2019.01.16 徳島県徳島市徳島町城内 徳島城址と徳島中央公園

鎌倉時代は伊予国地頭の河野氏が支配していたが 室町時代の至徳2年(1385)に細川氏が四国地方の
南朝方を討伐した後 現在の城山に館を築き助任川の風光を中国の渭水に例え 地名を渭津(いつ)
山を渭山(いやま)と名付けたとされる 阿波守護となった細川氏の守護代であった三好氏が
主家の細川氏に対し下剋上をはたらき 東四国から畿内の山城国までの八国を支配する勢力になったが
その後 三好氏は織田信長の軍勢と対立し 天正5年(1577)阿波の三好長治が敗れ全ての支配地を失った

天正10年(1582)に土佐の長宗我部氏が阿波を支配下に収め 天正13年には四国全土を平定したとされるが
早くも同年の豊臣秀吉による四国平定に敗北し土佐一国に減封された 代わって阿波国には蜂須賀氏が移封し
その統治は明治維新まで続いた 阿波国18万6千石の領主となった蜂須賀家政は徳島西部の一宮城に入ったが
早々に 平地にあった寺島城と山城を統合し大規模な平山城の築造を開始 天正14年(1586)に完成した
また築城に際し渭津の名を 渭山の東方にあった島の名である「徳島」に変えて 城と城下町の名にした

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国立公文書館デジタルアーカイブ 正保城絵図 阿波国徳島城之図 正保元年(1644)
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正保城絵図 阿波国徳島城之図 部分拡大

徳島中央公園
明治39年(1906)徳島城跡に開設された公園 平成18年(2006)徳島城跡が国史跡指定となった

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国土地理院 空中写真
P.東側駐車場(310円/1日)1.本丸跡 2.弓櫓石垣 3.西二の丸 4.東二の丸 5.数寄屋橋
6.鷲の門 7.下乗橋 8.徳島市立徳島城博物館 9.JR徳島駅
天正14年(1586)建築の天守は元和年間(1615-24)に破却 後に東二の丸に天守代用の三階櫓が建てられた
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標高61.6mの城山を見上げる 11:20
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菖蒲園を抜け本丸へ
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本丸への「とこどっこい坂」
本丸北側の埋門(うずめもん)跡
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本丸跡
徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。
本丸は標高約61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分のなかでは最も面積が広く重要でした。
本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、
弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。櫓は戦いの際には防御施設となりますが、
普段は武器を収めていました。藩主は城山麓の御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも
藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は
城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救いました。
本丸の出入り口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口「埋門」があり、
大名の非常時に対する備えがうかがえます。東二の丸には天守の代わりとなる三層の櫓が設けられていました。
一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。
三層櫓の1階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
西二の丸には鉄砲櫓と帳櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていました。
西三の丸の跡地には、現在水道配水池が設置されています

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本丸跡は約3500平方メートル(1060坪)の広さがある
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南西の方向 眼下に徳島駅 右手に眉山を望む
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野面積みの本丸石垣
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本丸西端の弓櫓跡
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本丸跡 西から東側を見る 春には桜が咲き花見客で賑わう
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弓櫓の石垣
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阿波青石による石垣
阿波青石は阿波名産の石として名を馳せ 吉野川右岸・剣山系の三波川層という地層から産出される
緑泥片岩のことである 産出地により下浦石・大谷石・佐古石・大野石・西山石・籠石・大神子石
森藤石・津田石・片解石・小島石・半田石があり 古くは古墳の石室にも使われていた
特に藩政時代からは銘石として採掘され 良質の石は現在も県外に搬出されている
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西二の丸 張(とばり)櫓跡
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西二の丸跡
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西二の丸石垣と西登城坂
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阿波青石の石垣
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西三の丸登城枡形
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本丸跡を見上げる正面・南は急崖となっている
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藩主御殿屋敷の正面枡形
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ピンク色の石は阿波赤石
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下乗橋(小見付橋)
城内の堀に架けられた木製の太鼓橋で、殿様の住む御殿への正面出入口にあたります。
この橋を渡ると枡形が設けられ石垣や門によって厳重に守られていました。
下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗り物から降りて歩いて渡ったことから由来しています。
明治2年(1869)花岡岩製になり、さらに同41年(1908)現在のように水平の橋に改造されました
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御殿屋敷正面の石垣に 所々使われているピンク色の石は
阿波青石と同じ地層から採石される同類の結晶片岩で「阿波赤石」と呼ばれる希少な紅廉片岩である
緑がかった青石とは補色関係にあり際立ち 特に正面の石垣に意図的に配置されたものと思われる
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鷲の門
鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表ロ見付の門で、その造りは脇戸付きの薬医門であった。
幕府に鷲を飼うからと申し立て建造したところから鷲の門の名があると伝えられている。
廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和20年(1945)7月4日早暁の
徳島大空襲によって焼失した。現在の鷲の門は、平成元年(1989)9月27日、徳島市制百周年を記念して、
吉井ツルヱ氏(徳島市出身)より復元寄贈されたものである。
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内堀を巡って駐車場へ向かう
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数寄屋門跡と数寄屋橋
徳島城の鬼門(北東)にあたる 門は旗櫓の櫓下にあった 別名・不明門といわれ凶事以外は閉ざされていた
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数寄屋橋を渡る
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バラ園を見ながら駐車場へ戻る 12:20

