2022.05.27 福岡県八女市本 八女中央茶共同組合 八女中央大茶園 展望所

昭和43年(1968)農業経営規模拡大と八女茶の一大生産基地を形成するため 県営パイロット事業として
100haに及ぶ山林を開発し 改良山成工法によって緩やかな傾斜を持つ約70haの大茶園が造成された
茶園を見下ろすこの展望所は 元々五社神が鎮座する標高180mの山を15mほど切って平台地としたもので
十周年を迎えた昭和52年(1977)元位置の真下に社殿が建立され 境内地および展望所として整備した

五社神に祀られる祭神は大玉命・武雷命・斎王命・天児屋根命・姫大神の五柱であり
稲作に不可欠な「雨乞いの神」として崇拝され 祭事として9月15日には各町内より里芋煮を奉納していた

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国土地理院空中写真 丸印が展望所
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展望所まで離合可能な舗装道路が通じる
五社神境内の展望所 トイレあり
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五社神
慰霊観音像
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標高168mから俯瞰する広大な筑後平野 有明海の彼方に多良岳・経ヶ岳も遠望できる
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八女中央茶協同組合工場
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八女中央茶協同組合工場前から展望所
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2022.05.27 岩戸山古墳と八女古墳群

広川町西南部から八女市域北部に及ぶ丘陵地帯に 4~7世紀にかけて築造された古墳が存在する その数は
前方後円墳12基 装飾古墳3基を含む約300基を数える これらの古墳は 西暦527年にヤマト政権にあらがい
武装し反乱を起こした古代北部九州に勢力を持つ豪族の筑紫君磐井とその一族の墳墓と考えられている
後世に「磐井の乱」と呼ばれるこの武力闘争は大規模で 筑紫国北部九州の独立戦争であったとの見方もある
丘陵には 4世紀頃の方形周溝墓や円形周溝墓から後の前方後円墳に至る多くの古墳が存在するが
最古の前方後円墳は5世紀前半に築造された石人山古墳である
同古墳は筑紫君磐井の祖父の墓と推定されており その名の通り埴輪ではなく石人石馬と称される
石造物を立てるのが特徴で地方色として他の古墳にも反映されている 九州北部で最大の前方後円墳として
現存する岩戸山古墳は筑紫君磐井の墓と伝わる 6世紀後半には前方後円墳がなくなり以後は円墳の時代となる
大正11年(1922)に初めて乗場古墳が国の史跡に指定され その後 岩戸山・石人山・善蔵塚・弘化谷古墳が
国の史跡に指定された 昭和53年(1978)丸山塚・丸山・茶臼塚古墳を追加 全体の名称を八女古墳群とした


福岡県八女市吉田 岩戸山古墳
東西を軸に西向きに造成され 北東隅に別区(べっく)と称される43m四方の方形区画を有する特徴がある
出土した須恵器の年代鑑定から古墳時代後期・6世紀前半の築造と推定され 筑紫君磐井に関する記録とも
一致することから磐井が被葬者と推定されている 墳丘部の発掘は行われておらず非破壊的探査では横穴式の
石室が確認されている 墳丘の南麓に大神宮が建立されているが 古くは後円部の墳頂に鎮座していた
墳丘及び周辺や別区から石人石馬と称される石造物が100点以上出土し その数や種類は他の古墳を圧倒する
石造物は 人・動物・器物の3種類に大別され実物大を基本とするという特徴を持っている

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2010年撮影の国土地理院航空写真
1.岩戸山古墳 2.別区  3.岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷(2015年11月開館)
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岩戸山古墳周辺マップ
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岩戸山古墳 前方部北西角
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周堤
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南西部にある鳥居
この先にあるのは大神宮だが 扁額に天の文字
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奉納仏堂
江戸時代の神仏習合による奉納仏
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墳丘上にある岩戸山大神宮への階段 鳥居には大神宮の扁額
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前方墳の頂にある岩戸山大神宮神殿
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前方墳から後円墳側を見る 墳丘のくびれ部分
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後円墳部分
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大神宮跡
大神宮舊(旧)跡
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国指定史跡 八女古墳群 岩戸山古墳
八女丘陵は東西10数kmにおよぶ丘陵である。 この丘陵上には11基の前方後円墳を含む約300基の古墳が
つくられ、八女古墳群と呼ばれている。 八女古墳群のほぼ中心に位置する岩戸山古墳は九州最大級の
前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、高さ約18m、西側の前方部幅約92m、
高さ約17mをはかり、周濠、周堤を含めると全長約170mになる。
墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。

古墳の東北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している

岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても
古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。

