2014.03.16 鹿児島県霧島市国分中央2丁目5-1 国分舞鶴城朱門橋

<地図>
国分城は 慶長9年(1604)から慶長16年(1611)まで 島津義久居住の屋形城であった
天正15年(1587)の秀吉九州征伐後 秀吉政権は弟の義弘を事実上の島津家当主として扱った
文禄3年(1594)義弘に鹿児島主要地が宛行われ 義久の直轄地は大隅国や日向国諸縣郡に置かれた
文禄4年(1595)それまで居城としていた鹿児島城を退去し 隼人に屋形を築き富隈城とし居住するが
これは秀吉政権による事実上の隠居強制であったが 島津家内の実権は義久にあった
関ヶ原合戦(慶長5年)後の慶長7年(1602)に家康の命により 家督を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが
 義久・義弘・忠恒による領地支配を「三殿体制」と呼び 藩内に少なからず混乱と軋轢を生じた
義久は隠居に際し新たな居城として国分城を築き また寒村であった国分を京に倣い碁盤目の路地を敷き
明国より商人を招いて「唐人町」を作るなど 国分城下町を整備発展させ 慶長16年(1611)に死去するまで
大隅国を実質的に支配及び経営した 慶長16年(1611年)に義久没後は 島津家久(忠恒)の正室であった
義久の娘・亀寿姫が鹿児島城より別居させられ移り住んだ 寛永7年(1630)の亀寿姫没後は藩主直轄の地となり
地頭屋形がおかれていた その後は薩摩国・大隅国の境に位置するという好条件から 薩摩藩政所の国分城への
移転が幾度も計画されたが 実行されることなく明治を迎えその後は 姶良郡国分尋常高等小学校がおかれた
国分小学校の周囲に石垣と堀が残り 旧国分城南門で藩士屋敷に払い下げられていた「朱門」が移築されている
img
朱門と石橋
img
img
img
二重輪石
img
 TOP