徳島県徳島市眉山町 眉山公園

どの方向から眺めても眉の姿に見えることから眉山(びざん)という名が付いた
徳島市のシンボルとして親しまれており 市内にある多くの学校の校歌に「眉山」が登場する
平成16年(2004)に さだまさし著小説『眉山』が幻冬舎より刊行され 平成19年(2007)に松嶋菜々子主演で
映画化され 同年舞台化もされた 平成20年(2008)には 常盤貴子主演でテレビドラマ化されている

古くは万葉集に「如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛」
<眉(まよ)のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて榜ぐ舟 泊(とまり)知らずも>と
天平6年(734)3月 聖武天皇の難波行幸に随行した船王(ふねのおおきみ)が詠んだ歌がある
意は「眉のように遥かに見える阿波の山 その山を目指して漕ぐ船 停泊する港はどことも知れないのだ」で
万葉の昔から 都人にも「阿波の山」として知られていた

一般的に山頂とされるのは 眉山ロープウェイ山頂駅のある標高276.6mの三角点のある展望台付近とされるが
最高地点は 更に直線距離にして約2km西にある標高290.0mの峰である なお最高地に三角点は存在しない
眉山ロープウェイの他に 山麓南を通る国道438号線から 距離3.9kmの眉山パークウェイが通じている
山頂には 劔山本宮・戦没者を慰霊するパゴダ平和記念塔・NHK徳島放送局と四国放送のテレビ塔など
各種電波塔の他 かんぽの宿・徳島もある

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山頂の駐車場
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四国放送眉山テレビジョン送信所
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眉山ロープウェイ山頂駅展望台
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一等三角点「眉山」標高276.6m(掲示板表記:277m)
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パゴダ平和記念塔
第二次世界大戦(太平洋戦争)の戦死者慰霊のために建立された記念塔
昭和33年(1958)に 徳島県ビルマ会が建立 当時のビルマ連邦・首都ラングーンにある
シュエダゴン・パゴダを参考に建設され ビルマから贈られた仏舎利が納められている
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万葉歌碑
船王  如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛  考書
眉(まよ)のごと雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ舟 とまり知らずも  船王(ふなのおおきみ)
海上はるか眉のように美しい阿波の山を称えた秀歌である 作者は第四十七代淳仁天皇の兄宮であり
作歌の時期は天平六年春三月である
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望郷 坂東文夫作
ヴェンセスラウ・デ・モラエス <Wenceslau José de Sousa de Moraes>の像
1854年(安政元年)ポルトガルの首都リスボンで生まれた
ポルトガル海軍士官となりポルトガル領マカオ港務局副司令を経て外交官となり明治22年(1889)に初来日した
明治32年(1899)神戸にポルトガル領事館が開設されると副領事として赴任 後に総領事となり
芸者であった福本ヨネと出会い同棲するが 大正元年にヨネが死没 翌大正2年(1913)に職を辞任引退し
ヨネの故郷・徳島市に移住した その後 ヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが コハルにも先立たれてしまった
晩年は孤独を強いられ 不遇のうちに昭和4年(1929)徳島市で没した
1902年から1913年までポルト市の著名な新聞『コメルシオ・ド・ポルト』に 日本の政治外交から文芸まで
細かく書き著し投稿 文筆家としての片々を覗かしている 退職後 晩年の著書に『おヨネとコハル』
『日本精神』『ポルトガルの友へ』『徳島日記』などがあるが ポルトガル語で書かれたこともあって
ほとんど注目されなかった 彼の死後に翻訳がなされ 外国人が著した日本賛美として注目されるようになった
銅像は 故郷のポルトガルを望むように西向きに立ち 側では愛犬が彼を見つめている
しかし モラエスは どちらかといえば犬嫌いで猫を飼っていたという伝聞がある
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ガゼボ広場からの展望
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ガゼボ <gazebo> 西洋風東屋
ガゼボの語源は定かでないが ヨーロッパ起源のものではないことは確かである
ラテン語の<gazebo>(わたしは見るだろう)という説などが存在するが不確かなものである
このガゼボは徳島市の姉妹都市・アメリカミシガン州のサギノー市から 徳島市制100周年を記念して贈られた

徳島県吉野川市鴨島町鴨島甲 江川・鴨島公園

サクラの名所としてとても有名 200本以上のソメイヨシノや 樹齢120年を超える巨木がある

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親水公園である
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野生のカモ なので近づくと逃げていく

全国名水百選 江川湧水源
ここから湧き出る水は、昭和60年(1985)3月環境庁から全国名水百選として、
剣山の御神水とともに指定されました。江川の水は、すでに昭和29年(1954)8月に水温の異常現象により
天然記念物として、徳島県から指定されていました。
水温の異常現象とは、冬暖かく(約20°C)夏冷たい(約10°C)という現象です。従来、いわれている説では
(1)大正5年(1916)から大正7年(1918)にかけて江川の上流に堤防がつくられその結果、
江川は吉野川本流から分離され、吉野川右岸の湧水となったためという説です。
(2)昭和30年代の地下水の調査によると江川の水は、川島町城山付近から本流と分離して地下水となり、
夏の温かい水・冬の冷たい水が、砂利層を温めたり冷したりしながらゆっくり流れ、半年がかりで
江川付近に到達するという説であり、いまだに定説はありません。

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江川水源 湧水量が少ないためか あまり綺麗ではない
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鴨島公園に続く江川

15:15 江川湧水をあとに阿波の土柱を目指す

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