2014.03.15  鹿児島県霧島市の旅 横川町

新川渓谷温泉郷のラムネ温泉でミニ湯治 霧島市を旅する
<横川駅舎・嘉例川駅舎・石橋>と<田の神>は別途掲載
横川駅周辺を散策
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廃業店舗
旧薩摩街道
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国登録有形文化財 明治末期の池田家住宅主屋 「米穀肥料池田商店」
6間半×6間半 入母屋瓦葺の木造2階建  1階は土間と南側に座敷を配した伝統的町家
2階は板張に上げ下げ窓を並べた洋風の造りで際立つ存在
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国登録有形文化財 明治末期の池田家住宅石倉 木骨石造の2階建倉庫 5間×2間半 腰部石露積・上部漆喰塗
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石倉内部
古い看板
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主家軒下
他にも大正モダン的建築物がある

国登録有形文化財 大正5年(1916)森山家住宅石倉
9間×4間 切妻瓦葺 木骨石造2階建
南面に下屋庇を差し掛けてアーチ形の戸口を2箇所設ける他 下屋西端を石壁で囲い庫室とする
倉庫の規模が大きく また敷地周囲に高石塀を築き 商家の繁栄を物語る 現在は酒販「もりやまセンター」
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石囲いの庫室
高石塀
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裏から見た石倉
路地の石塀
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駅前通り 横川百貨店
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3月15日 丸岡公園の大島桜はほぼ咲き揃う
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丸山から冠雪した霧島山を遠望

2014.03.16  鹿児島県霧島市の旅 霧島町

高千穂峰に朝から登山後 午後は霧島神宮周辺を散策
<高千穂峰登山>と<田の神>は別途掲載
霧島神宮
主祭神:天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(アメニギシ クニニギシ アマツヒコ ヒコホノ ニニギノミコト)
舌を噛んでしまいそうな名前だが 天照大神の孫で一般的には「ニニギノミコト」で通る
6世紀・欽明天皇の時代に高千穂峰と火常峰(御鉢)の間に社殿が造られたのが始まりとされている
今も古宮として祀られているが 火山中にある立地のため焼失が絶えず
10世紀の天暦年間に瀬多尾越(高千穂河原の古宮址)に遷されたが 噴火により度々焼失し
室町時代の文明16年(1484)薩摩の守護・島津忠昌の命により現在地に再建された
その後も幾度か焼失を繰り返し 江戸時代の正徳5年(1715)薩摩藩主・島津吉貴の奉納により再建されのが
今に続く社殿である 元々は高千穂峰に対する山岳信仰で 明治初期の神仏分離令までは
修験道による権現信仰の場で西御在所霧島権現と称していた 本地堂には十一面観音が祀られ
別当寺として天台宗の華林寺(花林寺)がある 霧島山を中心とした霧島六所権現信仰の中心であった
江戸時代末期 すでに山頂には天津日高彦火が突き刺したという天の逆鉾があったとされ
明治以降は 権現信仰が廃され「瓊瓊杵尊」が主祭神とされた
明治まで霧島山一帯が神宮の境内であったが 明治4年(1871)の廃藩置県により
霧島山の頂上に県境が引かれ宮崎側が境内から除外された さらに 明治15年(1882)にも78平方kmの
広大な土地が削減された 第2次大戦後は 政教分離策で宗教法人となり山林の大部分が国に返還された
後に祭典行事に必要とされる789haが宗教法人へ返還され現在に続く
境内にある神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている
贅をこらす華麗な朱塗りの社殿は いずれも重要文化財に指定されており「西の日光」と別称される
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御神木 樹齢約800年 樹高35m 霧島杉とも呼ばれ南九州の杉の祖とされている
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大鳥居と神奈備の高千穂峰 山に元宮が鎮座する
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丸尾の滝 落差4m 虹が架かる
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霧島温泉市場

