今回の「車中泊の旅」は 延岡から日向へ2泊3日の旅
第一日目は 午後3時に出発し延岡の「道の駅・北川はゆま」へ 宿泊地の「道の駅」には午後7時に到着
翌日の二日目は 早朝から行縢山へ登り(山歩記・宮崎の山参照)正午に下山後 延岡市の城山公園へ
その後 日向市・日向岬の馬ヶ背と大御神社を散策して 「道の駅とうごう」で車中泊する
市指定史跡 延岡城跡 別名:県城(あがた城)・龜井城
延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6~8年(1601~1603)にかけて築かれました。
<掲示板の有馬家中延岡城下屋敷付絵図・明治大学博物館所蔵>
元種は、松尾城(市内松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、
五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。当時は県城と呼ばれ、二つの河川を外堀とし、
城内に内堀がつくられました。城は、天守台、本丸、二 ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、
藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の二郭で構成され、門・櫓などが整備されました。
なかでも、ニ ノ丸にそびえる高さ22m・総延長約70mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する
石垣となっています。(礎石の一部を外すことで崩れ落ち、一度に敵を千人殺すと伝わる。)
慶長18年(1613)、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県南島原市)の有馬直純が五万三千石で入封しました。
直純の嫡男・康純の時、承応元年~明暦元年(1652~1655)には城の大修築が行われ、
三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に楚鐘(初代城山の鐘・延岡の地名が初見する
最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。しかし、康純の嫡男・清純(初名:永純)の代の
天和2年(1682・天和3年説もあり)、火災のため三階櫓などは焼失し、以後三階櫓は再建されませんでした。
元祿4年(1691)、清純は無城の越後国糸魚川(新潟県糸魚川市)に転封となり、
さらに越前国丸岡(福井県坂井市)に移封されました。
その後、日向国初の譜代大名として、三浦明敬(みうらあきひろ)が下野国壬生(栃木県壬生町)から
二万三千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。
明敬は、正徳2年(1712)、三河国刈谷(愛知県刈谷市)に移封され、牧野成央(まきのなりなか)が
三河国吉田(愛知県豊橋市)から八万石で入封。延享4年(1747)には、陸奥国磐城平(福島県いわき市)から
内藤政樹(ないとうまさき)が七万石で入封し、明治4年(1871)の廃藩置県まで八代続きました。
平成22年10月 延岡市教育委員会
2016.05.19 延岡市・延岡城址と日向市・馬ヶ背
江戸中期まで頻繁に変わる城主
三ノ丸跡
石御門跡
三階櫓廻りの石垣
石御門跡
延岡城の大手口(北大手門)に対する搦め手(裏口)に相当する。城山公園南駐車場付近から延びる旧登城道を
登った地点にあり、岩盤を削って門が造られ両側に岩肌が露出していることからこの名称がついたと思われる。
また、真上には侵入する敵を攻撃しやすいように三階櫓廻りの石垣を巧みに配置している他、
大手口に侵入する敵から逃れるルートにもなっていた。
三階櫓跡地
天守台跡
天守台から見る大瀬川と大煙突 現在は煙突の主・旭化成の企業城下町
天守台の桜
桜と鐘つき堂(出典:延岡観光協会)
内藤家文書の「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」によると、「天守台」とあるが天守閣はみられない。
これは、天守閣がない南九州の近世城郭の特色にもなっている。また、明治初年頃の絵図には鐘つき堂の
前身となる太鼓櫓があったとされるが、同十年の西南の役で焼失した。
城山の鐘
明治11年(1878)から時鐘として戦前までは毎時24時間撞かれてきた 過去100年以上は同じ家が代々
携わってきたが 現在の鐘守は延岡市が公募し選任した夫妻である 今は 6時から17時まで2時間毎に一日に6回
自動式機械によるものではなく「鐘守」によって撞かれている これは全国を通じ延岡のみである
