2019.01.16 徳島県鳴門市撫養町林崎(はやざき) 撫養の散策

飛鳥時代の大宝元年(701)に制定された大宝律令により 畿内より伊予・土佐に至る南海道が整備され
紀伊国加太浦と淡路国由良浦及び淡路国福良浦と阿波国撫養浦の間で通船が開設された
撫養は 阿波・讃岐・伊予・土佐に通じる四国の玄関口として交通の要衝となった
近世には 吉野川南岸を通り松山へ通じる伊予街道の脇往還として 吉野川北岸を通り阿波池田で
伊予街道と合流するまで 撫養街道または川北街道と呼ばれた街道の起点となった
また 撫養街道は四国八十八ヶ所巡礼路でもあり 撫養街道の北側には東から順番に
一番札所の霊山寺から十番札所の切幡寺までが並ぶ 一番札所の霊山寺は撫養から約3里(12km)である

古くより鳴門の中心地として栄え 奈良平安時代には「牟夜」や「牟屋」または「牟野」と記されていた
語源は 舟を繋ぎ止める意味の「もやう」や「むやう」という言葉が転訛した説のほかに
南海道の湊駅として設けられた室屋が転訛した説 霧や靄が"モヤモヤ"している様からの名付け
「む」は沼地・湿地を表し「や」は谷を表すことから地形により名付けられたという説などがある

鎌倉時代には 小笠原氏が阿波守護を任ぜられ岩倉(脇町)を本拠地とし 撫養には砦(出城)を構えた
室町から戦国時代に阿波守護・細川氏の守護代であった三好氏の支配に代わったが
豊臣秀吉の四国攻めにより三好氏が滅亡すると 阿波の守護大名となった蜂須賀家政が
天正13年(1585)に阿波九城のひとつ 岡崎(撫養)城を築き淡路海路の要衝湊としてなおも発展した
江戸時代になっても蜂須賀家による統治は続き 藩の特産物である塩や藍などの積出し湊として栄え
各地から廻船が集まる全国有数の港町であった しかし河川による土砂の堆積が進み
港口付近にも暗礁が多く船舶の大型化が進んだ明治以降は 小松島や徳島港に港湾機能が移され衰退した

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国土地理院空中写真
1.妙見神社(撫養城址) 2.市杵島姫神社(撫養弁財天) 3.撫養街道

藩政時代 林崎と斎田の間を流れる撫養川には 舟三艘と渡守の役人が置かれる舟渡しがあった
橋が架けられたのは明治3年(1870)になってからで 文明開化の受け入れ口として繁栄したことから
文明橋の名前が付けられた 橋にはカヤの木で作った美しい欄干がついていたと伝わる
橋長 55m 幅 7mあり 当時としては特大級の規模で 林崎や岡崎の豪商や庄屋による自費で架橋された
第二次世界大戦前まで 林崎や岡崎は多くの港にあるような歓楽街で 夜ともなると遊び客が橋を渡った
現在の橋は三代目で昭和13年(1938)の建設である 西詰の岸壁に四国八十八ヶ所の紀州有田接待講の
お接待船が 満艦飾でミカンや米を満載し何艘も長期停泊していたのが 昭和初期までの風物詩であった

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昭和36年(1961)の航空写真
妙見山から東へ続く標高100m弱の高台は 元は島嶼部で西側へ続く曽根部に街道がつけられた
それを囲むように現在撫養川と呼ばれる水道が旧吉野川の河口まで続き 街道には船渡しが設けられた
青色部分は 後に土砂の堆積や埋め立てによって陸地となった潟湖であったと思われ北へも広がっていた
岡崎は半島のように突き出た砂嘴で 外海は小鳴門と呼ばれ満干時には渦巻く急流が出現した
古代から中世期までは潟湖に船溜まりがあり その岸辺に弁財天が祀られたと思われる

