2011.10.20 大分県豊後高田市 昭和の町

豊後高田市中心部の商店街は 昭和30年代までは国東半島随一の商店街として繁栄したが
昭和40年(1965)大分交通宇佐参宮線(豊後高田−宇佐−宇佐八幡)の廃線を迎え 農業・製造業の衰退による
人口流出に歯止めがかからず 過疎化とモータリゼーション大型店舗進出が重なり
「犬と猫しか通らない」と言われるほどに寂れた状態となる この衰退が店舗の建替えが進まなかった一因となり
昭和の姿を留めたまま眠りにつくことになった

町の再生は疑似洋風建築の一階棟に揚げた外壁を外すことから始まった 外壁の中には出桁造の伝統的商店の姿が
古い看板と共に眠っていたのが発見された 平成13年(2001)に始められた「昭和の町」復活計画は
商店街に残る約7割の古い商店を 毎年少しずつ再生しながら10周年を迎えた

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平成18年(2006)に 第2回JTB交流文化賞優秀賞を受賞
2007年に昭和の町の活性化を中心とした『豊後高田市中心市街地活性化基本計画』が内閣総理大臣の認定を受けた
しかし 観光客の増加に伴い 経済的効果効優先の新しい看板建築や「昭和の町」にそぐわない建築物も見られ
「昭和の町」の景観保持に課題を残す状態となりつつある

Link:昭和の町公式サイト

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大分交通宇佐参宮線・豊後高田駅跡
明治44年(1911)1月 鉄道敷設申請 大正3年(1914)3月 資本金15万円で宇佐参宮鉄道会社を設立
大正5年(1916)3月 豊後高田−宇佐−宇佐八幡間 8.8kmが開通
昭和20年(1945)4月 大分交通へ戦時統合される 昭和40年(1965)8月21日 全線廃止
廃止時の駅 豊後高田駅−封戸駅−宇佐駅−橋津駅−宇佐高校前駅−宇佐八幡駅 軌間:1067mm 非電化単線
大分交通宇佐参宮線
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延長135mの駅通り商店街入り口
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国道に接する延長186mの稲荷商店街
稲荷通りの名は かつてこの通りに存在したお稲荷社が由来となっている
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豊後高田市新町 旅館・平清水 2025年現在閉業解体 「高田そば 翔」と駐車場に
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町中掲示板
〔 ようこそ豊後高田”昭和の町”へ 〕
豊後高田市街地の歴史は 安土桃山時代から江戸時代前期にかけて 竹中半兵衛のいとこや
徳川家康のひまごによつて築かれた城下町に端を発します 寛文9年には島原藩(長崎県)の飛び地となって
その年貢米を積み出す港町としても栄えました 今でも城下町や港町としての町並みの骨格はそのまま残り
道幅も当時とほとんど変わつていないとさえいわれています
明治時代を迎えるとその町並みの骨格の上に商店街が立地し 昭和30年代まで国東半島一の賑やかな”お街”として
繁栄を謳歌しました しかし全国の小さな町の商店街が どこもきっとそうであったように
豊後高田の町も高度経済成長期を境に 徐々に元気を失い 平成の時代を迎えます
 豊後高田”昭和の町”は そんな商店街に再び元気をよみがえらせようと 平成13年9月に着手した町づくりです
商店街が元気だつた最後の時代 昭和30年代を旗印に掲げながら 観光客のお客様と地元客のお客様が共生できる
町づくりをめざして 今まさに第一歩を踏み出したばかりの”昭和の町” 貧しく不便でも生きる手ごたえがあった
あの時代に 一瞬でも思いを馳せていただければ これに過ぎる喜びはありません
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展示施設・昭和石油 昭和37年のガソリン価格
新しい看板建築の昆虫の館 そぐわない雰囲気
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ウエガキ薬局・こうこう屋(漬物店)・二代目餅屋清末 杵や
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肉の金岡・各種コロッケが美味い
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観光駐車場へ抜ける近道でもある野村家屋敷跡の「出会いの里」
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「昭和の町」コンセプトから逸脱したような由布院風の観光施設・建築物である
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国登録有形文化財・旧共同野村銀行社屋
富豪野村家の祖 野村礼次郎は明治45年(1912)に共同野村銀行を設立し 昭和8年(1933)に本社事務所を建設
これが現在の建物である 共同野村銀行は第二次世界大戦による戦時金融統制の一環として
大分合同銀行(現・大分銀行)に吸収合併された 戦後昭和23年(1948)2月 西日本無尽株式会社
(後西日本銀行・現西日本シティ銀行)が当建物を買収し高田支店となる 平成5年(1993)西日本銀行が移転し
大分市の投資家が購入したが利用されず廃墟同然の姿となっていた
平成16年(2004)10月大分石油(株)ホテル清照がこれを買収し 補修の上 保存活用する事となった
店舗の内部は 一階の道路に面した部屋は吹き抜けで自然の光あふれる大きな空間になっており
キャットウオークを巡らし優雅さを表現し 外部は正面壁のタイル張り 中央に銅製模様欄間付の出入り口
その上壁に3本の装飾円柱 高い軒蛇腹には上部の唐草模様と彫刻装飾を施してあり
古典主義的な洋式をデザインした優れた姿形をもっている
大分石油(株)・ホテル清照
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千嶋茶舗
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左・新町通り商店街 右・中央通り商店街  角の雑貨屋・悠遊館 菓子禅高田屋(写真右)
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新町通り商店街
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名称:旧大分合同銀行社屋
建設年代:昭和8年(1933)  建築構造:木造平屋一部2階建・瓦葺  建築面積:建築面積153u
旧大分合同銀行社屋は 昭和8年に建設されて以来70年間にわたって 銀行や信用組合として使用され続け
近代・現代地方社会への銀行制度の展開を物語る歴史的景観を留めている 建物は 平入の土蔵造平屋建の背面に
入母屋造の木造2階建を接続している 正面外観は漆喰仕上げの白壁に瓦葺の下屋を掛けて 腰壁を石張りとする
このような伝統意匠を基調としつつ 半円アーチの高窓や下屋出桁のアーチ状の持送りなどに洋風意匠を取り入れ
近代的な街路景観をつくっている
豊後高田市教育委員会
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新町通り(左)と宮町通り(右)交差点 通称:四つ角
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中央通り商店街
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安東薬局
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四つ角・亀乃屋呉服店
北宮町通り
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計屋(はかりや)醸造元
慶応3年(1867)創業 昭和3年(1928)建築 一店一宝:「一升量り売りの醤油甕」
江戸時代幕末創業の老舗で 牛馬をつなぐための金具が遠い昔を偲ばせます
力ネ音の商標で知られる醤油づくりは2代目の金谷音市さんから 「昭和30年代、各家が一升瓶をもって
量り売りの醤油を買いにきていた頃の方が、リサイクルが発達していたとは」4代店主の金谷喜一郎さん
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井ノ口マーケットの古い漆喰看板 「大甘の菓子特約店 井ノ口三春堂」
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北宮町通り・永野ガラス店

