2022.03.29 熊本県菊池市隈府 菊池公園の桜

慶応4年(1868)明治新政府の参与となった熊本藩の長岡護美が 菊池氏と加藤清正のために
神社の創設案を建議し 同年7月に太政官政府はこの建言を採択して熊本藩に両者の祭祀執行を命じた
熊本藩は 清正のために熊本城内に加藤神社を建立し 菊池氏のために菊池城址に菊池神社を建立した
菊池神社の鎮座祭は明治3年(1870)4月に行われた 南北朝時代に後醍醐天皇を擁する南朝側で戦った
菊池氏三代を祀り 主祭神は菊池武時とし 武重と武光を配神とした
第二次大戦後は 武時・武重・武光の父子を主祭神に 菊池氏一族26柱を配神としている

菊池公園は一般に 菊池神社の南 菊池市内を見渡せる標高123mの丘に位置する一帯を指すが
厳密には城山公園と菊池公園に分かれる 城山は中世の山城跡で 14世紀後半南北朝時代末期の正平年間に
菊池武政により築城された菊池十八城と呼ばれる城砦のひとつであるが
今でも周囲に空堀跡や土塁跡が残る 隈府城と呼ばれる菊池氏の本拠地となる大規模な城郭であった
菊池氏は九州における南朝方の有力者ではあったが 後に北朝を擁した足利氏の室町幕府より
肥後守護に任じられ隈府は城下町として栄えた

しかし 幕府の弱体化とともに肥後国内の群雄割拠が進み その上菊池氏は家督を巡る内紛を繰り返し
近隣大名の策謀によって衰退して 家督を阿蘇氏や大友氏に奪われ菊池氏の正統は滅亡した

菊池氏の所領は菊池三家老と言われた赤星・城・隈部の各氏が分有し 赤星親家が隈府城主となるが
三家老の一人隈部親永との諍いが起こり 天正6年(1578)佐賀の龍造寺氏と結んだ親永によって
親家の子赤星統家の代に隈府城を追われた 天正8年(1580)隈部親永が隈府に入城した

天正10年(1582)織田信長死後の間隙を狙い 九州制覇を企て北上する島津氏と対峙したが
隈部氏は篭城して島津氏の攻略を不戦でしのぎ 北上を急ぐ島津氏と和睦した上で所領を安堵された

天正15年(1587)島津氏は羽柴秀吉の九州征伐により敗退 肥後一国は佐々成政の支配となったが
隈部親永は またしても隈府城に籠城し秀吉に反旗を翻した為 反乱鎮圧後に隈府城は破却され壊滅した

明治維新後 本丸跡に勤王菊池武時を主祭神とする菊池神社が建立された
第二次大戦後には 国道を挟む神社南部に城山公園が 東部の築地にグラウンドや体育館などが整備され
菊池公園となった 公園には桜やツツジが植えられ 春にはソメイヨシノや山桜など22種・約1万本の
桜が咲き乱れ 続く初夏には 3万本のツツジが開花する花の一大名所となっている

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2008年 国土地理院空中写真
P.菊池神社参拝駐車場 1.菊池神社 2.参道桜並木 3.城山公園展望ベンチ 4.城山公園観月楼
5.菊池公園展望台 6.テニスコート 7.多目的グラウンド 8.菊池市総合体育館 9.東屋(四阿)
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菊池神社二の鳥居と参道桜並木
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城山公園から見る桜並木
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観月楼からの展望
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山桜とソメイヨシノ
昭和天皇 陸軍大演習観覧記念碑
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隣接する住宅地からは 見上げるように桜を鑑賞できる
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幹から直接萌芽したソメイヨシノの花
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山桜の花
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多目的グラウンド 標高1052mの八方ヶ岳を北に遠望
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アスレチック広場
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菊池市総合体育館と東屋(四阿)
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観月楼
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展望ベンチ
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島原半島の雲仙岳を遠望
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圧倒的な数の桜に酔いしれる
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