2009.09.19/2012.06.12 豊後街道 今市宿

旧・豊後国大分郡野津原村今市
今市は 七瀬川と芹川との間に位置する標高450mの台地にある集落で 古くから物資の集散地であった
文禄3年(1594)中川秀成が 岡藩7万石の領主として入部し今市も岡藩の所領となった
やがて岡藩は 野津原村以西の肥後街道を参勤交代道路の一部として利用するようになった
今市が宿場として整備されたのは慶長年間(1596〜1615) のことで 庄屋伝兵衛の祖先が藩命により
開発したと伝えられている 岡藩のお茶屋は 元禄8年(1695)上町に移されて
西の御茶屋と呼ばれるようになり延享元年(1744)には廃止となった
熊本藩の御茶屋は 寛永10年(1633)下町に移転した
宿場の東西には上構・下構と呼ぶ門があり 役人が警護に当たっていた
宿場内の石畳道路の総延長は660mで 幅員は8.5m 石畳幅は2.1mとなっている
宿場中程の西の熊本側は 戦後の大火で多くの家屋が失われた 後に再建された家屋は
通りから離れた位置に再建されたため 町並みには街道の雰囲気を残してはいない
街道は 信玄曲から東の大分側に古の佇まいを色濃く残している
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2009年に訪れたときは残暑厳しい日 再度訪れた2012年は梅雨の真っ只中であった
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丸山八幡神社楼門
 丸山八幡神社の楼門は江戸時代の享保5年(1720)に創建されたものである。今市在住の豪商であった
松田庄右衛門尉長次が父母の長命、子孫繁栄を祈願して、神社に楼門の寄進を思いたったという。
最棟高は8メートル余り、入母屋造の銅板葺唐破風付である。この近郷にまれな立派なもので
豊後における数少ない楼門の1つである。記録によればその後、文化10年(1813)、天保2年(1831)、
安政2年(1855)に屋根葺替修理をしている。最近では一昨年の平成3年(1991)に全面修築を行った。
この楼門には創建当初の彫刻とみられる、数々の彫刻が施されている。内側面に透彫りで酒造りの過程、
24孝(中国で古今の孝子24人を選定したもの)の人物や12支の動物などが巧みに彫られている。
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楼門に比べ 質素でこぢんまりした本殿
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石畳西端 肥後側の下構から見る
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信玄曲がりから見る肥後側の石畳道
戦後の大火で家屋は新しく控えて建てられ道に面していない
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万生寺地蔵堂
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のつはる物語 帰りたがったお地蔵さん
昔 今市の摺の田の畦に石のお地蔵さんが立っていた そのお地蔵さんは 珍しく女のお地蔵さんだった
田の畦で雨に濡れているのを見て 村人たちは可哀想になり半里離れた隣村の万生寺の男地蔵の傍に
移すことにした 村人たちが万生寺の和尚さんに話すと「それはいいことだ。」と大乗り気で
村人たちは早速お地蔵さんを運ぶことになったが いざ運びかけるとその重たいこと
五・六人で抱えてもびくともせず 二・三十人がかりでやっと抱え揚げ
半里の道を何時間も掛け ようやく万生寺に運ぶことができた
その日の真夜中 和尚さんが寝ようとしたとき どこからか女人の泣き声が聞こえてきた
不思議に思い外に出てみると 人の姿はどこにも見当たらず 「おかしいこともあるもんじゃ」と
泣き声のする方に行ってみると なんと 摺の人たちが連れてきた女のお地蔵さんが
「摺に帰りたい 摺に帰りたい」と言いながら泣いていた
和尚さんは「二・三日もすれば慣れるだろう」と思い そおっとしておくことにしたが
一日たっても 四日たっても いっこうに泣き止むことがなかった
あまりの事に不憫に思った和尚さんは摺の人を呼んで 元のところに返してやろうと思った
これを聞いた摺の人たちは 運んで来る時のあまりの重さに怯み できることなら「そのままに」と
言ったが 和尚さんがあまりにも「返してやれ」と言うので 摺に連れて帰ることにしたら
あんなに重かったお地蔵さんが いったいどうしたことか たったの二人でかついで帰ることができた
このようにして 元のところに戻ったお地蔵さんは 今までと違ってほほえんだ表情に見えた
そして 摺の人たちにいつまでもかわいがられた
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信玄曲りから西 肥後側
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肥後側 信玄曲り
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枡形道の信玄曲り
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信玄曲り豊後側
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旅籠前の石畳
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大分側の石畳 肥後側を見上げる
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大分側の石畳東端から
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路地の石畳
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側溝の石積
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小倉屋敷前
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御客屋跡 挿絵では木賃宿
御客屋跡の井戸
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豊前屋(旅籠)跡
側溝の石樋
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火防薮床跡の資料館と休憩所・トイレ
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浄土真宗 安楽寺参道
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