現在の鐘守夫妻は 明治より数えて7代目となり「鐘つき堂」隣の宿舎に住んでいる
毎年6月10日の「時の記念日」には 時を告げる鐘と鐘守夫妻に感謝する「城山の鐘まつり」が開催される
本丸跡地の内藤政挙(最後の藩主)像
本丸の石段
二階門櫓跡地
千人殺しの石垣
千人殺しの石垣と管理事務所
平成5年(1993)復元の北大手門
日本一の柱状岩「馬ヶ背」
九州の東海岸には「日豊海岸」と「日南海岸」の2つの国定公園がある。その内、日豊海岸国定公園は、
北部の大分県佐賀関町から始まり、南へ延岡市、門川町を経て日向市の美々津七ツバ工まで延長70数キロメートルに
及ぶ海岸線の磯と島である。この日豊海岸国定公園の南端に位置する日向市の美しいリアス式海岸は、
日向市南部を流れる耳川河口付近を起点として、南から北へ、権現崎公園、美々津海岸、平岩〜伊勢ヶ浜
細島半島南部〜日向岬一帯〜門川町遠見山へと延々20キロメートルにわたり柱状節理の海岸が続いている。
日向市の海岸は、白砂青松の砂浜と柱状節理(柱状岩)海岸とから成っている。
特に「日向岬」の柱状岩では、「大御神社」の斜柱・「干畳敷」の金扉風・銀展風 ・「小松崎」の孤立石柱や
「塩屋崎」の板状岩など数多くの岩種が見られ、中でも圧巻は、 日向岬(細島半島)の突端に位置する「馬ヶ背」の
奥行き200m幅10mの海水路の両岸に、高さ70mで垂直にそそり立つ柱状節理の断崖絶壁である。
ここは、太平洋の水平線を広く見渡すことのできる景勝地として日豊海岸国定公園を代表する観光地でもある。
これらの絶壁は、約1500万年前の火山噴火によって流れ出た溶岩が冷え固まった後、波に浸食されて
形成されたもので、溶結凝灰岩による柱状節理としては国内最大規模といわれている。
「日豊海岸国定公園」の柱状岩は立体的で見るからに荒々しさが特徴で、
「日南海岸国定公園」の「鬼の洗濯岩」といわれる波状岩が平滑な感じであるのとは対象的である。
<国土地理院空中写真>
馬ヶ背観光案内所に隣接する駐車場から遊歩道が整備されており 細島灯台なども巡ることができるほか
馬ヶ背へ向かう手前の展望台からは馬ヶ背のそそり立つ断崖絶壁を眺めることができる
「馬ケ背」の名称は 盛りあがった岩肌を海から見ると『馬の背中』に似ていることから名付けられた
高さ70mの断崖
駐車場の馬ヶ背茶屋<上>と遊歩道
海水路の最奥部
細島灯台
灯台のある細島は、日向市東部にある陸繋島で天然の良港を形成しており、
古くは宋・明との貿易の寄港地として栄えた。
徳川時代、日向諸大名の参勤交代は細島・大阪間を御座船で渡航したといわれ、
当時既に「常夜灯」が設置されていたと伝えられている。
明治末、海運の発展に伴い細島港の整備が進んだので、宮崎県が灯台を建設、明治43年(1910)5月10日に点灯した。
その後火災に遭い焼失したので同年12月、六角形煉瓦造に改築された。
昭和15年(1940)12月、国に移管され昭和16年にコンクリート造りに改築された。戦時下で予算僅少のため、
灯台建設には地元青年団が参加、勤労奉仕をしたといわれる。平成3年の改良工事で現在の姿になった。
施設の概要
位置 北緯32度25分25秒 東経131度41分08秒
光り方 単閃緑白互光 毎10秒に緑一閃光と自一閃光
光の強さ 白光110,000カンデラ 緑光100,000カンデラ
光の届く距離 19.5海里(約36キ口メートル)
高さ 地上から灯台の頂部まで 11.43メートル 水面から灯火の中心まで101.00メートル
これらの灯台が、日夜数多くの船人の命と賞重な財貨を人知れず救ってきたであろうことを想うとき、
これからも、この風光明媚な日向の海に美しい光と電波を投げかけ続けるよう祈念するものです。
第十管区海上保安本部。宮崎海上保安部
日向市 日向市観光協会
願いが叶う「クルスの海」
波の浸食作用により裂け目が「十字架」に また漢字の「叶」に見えることから名付けられた
願いが叶い十字架があれば 必然的に恋人の聖地となり鐘が備えられることとなる「今日この頃」
大御神社
祭神:天照大御神 別名「日向のお伊勢さま」と呼ばれる古社
大御神社
祭神:天照大御神 別名「日向のお伊勢さま」と呼ばれる古社
神殿全景 背後はボウズ山
柱状節理の親亀岩
子亀と奥に孫亀岩
入江の左右に 孫・子・親 三代の亀岩
子亀岩を俯瞰
神社に隣接する「日知屋城址」の石段
大御神社・摂社 鵜戸神社岩窟
奥から外を見ると「昇り龍」に見える
今日の宿泊地は 国道327号線を西へ約16kmの「道の駅とうごう」
いっき東郷ショッピングセンターが隣接し ショッピングセンター内にスーパー「やまさ」と酒店があるので便利
しかし近辺に「立ち寄り湯」が無いので少し残念