古墳の墳丘・周提・別区からは阿蘇凝灰岩でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。
種類も人物(武装石人、裸体石人等)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?(犬?)等、
器材(靭=ゆぎ・盾・刀・坩=つぼ・蓋=きぬがさ・翳=さしば等)があり、円筒埴輪などとともに
古墳に立てられていた。 石製品は埴輪(土)を石製に代え、さらに実物大を基本としたところに特徴がある。

筑紫君磐井(つくしのきみいわい)
約1500年前の古墳時代後期に当地を含めた現在の福岡県南部地域を拠点として活躍した大豪族である。

奈良時代に編纂された古事記や日本書紀には磐井に関する記述が残っており、日本書紀では
「磐井は西の戎(ひな)の姧猾(かだましきやつこ)なり。 川の阻(さが)しきことを負(たの)みて
庭(つかへまつ)らず。」とされ、悪賢く朝廷に仕えない人物と評価されている。

また、磐井は西暦527年に火国(ひのくに)・豊国(とよのくに)(現肥前・肥後・豊前・豊後)と共に
叛乱を起こし、翌528年には筑紫の御井郡(みいのこほり=現久留米市の三井周辺)において決戦が行われ、
磐井は斬られたとも記されている。 しかし、筑後国風土記(逸文)には「豊前(とよくにのみちのくち)の國
上膳(かみつみけ)の縣(あがた)に遁(のが)れて、南の山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に
終(おう)せき」とあり、現在の豊前市付近に敗走したと伝えられている。 この記述は、磐井が地域の
盟主であるが故に生かしておきたいとの郷土民の強い想いであったのかも知れない。

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昭和2年3月建立の大神宮鳥居 大神宮は遷座はその頃で国の史蹟に指定された後のことである
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岩戸山古墳「別区」
ここは「別区」といって約43mの正方形になった台地です。『磐井の乱』(527年)後、約200年を経た
奈良時代につくられた、筑後国府時風土記にこの別区のことが次のように記されています。
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「東北の角に当りて一つの別区あり、号けて衙頭と曰ふ。衙頭とは政所なり。其の中に一の石人あり、
縦容に地に立てり、号けて解部と曰ふ。前に一人ありて、裸形にして地に伏せり。号けて偸人と曰ふ。
生けりしとき、猪を偸みき。仍りて罪を決められむとす。側に石猪四頭有り。 贜物と号く。 贜物とは盗物なり。
彼の処に亦石馬三疋、石殿三間、石蔵二間有り。」
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すなわち盗人が猪四頭を盗んでその罪を裁かれる状況と解釈されるような石製品配置がなされたところが
この「別区」であり、また「別区」は祭儀の場所であったとも考えられています。
全国の古墳の中でこのような「別区」を有し明確に現代まで残っているのは、ここ岩戸山古墳だけです。
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岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷
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弥生の広場 当時の道具と工法で再現された建物

福岡県八女市宅間田 丸山塚古墳
丸山塚古墳は直径約30m 高さ5.3mの円墳で もとは古墳を取りまく周提もあったらしい 丸山塚古墳の
周辺には大型の古墳が多く 北側200mの所には善蔵塚古墳(全長90mの前方後円墳 国指定史跡)
茶臼塚古墳(直径24mの円墳 国指定史跡)がある

丸山塚古墳内部の構造は南側に入口がある複室構造の横穴式石室で 石室の全長は8mである
石室内部の玄室奥壁と玄室入口の袖石 全室入口の袖石には装飾文様が描かれている

古墳の年代は石室構造などから6世紀後半頃と推定されている

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丸山塚古墳の装飾文様
玄室の奥壁上部には鉤形の蕨手文が 下部には連続三角文が赤と緑の二色で彩色されて描かれている
玄室入口の両袖石には対角線状に組み合わせた三角文があり 赤・緑・黄色の三色で描かれている
全室入口の両袖石にも刻線によって対角線状に組合せた三角文を 赤・緑・黄色の三色で彩色している

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福岡県八女郡広川町六田 善蔵塚古墳
善蔵塚古墳は 全長95mの前方後円墳で広川町にある 八女古墳群における有力古墳で 岩戸山古墳
石人山古墳に次ぐ第3位の規模を誇る 前方部を西に向け2段築成の墳丘には葺き石と埴輪が巡らされていた
築造時期は 出土した円筒埴輪などから6世紀前半から中頃と考えられている
八女市の円山塚古墳に隣接するが 比較して古墳公園を含む周辺の手入れを怠り荒れ放題の印象が強い

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後円部
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前方部
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善蔵塚古墳公園
八女中央茶園からナビ任せで行くと 丸山塚古墳のある丘の上に案内されるが駐車場がない
古墳公園からは階段を上る必要があり 丸山塚・茶臼塚・善蔵塚古墳を巡る場合は丸山塚の駐車場が便利
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公園管理は広川町役場
芝生広場も雑草広場
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