2014.03.17-18  鹿児島県霧島市の旅 溝辺・隼人・国分・福山・姶良加治木町

新川渓谷温泉郷のラムネ温泉でミニ湯治 霧島市を旅する
溝辺町から姶良市・隼人・国分・福山を散策
<石橋>と<田の神>は別途掲載
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溝辺町茶畑と空港と霧島と
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加治木町 龍門の滝の上部にある かわせみの滝
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<上>龍門の滝(上部)
<左> 龍門の滝
   幅:43m 落差:46m
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龍門の滝 滝壺
薩摩街道・龍門司坂(加治木町)
旧薩摩街道・大口筋 木田の高井田から毛上に通ずる石畳の坂 寛永12年(1635)から100余年を費やし完成した
現在は464mが残存するが 創建時の全長は1500メートル余りだった 「歴史の道百選」に 選定されている
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国指定史跡 大口筋・ 龍門司坂(たつもんじざか)
江戸時代の主要街道(薩摩では「街道」を「筋」と呼ぶ)のうち、鹿児島城下を起点として北上し、
白銀坂を通り加治木で宮崎方面に向かう「日向筋」と分岐して、大ロを経由して熊本へ続く街道を
「大口筋」といいます。龍門司坂は、杉木立と木もれ日、そして苔むした石畳の風情が美しい坂道で、
石畳敷きの平均幅は約4m、最大幅は7mあり、全長は1500mと考えられていますが、集落内にある両端部は
舗装されており、現在は山間部の486.8mが当時の状態で観ることができます。
この石畳はあまり段差をつけない石敷きが特徴で、斜面に敷かれた石畳がずれないよう、縦に深く埋める石列を
地形に沿って設ける工夫が施されています。また、傾斜の強い場所などには側溝を設けるだけではなく、雨水が
ーか所に集中してのり面を浸食しない工夫も随所にみられ、薩摩街道の中でも大規模に整備された坂道です。
古文書『加治木古老物語』によると、龍門司坂は寛永12年(1635)に造られました。
私領である加治木島津家が寛永8年(1631)に創設されていますので、藩直轄地であった溝辺郷や
加治木領であった竹子(たかぜ)地区と結ぶため、最初に手がけた大工事だったことでしょう。
古文書によるとこの坂は、「龍門司街道」、「だつもじ坂」、「龍門寺之坂」、「たつもんし坂」などと
表記され、近くに「往古龍門寺ト云寺有リ、於テ云」と説明してある文書もあります。
龍門司坂の近くには敷設に使用した凝灰岩、通称・樋ノ迫石(ひのさこいし)の採石場があり、そこには
加治木島津第四代久門直筆といわれる「山神」の祠(ほこら)が、作業の安全を願って建立されています。
おそらくこの頃、薩摩藩は領内において大規模な街道整備を実施したのでしよう。
加治木は栗野からえびの市につながる加久藤筋(かくとうすじ)や、そこから人吉地方へ続く
球磨筋(くますじ)なども大口筋同様につながっており、古代から中世にわたり
幹線道であった川内−蒲 生−国分ルート上でもあって、また湊(みなと)では中世から海外貿易や、
産物の積み出しも盛んに行われていました。人や物、情報・技術が行き交い、交易の街として繁栄してきた姿を
龍門司坂は伝えているのです。明治10年2月、西南戦争では大勢の見送りの人々に送られて、
総数六千名とも言われる薩軍兵士がこの坂道を登って熊本方面を目指しており、
別府晋介に率いられた六番(加治木隊)・七番大隊は大口筋を通って佐敷(熊本県芦北町)へ、
西郷隆盛率いる本営は加久藤越えから人吉へ向かっています。
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隼人町 鼻んす
内山田の「鼻んす」は丘に開けられたニ連の隧道(トンネル)で、今から約二百五十年前に、用水路を通すために
造られたものです。用水路は、「宮内原用水」といい、用水の取水口は、天降川上流の水天渕にあります。
用水路の工事は、江戸時代の正徳元年(1711)から正徳六年(1716)にかけて行われました。工事の目的は、
人工の水路を造り、天降川の水を引き、国分平野の原野を水田に変えるためでした。それで地元では
用水路を「新田川」と呼びます。このトンネルの形が、鼻の穴に似ているために、地元の人は
「鼻んす」と呼んでいます。鼻んすは、二連アーチ型のエ法を採り、トンネルがくずれるのを防いでいるのです。
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鼻んすは、江戸時代の土木工事の技術・工法を知る上で非常に貴重な遺産です。
 平成14年に道路が通り、一部削られましたが、消滅をまぬがれました。
この遺産を今後も大切に守り伝えていきましょう。
霧島市教育委員会
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国分 大隅国分寺跡
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福山 坂元醸造(株)黒酢畑 桜島が霞んで見えない
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坂元のくろず「壺畑」情報館
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