2017.11.27  晩秋の耶馬渓

10年ぶりに晩秋の耶馬渓を訪れる この時期 深耶馬渓の紅葉も終わり周辺に点在する「景」にも
枯れた冬が訪れる頃となったが まだまだ美しい紅葉の名所が残されている
「立羽田の景・鶴ヶ原の景・内匠の景・宇戸の庄・本耶馬羅漢寺・御霊もみじ」を周回する
立羽田の景 大分県玖珠町大字古後(こご)字立羽田(たちはだ)
日田から県道48号日田玖珠線・407号白地日田線を経由し高花から古後の平原に抜け
県道43号玖珠山国線を南下して「立羽田の景」に至る
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銀杏はまだ少し青い
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鶴ヶ原の景 大分県玖珠町大字山下字坂ノ上
立羽田の景から南へ約3.5km 池まで車で行くことが出来るが離合もできない細道である 駐車場なし
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岩山に囲まれた景勝地で 嘗ては 元森藩々主久留島家の別邸があったと云われる
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内匠の景 大分県玖珠町大字太田字内匠(たくみ)
内匠(たくみ)長者の伝説と内匠の池
内匠地区のほぼ中央の高台に、当時の繁栄をしのばせる広大な屋敷跡がある。”遠い昔、飯田高原干町無田では
長い日照りに村人たちが大変苦しんでいた。この村人と朝日長者を救おうと、龍神に身をささげて雨を乞うた
朝日長者の三女千鳥姫。その孝心の厚さと深い慈愛の心に龍神は感動、老婆に変身して姫を救う。
奢りを極め、没落寸前の長者の下には姫を帰さず、内匠の長者館へと導き、下女として仕える事をさとして去る。
下女として仕えるうち、見初められて内匠長者の嫁となり、長く繁栄の礎を築いたという。
その長者屋敷から右手に1km余りに旧森藩内では最も古いと思われる人工池が二つある。
この二つ池が内匠の池である。旧森藩時代、領内には数多くの溜池が造られ、この記録が残されているが、
この内匠の池だけは何故か修理の記録だけしか残されていない。
江戸蒔代、藩主久留島公もしばしばこの池で遊覧し、力モ猟などを楽しんだという。
(玖珠川歴史散歩より)
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下池
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屏風ヶ岩
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屏風ヶ岩
養専寺のモミジ 大分県玖珠町大字太田字鳥屋(とや)
来た道を戻り馬勢から北へ鳥屋を目指す 鳥屋は玖珠町の北端にあり戸数12戸の小さな集落である
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養専寺の大クスとイロハモミジ
クスノキは 樹高22m・胸高樹囲4.4m・枝張り南北21mで 玖珠町内で最も大きく
玖珠の地名はこの樹に由来するといわれ 横にあるイロハモミジも含め貴重なものである
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玖珠町立八幡小学校鳥屋分校
明治30年(1897)開校 昭和63年4月休校 現在は集会所として利用 本校は南5.8kmに現在もある
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屋根の隅瓦は大黒様
休校中なので看板はそのまま
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宇戸の庄 大分県玖珠町大字日出生(ひじう)字宇戸
県道43号に戻り平井から広域農道を経て県道28号へ出る 再び南へ下り八重垣三差路を左折し国道387号線へ
宇戸の庄への標識を見て片草から 県道602号深耶馬玖珠線に入る
県道602号の片草から宇戸の庄を経て錦谷までは 初めて通る道である
国道を直進しても「東奥山七福神の展望所」を過ぎた辺りで宇戸の庄へ行く道に出会うが 細道である

片草の景色
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森川の紅葉
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内松の景色
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谷川内の岩峰
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宇戸の庄
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岩山に囲まれた 七福温泉 宇戸の庄
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鬼の摺り臼
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七仙岩
宇戸の庄から渓流に沿って離合困難な道を北上 錦谷を経て岩屋へ
県道27号耶馬渓院内線の交差点を直進し 広域農道を通り本耶馬渓町の西谷へ
奈女川上流 一枚岩の河床
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広域農道の景色
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中津市本耶馬渓町大字西谷字山ノ内  晩秋に咲く 四季桜
本耶馬渓町の 西谷からは 広域農道耶馬渓東部線を経て国道500号線の椿入口へ
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東谷三ヶ村
曹洞宗 羅漢寺 中津市本耶馬渓町大字跡田
国内羅漢寺の総本山 無数の洞窟がある羅漢山の中腹に位置し 山門・本堂も洞窟中に建てられている
また 洞窟の中に3700体以上の石仏が安置されており 中でも無漏洞の五百羅漢は日本最古のものである
無漏洞の釈迦三尊像及び五百羅漢像などの石仏群は 国の重要文化財に指定されている
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仁王門と紅葉
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参道の紅葉
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古羅漢
名勝耶馬渓のうち古羅漢の景(大正12年国指定)
参詣道を登れば、眺望のよい天然の空洞に菩薩など数体の石仏と像高220cm余の毘沙門天磨崖仏を祀る。
昔、空也上人が錫を止めた所と伝えられ、古来より羅漢寺とともに修禅の道場でありました。
空洞の上部を天人橋と呼び、最高所を飛来峰と云う。岩上に室町初期の造立と推定される県指定の国東塔がある。
総高226cm、塔身に木造の毘沙門天像があった。経路の途中に雲僊窟、地蔵窟が散在、
天正の頃、大友軍との戦いがあったと伝えられ、多数の宝塔、五輪塔群が埋もれています。
本耶馬渓町教育委員会
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本耶馬渓
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競秀峰と青の洞門
中津側から一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰・恵比須岩・鬼面岩・妙見岩・大黒岩(帯岩)・殿岩戸・鉾岩
釣鐘岩(筍岩)・馬ノ瀬・陣ノ岩・紅葉谷・八王子岩などが連立する
青の洞門は 寛延3年(1750)に部分開通し 全開通したのは宝暦13年(1763)であった
旅の途中に立ち寄った禅海和尚が 断崖絶壁の桟道から転落死する通行人を見て
競秀峰に隧道を通すことを思いたち托鉢勧進によって掘削の資金を集め 石工を雇ってノミと槌だけで
30年かけて掘り抜いたと伝わる ただ 寛延3年の部分開通後は 通行人から4文 牛馬8文の通行料を
徴収したと伝わり 日本最古の有料道路ともいわれる 完成当時は「樋田の刳抜」(ひだのくりぬき)と
呼ばれていたが 江戸末期から大正時代にかけて「樋田のトンネル」や「青の洞門」と呼ばれるようになった
江戸時代 歌川広重の『六十余州名所図会』には「豊前 羅漢寺 下道」と題してこの洞門が描かれている 
明治39年(1906)から翌年にかけて 陸軍日出生台演習場への輸送路整備のために拡幅改修され
完成当初の姿はかなり損なわれたが 今でも明かり採り窓の一部などに手掘りのノミ跡が残っている
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三ノ峰・恵比須岩・大黒岩(帯岩) 大黒岩には鎖場がある
青の洞門が開通する前は競秀峰を越える道は「鎖渡道」と呼ばれ 危険きわまりない難所であった
岩の側面に穴を穿って丸太を差し込み先端を鎖で繋ぎ桟道としていた その道を人も馬も通った
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<上>鬼面岩・妙見岩・大黒岩
<右>釣鐘岩(筍岩)
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