2024.01.13 佐賀県佐賀市東佐賀町から八戸二丁目まで 佐賀城下の長崎街道を歩く

長崎街道は 江戸幕府によって整備された脇往還のひとつで 豊前小倉城下の常盤橋を始点とし江戸幕府が唯一
直轄貿易港とした肥前長崎に至る重要な街道であった 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は
当初 キリスト教に対して豊臣秀吉の施策を踏襲し 海外貿易も積極的に行われ 秀吉から弾圧を受けた
スペインのフランシスコ会とも和議を結ぶほどであった しかし 後に態度を硬化させ 慶長17年(1612)に
幕府直轄地において禁教令を発布 慶長18年には禁教政策を全国へと拡大した

一方 明国・朝鮮を除く外国船の入港を長崎・平戸に限定 輸入鉛の購入は幕府のみとする貿易独占策を実行
寛永元年(1624)スペインとの国交を断絶 寛永10年(1633)に幕府の奉書不携帯船の渡航を禁止した
寛永12年(1635)に中国を含む外国船の入港を長崎のみに限定 日本人の渡航及び帰国を禁止した
寛永13年には出島が竣工し 貿易に従事するポルトガル人を出島に移し その他妻子などすべてマカオへ追放した

寛永16年(1639)ポルトガル船の入港を禁止 ポルトガル人を追放し国交を断絶
寛永18年(1641)オランダ商館及びオランダ人を平戸から出島に移す 寛永20年(1643)例外的に取扱われた
オランダ船の全国入港勝手とする家康の朱印状を破棄し 以降 幕末までの約100年間オランダ一国との交易が
長崎港を舞台に徳川将軍家独占で行われた

長崎街道の里程は57里(約224km)あり 25の宿駅(宿場)が設置され 参勤交代や西国筋郡代の赴任などに
利用された他 途中に筑前福岡城下・太宰府道・日田往還・薩摩街道などの追分があり行き交う人も様々であった
また オランダ人や中国人の江戸参府や交易・献上品の他ゾウやラクダなどの珍獣まで 人や物が往来した
近年は「シュガーロード」と称され当時から砂糖が流通したことで 街道近隣には菓子舗が今も多く存在している
特に長崎警護番を務めた佐賀や福岡藩には多くの砂糖が流入し 佐賀には「丸ぼうろ」や「小城羊羹」などがある

佐賀市内の長崎街道は 城郭や武家地を避け城の北側にあった町人地内を 防御を考慮して縫うように
ジグザグに曲がりくねった道筋になっているため 各所に観光用の新しい道標が立てられている

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明治33年測図 1.牛嶋宿 2.城下東構 牛嶋口 3.紺屋川 思案橋 4.龍造寺八幡宮

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10:40 長崎街道散策開始 佐賀城下東構 牛嶋口(うしじまくち)跡
江戸時代の佐賀城下には 牛嶋町・八戸町・今宿町・唐人町・田布施町・天祐寺町に合計六箇所の出入口があり
木戸と番所が設けられ 亥の刻(夜四つ=20時)から卯の刻(明六つ=6時)まで門扉が閉ざされていた
*江戸時代の時刻には季節的変動があり 現在の時刻に当てはまるのは春分と秋分の時季である
長崎街道の東構である牛嶋口は 別名を慶長町口とも呼ばれ城下大手口につながる格式の高い木戸口であった
想定される幅が約6m 橋長11間(約20m)の木橋が大溝川に架けられ 橋の西詰に番屋と木戸が設けられていた
橋から東側が巨勢郷となり 間宿である牛嶋・高尾宿からは僅か1km足らずの距離である

Link:佐賀市公式HPのPDF資料「牛嶋口跡 遺構編」「牛嶋口跡 整備編」

牛嶋口の木戸門から城下に入ると番屋があり角を曲がれば牛嶋町の通りに出る
牛嶋町は東構口から紺屋川の思案橋まで街道に沿って江戸時代初期に整備され 時代を反映して慶長町とも呼ばれた
安政元年(1854)に作成された竈帳によれば 人口は108世帯420人で 町内には穀物店が14軒もあり
敷地341坪の藩御用達質屋下村家や敷地301坪の武富家などの豪商も存在した
街道の辻から北に向かえば 佐賀城下建設のおり鬼門となる北東側に 城下鎮護のため建立された牛嶋天満宮がある