淡路島南PA 7:15 - 撫養・妙見山公園 8:05

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模擬天守の鉄筋コンクリート造「トリーデなると」
多目的ホール・展望台 土日祝祭日のみ開館 よって今日は閉館日
天正13年(1585)蜂須賀家政が阿波国の領主となり徳島城を本城とし 一宮・撫養・西条・川島
大西(三好市)・海部(海陽町)・牛岐(阿南市)・脇(美馬市)・仁宇(那賀町)に支城を築き
これを阿波九城と称した 重臣を城番として守らせたが 寛永15年(1638)発布の一国一城令により
全ての城が破却された ただし全ての支城に天守は無かったとされている
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小鳴門海峡と大毛島の土佐泊 手前は撫養岡崎
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妙見山公園は別名彫刻公園とも呼ばれる 春は桜が咲いて多くの花見客で賑わう
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妙見神社の鳥居
古城山 千畳敷
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天保元年(1830)に撫養城址に再建された「妙見神社」 祭神は天御中主神
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは 日本神話の天地開闢で最初に登場する神である
明治以前は社名にあるように「妙見菩薩」が神仏混交で祀られていたが 明治の神仏分離令で
妙見菩薩と同一と見なされている天之御中主神を祭神に迎え鳥居を建立し神社とした
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神殿 大甕は鳴門市大谷焼
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鬼瓦の七曜紋(七星紋)は妙見紋
大甕は森陶器工場特品
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大谷焼(おおたにやき)の狛犬

大谷焼は 堅牢で耐水性のある備前・信楽・丹波と同じ須恵器系の炻器(せっき)を生産する窯場である
炻器は半磁器・焼締めとも呼ばれ 陶器と磁器の中間的な性質を持ち 1100~1250度の高温で焼成される
安永9年(1780)四国八十八か所に来た豊後の陶工・文右衛門親子が大谷村山田に来てロクロ細工を披露し
時の庄屋・森是助が素焼窯を築き 蟹ヶ谷の赤土で作った火消壷等の雑器類を焼いたことが始まりである
その後は藩窯となって染付磁器が焼かれていたが 経営が立ち行かず僅か3年で廃窯となってしまった
数年後 藍商人の賀屋文五郎が 旅先で知り合った信楽の陶工・忠蔵を招き
弟の納田平次兵衛に甕造りの技術を修得させ 天明4年(1784)に登窯を築き炻器の生産を始めた
大谷では 相方が寝ながら足で回す寝ロクロを用い 二人掛かりで藍染めに欠かせない大甕を焼いた
この大甕は藍甕と呼ばれ窯元の森陶器には 大甕を焼く国の有形文化財に指定された日本一の登窯がある


妙見神社絵馬堂からの展望

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トリーデなると
妙見神社表参道
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妙見山
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午前9時 階段を登って車に戻る

撫養町林崎から撫養町木津まで旧街道を走る

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市杵島姫神社(撫養弁財天)
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鳴門市撫養町木津 金刀比羅神社

徳島市川内町宮島本浦 阿波木偶人形会館

浄瑠璃と人形劇を融合させた人形浄瑠璃は 淡路で生まれ約500年の歴史があるとされている
鎌倉時代・淡路島に四天王寺の楽人が移り住み その後 室町時代に現れた西宮戎神社の傀儡師であった
「えびすまわし(えびすかき)」から人形操りを教わり 神事を人形で行うようになり季節の行事として
淡路に定着したとされている 室町時代の元亀元年(1570)には 引田源之丞が宮中で三社神楽を奉納し
天皇より従四位下を賜り叙せられたと伝えられている 他に創始者として 西宮のえびすまわし・引田淡路丞や
京に住む浄瑠璃の語り手・次郎兵衛などが伝えられるが どの説も確証は得られていない
江戸時代に入り 貞享元年(1684)竹本義太夫が大坂道頓堀に竹本座を創設し 作者の近松門左衛門とともに
演目としての義太夫節を確立し 人形浄瑠璃の本流となった 元禄16年(1703)門弟の豊竹若太夫が
豊竹座を創立し人気を二分した 享保19年(1734)には3人遣いの操法とその人形が開発され
元文4年(1739)頃には完成された 後に それらが淡路や阿波に逆に伝播され人形浄瑠璃として地に根付いた

徳島に人形浄瑠璃が伝わったのは慶長年間(1596-1615)頃で 淡路島から伝わったとされる
知られている頭作りの職工は 享保年間(1716-1736)の馬之背駒蔵・万芳・利貞
天明年間(1781-1789)の鳴州と弟子の卯之助・近蔵 江戸末期には源兵衛・善兵衛・左兵衛などが見られ
近代へとつながっていくが 明治・大正・昭和にかけ 最も活躍したのは天狗久と呼ばれた
安政5年(1858)生まれの吉岡久吉である 16歳で人形師・若松屋富五郎に弟子入りし
天狗屋の屋号で独立「天狗久」と称して 人形の目にガラス眼を考案し 頭部の大型化を推進した
弟子に天狗弁(近藤弁吉)・久米惣七 また天狗久は 吉岡要・吉岡治と三代続いた

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