haの草原
眼下に碧くひろがる外海を眺め 日本海の青海島海上アルプスを望む

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今岬の立神岩 その背後に青海島
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宮地岳神社 灯台を兼ねた高灯籠・祠・祠より立派な鳥居

長門市油谷向津具下 俵島の柱状節理

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干潮時には渡渉が可能 逆光だが綺麗な柱状節理が確認できる 島影も美しい

長門市油谷向津具下久津 二尊院・楊貴妃の里
楊貴妃は唐の皇妃で 貴妃の称号を与えられた美貌の女性 姓名は楊玉環という
玄宗皇帝の寵姫であり皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられ 傾国の美女と呼ばれる
西暦756年7月15日(奈良時代)陝西省の馬嵬(ばかい)で 自殺または絞殺されたと中国の史書は伝える
一方 日本に渡来したという伝説も存在する

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中央の五輪塔が楊貴妃の墓と伝えられている……らしい

謎とロマンのただよう伝説 楊貴妃の墓
唐の玄宗皇帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃は、安禄山の乱に会って蜀へ逃避する途中、長安の郊外、
馬嵬の仏堂で絞殺されたと史書には示されております。しかし、巷では楊貴妃は実際には死んでいないという
噂もあったようで、有名な「長恨歌」の中にも日本への東航を想像させる表現があります。
ここ久津の地では、昔から楊貴妃にまつわる伝説が語り継がれてきました。
二尊院に残されている江戸時代の文書には、次のような言い伝えが記されています。
唐の天宝拾五年七月(七五六年)空艫舟に乗った楊貴妃は、唐渡口という所へ漂着。まもなく死去し給うたので
里人相寄り当寺院に埋葬した。玄宗皇帝の思い切なるため貴妃の霊が彼地に往来したのか、幾夜か夢枕に立たれ、
皇帝は楊貴妃の死を知った。愛情やるかたなく追善のため、弥陀、釈迦の二尊像と拾三重の大宝塔を持たせ、
家来の陳安を日本に遣わした。陳安は探したが、楊貴妃がいずれの地に漂着したか分からず、
やむなく京都の清涼寺へ二尊仏を預けて帰国した。後に漂着地が久津と分かったが、
清涼寺では本朝無二の霊仏として評判が高かったため、手放すのが惜しくなった。
そこで全く同じ仏像を仏工の名手に作らせ、新旧の仏像一体ずつを清涼寺と当寺院で分けて安置することになった。
その後、楊貴妃の墓、侍女の碑を漸く建てることが出来た。
以上が伝説の大要で、中央の五輪塔が楊貴妃の墓と言われるものです。

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楊貴妃の里公園と二尊院
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楊貴妃像

下関市豊北町大字角島 角島(つのしま)
山口県沖の響灘にある島で 北長門海岸国定公園に含まれる 最北端の牧崎と西部の夢崎の2つの岬が
ウシの角のように突き出している姿から角島と呼ばれた 島の南西部に通瀬岬 南東部に瀬崎という
合計4つの岬がある 瀬崎と本土側附野間に横たわる海士ヶ瀬戸に 平成12年(2000)総長さ1780mの
角島大橋が架けられた 当初は有料化も検討されたが政治判断で無料となった
しかし塩害等による橋脚の傷みが激しく 遅かれ早かれ補修予算の捻出に懸念が残される
島の北西に位置する夢ヶ岬に島のシンボルとして明治建設の角島灯台がある 戦前は下関要塞地帯の一角として
島の東部に角島砲台陣地が置かれ 15cmカノン砲4門が装備されていた 観測所・弾薬庫・兵舎・照明所など
現在もその痕跡が見られるが 遺構の一部は道路建設のために破壊 また残る遺跡も放置されている

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国土地理院 空中写真

角島夢ヶ崎 登録有形文化財 角島灯台
角島の北西端・夢ケ崎に立つ石造灯台 灯塔は総御影石で造られ 日本には瀬戸内の男木島灯台と合わせ
2基しかない無塗装の灯台である 明治9年(1876)初点灯 英国人・リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計で
日本海側では初の洋式灯台となる 塔高:43m 光達距離:18海里(33.336km)
レンズは日本でも5箇所しかない特大のフレネルレンズで第1等灯台に指定されている
参観灯台として常時内部が一般公開されている

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右側の設備はクヅ瀬照射灯
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17:13
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鬼の岩
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大浦海岸
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17:34 角島大橋
島を隔てる海士ヶ瀬戸に 平成12年(2000)橋長:1780mの角島大橋が竣工し一躍有名観光地となった
離島へ架けられた一般道路橋としては 沖縄県の屋我地島と古宇利島を結ぶ古宇利大橋に次ぎ全国第2位である
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17:38 角島大橋
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 18:05 街路灯点灯
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18:10 角島を離れ昨日と同じ菊川温泉から「道の駅・蛍街道西ノ市」を目指す 距離48km
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