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角の番所跡と東構の牛嶋口
新しい道標と構口番所跡の標識
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県道333号佐賀環状東線 東佐賀町交差点
思案橋手前から振返り
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思案橋東詰 紺屋川と思案橋
東構の牛嶋口から約3町(320m)で牛嶋町東端の紺屋川に出合う 川に架かる思案橋を渡ると街道は鍵型に曲がり
上今宿町・柳町・蓮池町・呉服町を通り元町に至る 紺屋川は八田江川や佐賀江川に通じ 有明海の干満に
影響を受ける「江」と呼ばれる感潮河川で 裏十間川と共に船運に利用された
竈帳によれば 橋の西詰にある上今宿町には26世帯117人が住み 散薬・荒物・小間物・太物・呉服・唐物・酒
菓子・砂糖・蒲焼・干物魚・うどん・銭湯・髪結床・両替商などの商家が並び 城下で最も繁栄した界隈であった

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石造桁橋
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紺屋川下流側 幕末当時の有明海まで約9km
南に材木町
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北の柳町へ曲がる 右の青壁は江戸期から続く蔦屋
佐賀市内最古とされる南里邸(表店舗)
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柳町通り 右側が南里(なんり)邸の表店(おもてだな)
現状では墨書が残されていないため建築年代は不明だが 内法高が他町家に比べて低いことから
18世紀前期に建築されたと推定される佐賀市内最古の建築物である
竈帳によれば 足軽身分の中嶋彦右衛門が居住し 綿太物・唐物座札の商いを行うと記されている
2月から3月の「佐賀城下ひなまつり」期間中は無料開放される

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角に面した何里邸住居
何里邸角を西へ左折 柳町に入る
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柳町には 佐賀版「三匹のおっさん」が住んでいるのか?
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11:10 左は旧久富家 ものづくりカフェこねくり家
営業開始(11:30)前でした カフェや貸出工房・写真スタジオなどがあり イベントの一軒貸しも可能

旧三省銀行
明治15年(1882)旧佐賀藩士によって 米穀商を株主に銀行類似業務を行う三省社として建てられた
明治18年には正式に三省銀行と改めたが 徐々に経営が傾き明治26年(1893)に廃業した
廃業後の建物は売却され 個人開業の医院として昭和51年(1976)まで利用され その後は住居となった

平成10年(1998)敷地を佐賀市が買取る形で 建屋も市に譲渡され平成11年5月に佐賀市重要文化財に指定された
外観は 漆喰壁とむくりのある切妻屋根など伝統的な蔵造りで 窓には防火用の銅板外開き扉が取り付けられ
シンプルで大胆な意匠となっている 内部は上質の材料を用い 中央の吹抜けなど卓抜した構成によって
おおらかな空間を醸しだしている 傾斜のある隠し階段や二階座敷のシャンデリア用の漆喰飾りなど細部に至るまで
類例の少ない建築的特色を備え いかにも明治前期という時代の息吹が垣間見える銀行建築といえる

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小判型の鉄格子付き漆喰窓
シンプルかつ豪壮な室内空間
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中央部の吹抜け
二階窓から天山を遠望
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二階座敷のシャンデリア用の漆喰飾り

歴史民俗館 旧牛島家
元は下今宿町(現・朝日町)にあった建物で 推定建築年代は18世紀初頭で 佐賀城下の町屋では最古とされる
嘉永7年(1854)の『下今宿町竈帳』に 下今宿町の咾役(おとなやく)を務めていた足軽の高楊伊助の住宅で
問屋業を営んでいたと記されており 明治中頃に煙草仲買商海陸運漕店と紹介され 明治後期では油商を営んでいた
第二次世界大戦後に牛島家の所有となり 平成5年(1993)の県道拡幅工事に伴い一度解体され
その後当地に 解体保存されていた部材を使用し明治後期の姿に再建された 平成7年・佐賀市の重要文化財に指定
荷捌き用の広大な土間は 創業時の問屋業を偲ばせ 骨太で力強い軸組には江戸中期の特色を
また 座敷の意匠や表構えの構成には明治期の特色を併せ持つ貴重な町家建物である

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牛嶋家土蔵と西隣の旧森永家南蔵
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庭から見る牛嶋家主屋