山城屋酒店と旧家が並ぶ南宮町通り

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中央通り商店街に戻る
釘屋金物店
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テナントも入る瓦屋呉服店
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桂橋南詰に建つ旧共立高田銀行 右は桂川
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大正10年(1921)建設  “赤れんが” の名で親しまれてきた
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昭和32年の中央通り商店街 オート三輪が尻餅
高田城址石垣 築城は鎌倉時代と伝わる
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桂川を渡り陣屋階段までの旧玉津銀座街
桂陽小学校にある島原藩領境界石

豊後高田市の歴史

古代律令制で国東郡が発足 平安時代 来縄郷に宇佐神宮の荘園として田染の荘が開かれる
鎌倉時代初頭の建久7年(1196)に 大友氏家臣の高田重定によって高田城が築かれたと伝わるが定かではない
安土桃山時代に高田氏が改易され 文禄2年(1593)に豊臣秀吉の家臣・竹中重利が入封し城を拡張する
寛永16年(1639)家康の曾孫・松平重直が豊前国龍王(宇佐市安心院町)の陣屋から移り
城を増修築して居城とし 高田藩が成立する

正保2年(1645)重直の嫡男で城主の英親が 豊後木付藩(杵築藩)に転封となり高田藩と高田城が廃された
寛文9年(1669)に肥前島原に入封した松平忠房の豊前・豊後の飛地支配により旧本丸跡に
豊州陣屋が設けられた 市立桂陽小学校・市立図書館の敷地に土塁や水堀などの遺構が現存する
島原藩は 木蝋製造を奨励し 従来の製塩業と合わせ 基幹産業として発展した

明治4年(1871)廃藩置県により島原県の管轄を経て大分県の管轄となる
明治11年(1878)国東郡のうち高田村を含む51村の区域が分割され西国東郡となり 郡役所が高田村に置かれた
明治22年(1889)高田村が単独町制を敷き高田町が発足
明治40年(1907)高田町・玉津町・来縄村・美和村の2町2村が対等合併し 新制の高田町となる

昭和29年(1954)名称変更で豊後高田市となり市域に入る旧町村は 高田町・玉津町・来縄村・美和村・
 河内村・東都甲村・西都甲村・草地村・呉崎村・田染村の2町8村となった
平成7年(1995)豊後高田市・真玉町・香々地町が対等合併し(新制2代目)豊後高田市が発足

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石段上の「そば処 響(ひびき)」
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石段から見下ろす旧玉津町の家並み
鎌倉時代から続く陣屋の石段
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旧玉津銀座街
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カマダ美容室駐車場 ガレージコレクションの数々
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