2011.12.23  愛媛県松山市保免西2丁目  日招八幡大神社門嶋橋

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日招八幡大神社(ひまねきはちまんだいじんじゃ)
松山の八社八幡の五番社。祭神は、品陀和気命(応神天応)、息長帯姫命(神功皇后)、宗像三女神である。
社伝によると崇峻天皇2年(589)に国司越智益躬(小千宿祢益躬)が筑紫国胸肩(宗像)から
門嶋の森に比淘蜷_(宗像三女神)を勧請し、門嶋比盗_社或いは門乃神社と称えた。
大同年間(806〜810)大納言雄友卿が痘瘡を患って、この社に祈り平癒したので、
伊予痘瘡宮として民間の信仰を集めた。
元慶年間(877〜885)に八幡神を合杞し、石清水八幡宮と号したという。
元暦元(1184)年、佐々木四郎高綱が入国し、砥部荏原の城主森山、大野の一族と戦った時、
勝利直前に日が西に傾くのを嘆き、八幡神に祈願をして太陽を呼び返し大勝した。(日食のことでは?)
高綱は、日招八幡宮と改称し、社殿の改築、神領の寄進をしたと伝えられる。
「伊予古蹟志」では、高綱ではなく、佐々木三郎盛綱のこととしている。
松山城築城のとき、石を頭に載せて松前から運んだ「おたたさん」のひとりであるお豊さんが、
この地まで来て倒れた。そのとき運んでいたという、丸の中に二の字の印を刻んだ大きな石が境内にある。
松山市  松山市教育委員会
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境内一帯は「門嶋ノ杜」と呼ばれていたので「門嶋橋」という名が付いた
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架橋年月 昭和九年(1934)十月吉日
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