長崎街道名物 佐賀煙草「富士の煙」製造所 旧森永家
江戸時代の19世紀初頭から初代森永十助が藩命によって煙草の製造を始めたと伝えられている
明治維新後 三代目森永作平が製造した「富士の煙」が 東京の「天狗」より香りが良いと評判を呼んだが
明治31年(1898)の煙草専売法施行に伴い呉服店となり 昭和9年(1934)まで呉服商を営んでいた
現存する建物は 北蔵・南蔵・居宅の三棟があり 長崎街道に面して建つ北蔵は 明治期建築の土蔵造り二階建
裏十間川に面して建つ南蔵は 同期建築の土蔵造三階建で貴重な建築物である 居宅は明治前期の平屋で
北側に主屋があり 南側の離れ屋とつながる 離れ屋は前後に庭園があり優美で落ち着いた趣がある
北蔵の街道に面する壁に 森永呉服店の看板と丸十字の商標が残されている
この丸十字の紋は 初代森永十助の名および薩摩国分煙草葉使用の縁とも言われている

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旧森永家北蔵
旧森永家の北蔵・南蔵・主屋

旧古賀家
古賀銀行の創設者・古賀善平の居宅として明治17年(1884)に竣工し 嫡男の善一郎(二代目善兵衛)の代まで
古賀家の居宅として使用された 古賀銀行は 昭和元年(1926)第一次大戦後の恐慌の煽りを受け休業
昭和8年(1933)には解散に追い込まれ古賀家居宅も売却された 古賀氏の手を離れた後 昭和29年(1954)から
料亭として使われた 平成3年(1991)に佐賀市の所有となり 料亭時代の増改築部分が建設当初の形に復原され
平成7年(1995)に佐賀市重要文化財の指定を受け現在に至っている

町家ながら武家屋敷の様相を呈し 圧巻の50畳大広間を含む15部屋ある和室では見事な欄間や襖絵などが美しい
明治期の 格式あふれる本格的な屋敷構えで 財を成した実業家の住居遺構として貴重な存在である

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八坂神社(祇園社)鳥居
八坂神社 本殿 祭神 スサノオ
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八坂神社の鳥居と旧古賀銀行
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八坂神社境内の大樟 推定樹齢:600年
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旧古賀銀行本店
明治39年(1906)竣工 大正5年(1916)西側(写真手前)へ大増築し外壁の大半を漆喰壁から煉瓦タイルに変更
大正15年(1926)業績悪化のため休業 昭和8年(1933)に解散した
翌年から昭和29年(1954)まで佐賀商業会議所 昭和61年(1986)まで佐賀県労働会館 平成4年(1992)まで
自治労佐賀県本部として利用され続け 同年7月以降に佐賀市の所有となった その後 昭和期の改築部分が取払われ
外観及び内装が 大正全盛期の姿に戻す復原工事が行われた 平成7年(1995)に佐賀市重要文化財に指定され
平成9年(1997)より佐賀市歴史民俗館として開館
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古賀銀行 車寄庇
12:03 再び長崎街道を西へ 柳町を振返り
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呉服元町交差点 呉服町に入る
呉服町のレリーフ文字のある大正浪漫な街灯
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佐賀藩 呉服町本陣屋敷跡
寛政末期 御用商人・野口恵助の屋敷を借用し始めた
肥前えびす屋角の道標 なかさき道/こくらみち
小さい道標には 右 おふくわん道(往還道)
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左は「656(むつごろう)多目的広場」 長崎街道は北へ 道標から135m歩けば元町通り そして左折

元町
当初の町名は「白山本町」で 城下町の整備に伴い「元町」に改称 米会所や勘定場があり民政の中心部であった
竈帳によれば 宿駅と問屋場が置かれ 並びには4軒の旅籠や御用茶屋もあった

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スーパー店内の長崎街道 元町通りからバルーン通り(白山いきいき名店街)まで
ショッピングモール・エスプラッツ内アスタラビスタ 佐賀店を貫く
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しらやま通り(白山名店街)
県道29号佐賀停車場線 白山1丁目交差点

龍造寺八幡宮
大正15年(1926)発行の『佐賀縣神社誌要』によれば 鎌倉時代の文治3年(1187)の創建とされる
龍造寺氏の出自は定かではないが 通説では 平安時代末期の仁平年間(1151-1154)に藤原秀郷の末裔と称す
藤原季善が肥前佐賀郡小津東郷内龍造寺村に入部し 季善の養子となった二代目季家が龍造寺姓を名乗ったことが
始まりとされる 龍造寺氏が地頭職となった後 鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請したとされるのが通説である

当初の建立地は 龍造寺氏の村中城本丸内にあったが 鍋島氏による佐賀築城の際 現・鳥居の南側に遷座した
明治34年(1901)頃 境内が北へ拡張され神殿も鳥居の北側へ移転した

