明治30年10月1日開業 明治40年(1907)8月20日改築竣工現在に至る
南海鉄道
明治28年(1895)8月25日 設立され その母体となったのは阪堺鉄道であった
阪堺鉄道は 日本鉄道・東京馬車鉄道に次いで 明治17年(1884)に日本で3番目の私鉄として設立された
明治16年(1883)に廃止された釜石鉱山鉄道の資材を流用し
明治18年(1885)には難波−大和川間を開業した 南海鉄道は 阪堺鉄道の全事業を譲受して
明治30年(1897)に堺ー尾崎駅間を延伸開業した 浜寺駅もそれに伴い開業した
明治36年(1903)和歌山市駅まで延伸し全通となり その後 明治40年(1907)に複線化及び電化を行い
浜寺駅も改築され 明治40年(1907)8月20日に竣工し 駅名も浜寺公園駅と改名され現在に至る
私鉄最古の建造物で 設計は東京駅の設計で知られる辰野金吾博士が所属した辰野・片岡建築事務所である
木造平屋建てのハーフティンバー様式と呼ばれる柱や梁を表に現した洋風駅舎である
平成10年(1998)に国の登録有形文化財に登録されている
2014.02.10 南海本線・浜寺公園駅 所在地:大阪府堺市西区浜寺公園町2丁188
車寄せ
駅務室
浜寺公園 ステーションギャラリー
改札天井
古レール使用のホームの覆い屋根
団体改札口
団体改札口建屋
浜寺公園
古代 住吉大社の前まで海であった時代の岸辺道が 近世には豊臣秀吉によって住吉街道として整備された
江戸時代に入ると街道は岸和田城下へと伸び やがて紀ノ国和歌山城下へと至る街道として整備管理された
この街道の西側には白砂青松の浜が 北は諏訪ノ森辺りから南は二色浜まで続いていたとされる
特に石津川から助松辺りまで松林が厚く繁り 高師浜(たかしのはま)と呼ばれる名勝地となっていた
この松林は宝永年間(1704−1711)に 大鳥郡の船尾・西下・東下・山内下・今在家の5ヶ村の住民らが
防潮のために植えたものが始まりとなっている この5か村 元は天領であったが
延享4年(1747)に徳川吉宗により田安家が興されその領地に充てがわれた
倒幕後の明治元年(1868)に 田安家が新田開発を計り反対を押切って松林を伐採した
明治6年(1873)当地を訪れた大久保利通が伐採停止を裁断し 堺県令によって通達されたが
松は約850本にまで減少してしまった 明治6年(1873)12月に日本最古の公立公園として開園された
明治38年(1905)浜寺公園の南に隣接する地に 日露戦争でのロシア兵俘虜収容所が建てられた
浜寺公園
古代 住吉大社の前まで海であった時代の岸辺道が 近世には豊臣秀吉によって住吉街道として整備された
江戸時代に入ると街道は岸和田城下へと伸び やがて紀ノ国和歌山城下へと至る街道として整備管理された
この街道の西側には白砂青松の浜が 北は諏訪ノ森辺りから南は二色浜まで続いていたとされる
特に石津川から助松辺りまで松林が厚く繁り 高師浜(たかしのはま)と呼ばれる名勝地となっていた
この松林は宝永年間(1704−1711)に 大鳥郡の船尾・西下・東下・山内下・今在家の5ヶ村の住民らが
防潮のために植えたものが始まりとなっている この5か村 元は天領であったが
延享4年(1747)に徳川吉宗により田安家が興されその領地に充てがわれた
倒幕後の明治元年(1868)に 田安家が新田開発を計り反対を押切って松林を伐採した
明治6年(1873)当地を訪れた大久保利通が伐採停止を裁断し 堺県令によって通達されたが
松は約850本にまで減少してしまった 明治6年(1873)12月に日本最古の公立公園として開園された
明治38年(1905)浜寺公園の南に隣接する地に 日露戦争でのロシア兵俘虜収容所が建てられた
旧堺南警察署浜寺公園派出所 建築:昭和7(1932)年 設計:平林亀五郎
浜寺は 南北朝時代に建立された大雄寺が南朝拠点となり 吉野山の日雄寺が「山寺」と呼ばれたのに対し
「浜の寺」と呼ばれたことに由来している 浜寺町や高石町一帯は 大正から昭和にかけて別荘地となり
大阪毎日新聞社と南海鉄道が浜寺海水浴場を開設し 夏は海水浴客で賑わった
昭和20年(1945)から昭和33年(1958)までアメリカ駐留軍に接収され 返還後は僅か3年を経て
泉北臨海工業地帯の埋立造成が始まり 松林の先にあった海岸は姿を消した