右田井路は当初舟来(フナコ)井手と呼ばれ 南部を東西に流れる野上川から取水し 水路延長 13.951km
受益面積 71.3haの農業用水路である 舟来井手は 明治3年(1870)酒造業を営む麻生東江と嫡男豊助により工事が始められた
しかし公的資金を得ることが出来ず 地元から資金を募り工事を開始したが 硬い岩盤に阻まれ 隧道堀削が50ヶ所を越える
難工事であった 明治6年(1873)に一部通水したが 水量が予想を大きく下回り失敗であった
工事は中断となり東江は借財返済に追われ 本業の酒造業は廃業となってしまった
その後明治13年(1880)に 東江は15歳になった日田草野家の五男・観八を養子に迎え入れた
観八は 酒造業を営む草野家の五男として生まれたが 実家は米相場で失敗して倒産 家業の再興を願い
玖珠の造り酒屋で修行に励んだ この観八の姿に目をつけたのが東江であった
以来 舟来井手の開発に失敗し没落した麻生家を再興すべく 観八は明治18年(1885)に酒造免許を獲得 杜氏仲間の鹿太郎と
酒造りに没頭し 二人の名前から銘々した清酒「八鹿」の生産を開始した 家業であった酒造業を見事麻生家で果たした観八に
東江は 自ら成し遂げられなかった井手の完成を託すのである 観八は満を持して 明治30年(1897)に工事を再開し
10年の時を経て 明治40年(1907)水路はついに完成した