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13:06 佐賀市重要文化財 石造肥前鳥居
慶長9年(1604)に佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂の母・陽泰院が奉献したものである
三本継ぎの貫は 神殿の移転に伴い扁額の向きを変えるため 中央部だけが新造されたものかは不明
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街道は現在の龍造寺八幡宮境内を横切り八幡小路と称され おそらく石橋の北側(向こう側)にあった
石橋と鳥居の位置は変わらず 鳥居の南(手前側)に社があり 石橋は多布施井樋水路に架かっていた

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明治33年測図 4.龍造寺八幡宮(長崎街道の南側にあった) 5.善佐衛門橋 6.佐賀縣護國神社
7.肥前之國 伊勢神社 8.北面天満宮 9.本庄江番所跡

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多布施井樋水路
楠神社 安政3年建立 楠正成・正行の父子像を祀る
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十間堀に架かる楠公橋南詰の新しい道標
白山一丁目角の新しい道標

米屋町
江戸時代には 龍造寺八幡宮や鳩森稲荷神社西の界隈を米屋町と呼んでいた 竈帳によれば36世帯114人が暮らし
米屋や酒屋・陸荷問屋(おかにどんや)・大工職など様々な人達が住んでいた

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新しい道標に従い左折
国道264号 多布施一丁目南交差点の新しい道標
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歩道の新しい道標
善左衛門橋を渡れば伊勢屋町

多布施町
多布施井樋水路の取水口があり北の十間堀と西南を多布施川に囲まれた界隈で 江戸時代には田布施町と呼ばれ
町の北角に城下六箇所の出入口のひとつ 三瀬峠や長野峠に通じる多布施口があり番所が設けられていた
江戸時代の一時期は 材木や薪炭などの市が毎日開かれ賑わった

Link:佐賀城下まち歩きマップ(城下西部版)

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上流側から 明和元年(1764)7月10日架橋の善左衛門橋(ぜんじゃあばし)と多布施川
元は土橋が架けられていたが老朽化のため渡るのが困難となり 多布施町の宇野善左衛門が隠居後に私費での
架替えを願い出て完成させた石橋 善左衛門は隠居後に向西と号したが 寛政13年(1801)84歳で死去した
明治33年(1900)に一部補修されたが 橋脚は江戸時代の物と言われている
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明治3年(1870年)造立 佐賀縣護國神社
長崎街道 お伊勢茶屋 有料老人ホームです
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佐賀市重要文化財 肥前之國 伊勢神社 石造肥前鳥居 慶長12年(1607)造立
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13:36 肥前之國 伊勢神社
英彦山大権現と伊勢恵比須神社
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旧佐賀市域内では最も古い恵比須像 寛保3年(1743)門前町の伊勢屋町中の奉納
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江戸時代の道標 なかさき道/こくら道 街道は右折
伊勢屋本町から点屋町へ
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13:48 天神橋の架かる水路 左が点屋町 右が六座町

六座町
天正19年(1591)中世期から栄えていた市を 多布施川上流の蛎久(かきひさ)から当地に移したことが始まり
北面天満宮と共に移転した 穀物座・木工座・金銀座・縫工座・煙硝座・鉄砲座の六座が町名の由来となった
六座町は佐賀城下では一番古い町であったが 市場として江戸期を通じ繁華な町筋であった

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北面天満宮は 現・鍋島町蛎久に肥前国の国府が置かれた時代に 菅原道真の心霊を祀り市場に鎮座し
一国一社と定められた天満宮であった 鍋島直茂は城下町割り造営の際 市場の六座を当地へ移すべく
市場の鎮護であった天満宮の遷座を 天徳寺住持の竹庵西堂に命じ 天正3年(1575)に遷座した
現在の神殿は 元禄15年(1702)に改築されたものである 神門の梁に鎮座する河童像は六座町の守護とされるが
何故か内向きに目を光らせ 外に尻を向ける これは「ドンマイ・ドンマイ 屁のカッパ」なのか?
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六座町振返り
北向き天祐寺川 左・長瀬町 右・六座町
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六座町と長瀬町で六長橋 明治の石橋
長瀬町 西念寺
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長崎街道のレリーフ 籠屋
長崎街道のレリーフ 商人と武士?
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イルミネーション 日新こども園のトナカイ
長瀬町の新しい道標 右折
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長瀬町
佐賀城下西端の町 多布施川上流の蛎久の対岸北部にある長瀬村から刀鍛冶の橋本家をはじめ刀匠及び刀鍛冶を
城内へと移住させたことが長瀬町の由来となった 刀鍛冶の他 鞘師・弓師・鉄砲鍛冶などの武具に関する職人や
鋳物師など職人の多い町で 幕末には141世帯704人が街道を挟んだ地域に暮らしていた
嘉永3年(1850)に町の北側に築地反射炉が築かれ 刀匠や刀鍛冶などが参画し日本初の鋼鉄製大砲が鋳造された

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長瀬町3-37 刀匠近江屋敷跡
長瀬町5-40 刀匠肥前忠広.忠吉屋敷跡
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長瀬町5-53 江戸時代の道標 (左)なかさき道 (右)こくらみち (南)いさはやとかい場(諫早渡海場)
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米穀商を営んでいた北島邸
明治末期の建築で 街道に面した主屋(店先)の間口は4間半あり 土間を広く取り複列5間取りの平面となっている
10畳敷の大広間には 床・棚・仏壇・平書院を備え長押をまわす 屋根はT字型で平入りの主屋は入母屋造
外壁は軒裏まで漆喰で塗り込めた土蔵造で 2階の縦長窓には防火扉を付け 1階には煉瓦造の防火壁と戸袋を備える
太い軸組など当時の伝統的な建築様式を数多く取り入れた 明治期を代表する町屋建築のひとつである

北島邸の西にある鯰橋が城下及び長瀬町の東端となり ここから扇町橋(高橋)までを一括して
嘉瀬郷八戸宿(かせごうやえしゅく)と呼んだ なおも鯰橋から地蔵橋までを嘉瀬郷八戸宿のうち八戸新宿
地蔵橋から番所までを八戸古宿 番屋から扇町橋(後に高橋)までを高橋宿と細分して呼んだ

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14:22 嘗ての城下西端 鯰橋 渡れば八戸新宿
振り返り 鯰橋と長瀬町
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八戸新宿のジグザク道 城下防御のためノコギリ型の家並みが続く
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10時~17時まで「まちの休憩所」として開放される明治40年創業の旧枝梅酒造株式会社
トイレ休憩ができる他 数棟の建物が開放されて酒造関係の展示物もある 旧主屋は食事処「酒の蔵えん」として
11~14時はランチを提供 17~22時は居酒屋として営業する 定休日は月曜となっている
竃帳によると嘉永7年(1854)足軽身分の下村家が八戸新宿で造り酒屋を始めたとあり
その後 明治20年(1887)頃に今の塚原家が事業と屋敷を買い取り「塚原酒造場」とした
明治40年(1907)頃には窓乃梅酒造の三男・古賀虎三郎が相続したが 急逝のため四男・喜六が塚原家を相続し
枝梅酒造場を創業した 「窓乃梅の分家=枝梅」これが枝梅の由来である 酒造は昭和のはじめ頃に閉業した
公式サイト:https://edaume.jimdofree.com/
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倉庫・麹室・東の蔵・北の蔵
精米所内 精米機と枝梅の菰樽
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14:33 左は「酒の蔵えん」 ノコギリ型の家並
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地蔵橋
八戸地蔵尊
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久保薬局屋根看板 城下最古の生薬屋
本庄江番所跡の枡形道
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本庄江川堤から見る高橋宿
本庄江川と扇町橋(後に高橋)

高橋
高橋は西の出入口にあたる場所で 本庄江川を挟んで加瀬村の大字扇町があり 架かる橋は扇町橋と呼ばれていた
江戸時代に入っても 寛永の頃までは番屋まで家もなく周囲は田圃であった 後に長崎街道の往来が増えると
佐賀藩城下に近いという地利と 街道及び河川という交差地によって川湊ととして発展した
扇町橋も川を行き交う舟の帆柱に合わせ 桁を高くしたことから高橋と呼ばれるようになり
橋の東詰から番屋までが高橋宿と呼ばれるようになり 下流の厘外・今津・相応津と同様 扇町と共に繁栄した
川湊には 天草や八代方面からの川船が多く出入して バラス・木炭・薪・カライモなどを運んできた
多い日には14-5隻の船が入り 市が立ち近隣からの買い物客で賑わっていた 宿場には呉服屋・米屋・料理屋が
軒を並べ西の今宿ともいわれた 対岸に続く扇町は有名な鍋島緞通の生産地で
扇町出身の古賀清右衛門を元祖とする「扇町毛氈」の名産地となっていった

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現在の高橋(扇町橋)
本庄江川 上流側
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高橋西詰の新しい道標
14:50 扇町 長崎街道は国道207号線に合流
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